デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



春の雪




ご覧の通り、3月29日の夜から3月30日未明(朝方?)にかけて、雪が降った。私の地域では、もう4月になろうとしている時期に積雪があるのは珍しい。しかし一生のうち何度かはこういったことがあるのやもしれぬ。
朝、桜の花の上に雪が乗っかっているのを少し見たが、きれいには見えなかった(笑)。


3月27日

ちなみに↑が三日前の様子である。春は天気が荒れやすいと改めて思った。


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フランク・キャプラ監督の映画と言えば『素晴らしき哉、人生!』であろうという人もいるだろうが、『或る夜の出来事』も監督の代表作である。
作品は『素晴らしき哉、人生!』よりも12年前に公開された(1934年)。クラシック映画の歴史には疎い私だが、この『或る夜の出来事』は当時の典型的なラブコメにひねりを加えただけでなく、ロードムービーのさきがけとしても評価されていいように思う。
ところで人間の技術は日進月歩というが、この作品を見てそれをあらためて感じた。というのは映画史上の事件として1929年のトーキーの誕生があるが、『或る夜の出来事』はトーキー誕生から5年しか経っていないのである。5年でトーキーの魅力を充分に生かし、ラブコメやロードムービーの典型のような作品が誕生しているとは、驚き以外のなにものでもない。

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弊ブログを平素よりご愛顧いただき、誠にありがとうございます。

1月上旬のことでしたが、神奈川近代文学館から、弊Webサイトのこちらのページ内にある「『罪と罰』の舞台1」の写真を、展示会で使用させてほしいとの連絡がありました。
写真は今年3月16日~4月18日にかけて開催中の「没後100年二葉亭四迷展」で資料として展示されていますが、そのお礼として文学館から二葉亭四迷展の招待券をお送りいただきました。
そこで、平素より弊ブログをご愛顧いただいている方に、招待券をプレゼントさせていただこうと思います。
招待券希望の方は送付先と希望枚数を明記の上、お気軽にこのブログの左のプロフィール欄にあるメールアドレスへご連絡くださいませ。私が他で使っているメールアドレスをご存知の方は、そちらでも問題ございません。
なお招待券は6枚ストックがございますが、無くなり次第締め切りとさせていただきます。

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オカメ桜以外の桜をたまたま撮ることができたのでアップしようかと思っていたが、こちらこちらのニュースが流れた以上、これらの記事について触れたい。(ちなみにアメリカABCのやり過ぎた映像についてはこちらの記事がある。)

乗り物の一部に不具合が生じ、適合する部品が見つからなければ自分たちでつくってしまうような国も旅してたこともあり、この一連の騒ぎはある意味、始末の悪い茶番のような気がしていたが、真剣な話、二月下旬の公聴会からまもなくしてこちらのような記事が出ていて、ある意味ホッとしていた。
もちろんライカー氏の言ったことがすべてではない。しかしなぁ、フタを開けてみれば該当のマシンは正常であり、大山鳴動してネズミ一匹でなかったようなことになれば、大山鳴動させた、この問題の言いだしっぺや日米のマス・コミやNHTSA(米運輸省道路交通安全局)、アメリカ議会は、どう責任を取るつもりなのかね?
マス・コミのなかにはトヨタの顧客離れを報道するところもあるが、私は世界中の良識あるユーザーがトヨタ以外の自動車メーカーも検討し、どのメーカーを選ぼうがいろんな意味でまともな対応をするメーカーの車を選んでくれることを祈るばかりである。

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午前、布団を干した。
昼頃、たのしみにしていたスカイプが、回線の不具合のために途中で中断せざるを得なくなった。
残念な気持ちのまま午後、雑事をこなした。
布団を叩いて部屋にしまいようやく出かけられた。
ギターの練習場所でジョン・レノンの曲を弾いた。
二人の外国人と通訳の人が音を聴いて声をかけてきた。
私はその曲を演り、外国人も口ずさんでくれた。
3人から拍手をもらった。
別の場所でウクレレを練習していた知人にそのレノンの曲がウクレレでもいけると教えた。
知人は目を瞠って驚いてくれた。
夕方からのアマチュア落語会に行って笑ってきた。
帰り「オカメ桜」という少し早めに咲く桜が見れた。
思わぬ形で嬉しいことが途切れることなく起こった休日だった。




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『アフリカの日々』を書いたイサク・ディネセンは短編も書いている。『バベットの晩餐会』は短編の中でもとりわけ輝く一編ではなかろうか。

『バベットの晩餐会』は映画にもなっていて、1987年公開・1988年度アカデミー外国語映画受賞作である。それを見た感想である。
私は先月、小説を原作にした映画で、原作に肉薄した映画はこれまで見てきた中で『ベニスに死す』しかないと書いたが、『バベットの晩餐会』も原作に肉薄した、いや超えてるかもしれない作品だと思った。(やっぱり文芸ものの映画には、長編小説よりは短編小説の方が圧倒的に向いている!?!?)
映画は、言葉に表し難いが、ジワジワっと感動を覚える作品である。作品の雰囲気は辺境の厳しい自然の中にある敬虔な村人たちのごとく、言葉は少なめで常に自然の音しか聞えないような感じなのだが、だからなおのこと牧師の説教や登場人物たちの厚い心がこめられた言葉、手紙の内容がジワリと心に響く。
しかしその内容はかつて宗教的権威をやや強めに用い、村に尽くした牧師の説教の内容が繰り返されているに過ぎない。しかし、牧師の二人娘フィリッパとマチーヌを巡る人々の、各々の生涯、何十年もの時を経て再会したときの感慨のみならず、若い頃にかつて後悔したかもしれないエピソードがあればこそ、昔の牧師の言葉が、個々の経験を通し心の中に甦り生きるのである。
バベットが催す晩餐会は、村人やゲストにかつての牧師に思いを馳せるお膳立ての役割を演じたわけだが、その場面で料理人にとっての最高の仕事というのは、晩餐会の出席者の舌を満足させるだけでなく、料理によってその場の空気を和やかに心温まるものにするという理想も描かれている気がする。
ところで、映画には原作にない、ちょっとしたシーンがユーモアに満ちていておもしろかった。村の人々(信者)はおおよそ世俗の幸せとは縁遠い人たちとして描かれていて、姉妹も年金の利子や自分たちの料理を貧しい人々に分け与えているという設定の下でのちょっとしたシーンなのだが、バベットが村にやってきて何年も経ってから、バベットが2週間ほど暇をもらい旅に出ている間、姉妹の作ったかつて食べ慣れていたはずの料理を口にした貧しい人の表情が曇るのだ。
この人間の性(さが)は、晩餐会が始まる直前の出席者の決意

「…気高い精神的なことを話すほかは、舌を使わないようにするのだ。そして味覚のほうは、働いていないように振舞うのだ」

すら無言のうちに忘れさせもする。いい料理が人の心身にもたらす影響は思う以上に大きいのであった(笑)。

  ***

原作者の名の日本語表記はディーネセンやディネーセンもありますが、弊ブログでは実際の発音に近いディネセンと表記します。

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『トム・ジョーンズ』は第三巻に取り掛かったものの、最初の三ページぐらいで止まったままである。

『アフリカの日々』以来、読書は停滞気味だが、読みたいと思った作品がちょっとこれまで読んだ作品とは質的に違う気がするのである。
ちなみに読みたいと思った作品には、フォークナーの作品やフエンテスの作品も含まれるわけだが、ヨクナパトーファ・サーガとか、メキシコとアメリカの過去の戦争の話とか出てくるので、教科書でほぼ習わないといっていいような予備知識がかなり必要になってくる。また小説の手法的なものを読み解くまで、普段使わない頭を無理やり使わねばならない感じで厳しい。
しかしこれも背伸びの対象なんだろうなぁ…と思いつつなんとか読み進めたい。

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性懲りもなくまた神社へ。



根っからの写真愛好家なら一つの地点に毎日通う人もいるのかもしれないが、私の場合は無理なので、空模様の変化が激しいときに行ければなぁと思う。でもなかなかそういう日って訪れないよな…。

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ちょっとした機会から、日本で制作されたTV番組(物語)を、音声は日本語しかし英語字幕が表示される状態で見るという奇異な体験をした。

その番組はちょっとオカルトが入った内容で、時に凄惨な描写があるもののモンタージュを意識したような独特の映像タッチや、セリフの言い回しで人気がある作品のようなのだが、私が見たものに限っては、日本語の音声のスピードが1/2で、通常スピードで動く登場人物の口に合わせた英語字幕はそれと同期していた。
この作品のエピソードは、土地勘がある筈の所在地めざし、そこへ向かっても何故か辿り着けず、どういうわけか携帯電話のGPS機能すら突然不良になり、その原因がこの世のものではない、かたつむりのお化けの存在のせいであり、目的地に辿り着くにはいかにすればよいか?というところで終っている。
しかし、私は作中では5分の説明ですら長く感じられそうな、これだけのエピソードを、1時間かけて見たのである。なぜそんな手間をかけたのか、それはゆっくりすぎる音声を聞きながら、展開を把握するため必死に登場人物の口に合わせた英語字幕を読み、時には英単語を調べるために一時停止を繰り返していたからである。
だが、その視聴方法は思わぬ効果を私にもたらしたのだ。というのは、このエピソードのスタッフロールが流れる直前に、恐るべきセリフがしっかりと、"1/2のスピード"で聞き取れたからだった。

「 わ た し は 蝸 牛 の 迷 子 で す か ら 」

私は正直、背中にゾクっとするものを覚えた。

これをお読みのみなさんは、「どうして音声がおかしいのに、すぐに正常な分で見直さなかったのか?」と思うかもしれない。(大丈夫か?といわれるかもしれないが、)実は私は「おかしい」とは思わなかったのだ。
なぜならこの物語の冒頭にあからさまに「蝸牛」という言葉が、意図的なサブリミナルとして用いられていたからだ。私はこのエピソードの作者が視聴者に"かたつむりの視点"を提供したのだと解釈した。映像の方は人間の生体としてのスピードを、音声の方でカタツムリの生体としてのスピードを、24分ぐらいの時間の間に"同時に"表現したのではと思ったのである。つまり、この場合の字幕で繰り広げられた会話は、視覚のみにしか伝わらなかったわけだから、カタツムリからすれば、人間の言っていることなど、大した関心事項ではないと、示唆していないかと。

おそらく私は、カフカ作品、村上春樹作品、ヌーヴェルバーグの映画、ミステリー・ゾーンなどの幻想怪奇ドラマ、SF小説・ドラマ、某超監督の影響もあって、音声の不良のものを見てすら、変な感覚(不快ですらある)を覚えつつも、それがたまたまストーリーを予告するサブリミナルと(私の中で)合致した、必要以上に難しい解釈をしてしまったのだろう。これら↑の内容は、最近の言葉で言うと「電波」なことを書いてしまっているように思われるかなぁ(笑)。
ところで、『ドン・キホーテ』で、ドン・キホーテが風車や羊の群れに突撃する話は有名だが、彼が突撃したときの気持ちって、今の私のこんな感じだったのかもしれない。もちろん、現実世界で車に乗っているときにそんな気持ちになるのは、危険きわまりないことは分かっている(笑)。しかし、今回の神がかり的?な視聴エラーによって私の中で広がった拡大解釈は、私だけの稀有なしかし何物にも替え難いパラダイムシフト体験であったことは間違いないと思う。高速で移り変わるモンタージュが鑑賞者に意味を与えるならば、低速の描写で鑑賞者に意味を与えられる可能性も充分に考えられるではないか。

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