デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 

















大谷吉継の墓はこの時に訪れたことがあるので、今回は陣跡に行った。陣跡のまでのルートについてはよく予習して行かなかったにもかかわらず、分かりやすい形の案内サインが充実していたこともあってたどり着くことができた。
大谷軍は電柱にもあるとおり、寝返った小早川秀秋の軍勢を迎え撃ち三度も追い返したが、さらに脇坂安治も寝返り大谷軍の側面を攻撃したことで軍は壊滅した。


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マルクス・ガブリエル/著 マイケル・ハート/著 ポール・メイソン/著 斎藤幸平/編 『未来への大分岐』(集英社新書)読了。

ショッキングな内容だった。
モノの需要よりも生産技術の向上によってモノが溢れかえった潤沢な社会、限界費用がゼロになる社会になりつつあるのに、これまでの産業資本主義を維持するために莫大な債務が発生していることが分かっているのに止められない。時代が進み産業資本主義が終焉を迎えつつあるのに、これまでの資本主義から転換を図ろうにも変化をよしとしなかったり変化を恐れるあまり、自分にとって都合のいい相対主義に陥り、目の前の問題を「誰かのせい、他国のせい」にしようとする政治家を支持してしまう。
この本で語られた内容や対談している4人の識者の思いを矮小化どころか整理にはなっていないといわれるかもしれないが、このようなことだろうなと実感してしまった。
若い頃、私は雇用を増やしたいならワークシェアリングと労働時間を短縮と世の中で機械が行っている労働を不便を承知で再び人間がやるようにすればよいと思っていたが、事はそう単純なものではないことがこの本を読んで更に身に沁みる。さらに人類に危機をもたらしている気候変動や地球環境の問題に取り組むには、無くなった海岸の砂浜を他国から輸入した砂でもって「再生」させれば事が済むわけではない。
畢竟、

 とくに晩期のマルクスの自然科学ノートを読むとわかるのは、彼が懸念し、関心をもって取り組んでいたのは、利潤の最大化を第一目的とする資本主義においては、持続可能な地球の管理は不可能だ、ということの証明だったのです。
p72


我々が発展させていかなくてはならないのは、地球との新たな関係だ。人々がともに地球に対してケアを行うという、今までとは違った関係を地球と結んでいかなくてはならないのだ、と。
p76


たしかにそうなんだけどなぁ…。
政治でしか世界を変えられないという発想にしがみつくことしかできないことを自覚するのはつらいが、政治主義・制度主義に陥ったまま、産業資本主義を維持するために資源を浪費し続ける社会に警鐘を鳴らしているのはよくわかる。また人間はものの捉え方や思考の面でもヴァージョンアップできることをこの本は教えてくれるように思う。


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安土城跡からほど近く

















戦国時代に日本にやってきたポルトガルとスペインの宣教師たちのミッションは、戦国大名に武器を売り利益を上げ、キリシタン大名を足掛かりに日本をキリスト教国へと改宗・変心させ、日本の銀をヨーロッパに持ち帰ることだった。
既に天下布武の印を使用していた織田信長といえど南蛮文化の取り入れには宣教師の存在を無視することはできず、そのこともあって宣教師たちはキリスト教の庇護を得るのに成功した。
1580年、教会建設用地として信長から下附され、オルガンティーノ神父がキリシタン大名の高山右近の援助を受けて住院を建てた土地がここである。住院は間もなくカトリック小神学校(セミナリヨ)として使われる。
授業科目は、日本文学、キリスト教理、ラテン語、修辞学、音楽などで、音楽の授業で少年の奏でるオルガンを信長が聞きにきていたと伝わっているという。セミナリヨではのちに長崎で殉教した26聖人の一人三木パウロも学んでいた。
1582年本能寺の変で信長が死するや、セミナリヨの建物は明智軍によって廃墟になった。


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またしても、内田樹 著『映画の構造分析』 (文春文庫) 内で紹介されている映画「大脱走」についての記述に影響されて、再鑑賞したものの「はて?」と疑問符がついたことの覚書である。作品を再鑑賞すると、なんだかシリアスとコミカルさが無駄なく散りばめられたほのぼのとした映画だなぁという印象を強く持った。

作品で描かれる時代は、ラストの更迭された収容所所長のセリフ「ベルリンに先に行けるのはどうやら君の方だ」からすると、もう第二次大戦末期であることが分かる。私が予備知識なしに鑑賞した時には作品内ではおそらくノルマンディー上陸作戦の直後かそれ以降に脱走が行なわれたと思った。(ちなみに原作ではノルマンディー上陸作戦の前の冬に脱走が行なわれたことになっている)
映画の序盤では新設された捕虜収容所に「脱走の常習犯たち」が集められ、さらに脱走の指揮を執るビッグXが入所したことで、捕虜を200名以上脱走させる計画が動き出す。
鑑賞していて抱いた違和感の一つに、何度も脱走を繰り返している連中を一まとめにし完全管理を目指したはずの捕虜収容所なのに、あまりにも笊過ぎる収容所ではないか?というものがあった。収容所所長はゲシュタポを嫌っていて敵ながら捕虜たちに敬意を抱いていており連合軍捕虜たちに甘いとはいえ、責任重大である意識が希薄ではないだろう。それでも、捕虜を管理する側として、集められた捕虜が何度も脱走を試みた、それこそ「選りすぐりの捕虜」であることは重々承知しているのに、ずいぶん杜撰な管理すぎではないか。もう第二次大戦末期に至っていて、ナチスドイツ軍としても捕虜収容所を管理する人材不足が深刻化していて、監視するに当たって脱走の常習犯たちのやり口を見抜けない程度の素人ばかり集められたのかもしれないが、あまりに節穴だらけである。それとも、それを分かりきった上で脱走されても逃げ切られたという失態さえ表面化さえしなかったらそれでよし状態だったのか。
あと、200名以上脱走させる計画が三分の一ぐらいの人数しか実現できなかったのは仕方がないものの、脱走してからのビッグXの振る舞いがおよそナチスドイツ軍の後方かく乱のためらしくない、むしろ挙動がおかしくて、あまりにもおどおどし過ぎてわざわざかく乱に失敗するのを早めている感がある。どんな困難に遭っても連合軍の後方部隊やレジスタンスと連携するといった信念や具体的かつ重要な計画のようなものは見られないし、脱走のプロなら最後まで収容所に残って何が何でも全員を脱走させる役割を徹底して担うほうが向いているし、その方が充分後方かく乱になるのでは? 捕虜を脱走させる事でナチス軍をかく乱する使命については収容所に入れられた時点のセリフで語られるものの、脱走後のプランが場当たりすぎ無策すぎることを分かりきってやったのか? それにしては違和感がある。最期の言葉のようにトンネルを掘る事だけが生きがいだったのか? 捨石になったようなナチスドイツ軍の後方かく乱の事実上の失敗を「見方による」ことで脱走のプランの総括を先延ばしし続けるのか?
違和感を違和感たらしめているのは、映画の冒頭に実話であると断ってあることもある。しかし実話のそれは、トンネルを造るにあたってのカモフラージュやトンネルを造ったテクニックの要素だけであって、それ以外は命がけの脱走であるのにどこか暢気なほのぼの感が漂っていてもかまわないつくりになっているところが違和感の原因かもしれない。
とどのつまり、ナチスドイツ軍に一発くらわせるため協力し合う連合軍捕虜に感情移入し肩に力を入れて戦争のリアルを凝視する映画ではないと今更そんなような気がしてきた。私は初鑑賞時で得たスリリングなおもしろさとともにこの映画に戦時下のとある一場面のリアリズムを求めすぎていた期待感を抱いていたことをようやく冷静に考えることができたのかもしれない。
なんか本の内容と関係のない記事になってしまった。


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先月、内田樹 著『映画の構造分析』 (文春文庫) という本を読んだ。全体的に興味深い内容ばかりでとてもおもしろく読めたのだが、本の内容を前提にして映画を再鑑賞してみると、鑑賞中にはて?と疑問符がついてしまい、挙句の果てに眠くなってしまって鑑賞を途中でやめてしまった。
本のコンセプトは映画を用いて現代思想を紹介し説明することにあるわけだが、映画の作り手は現代思想を映画として表現しようとして映画をつくったわけじゃない。映画が現代思想を紹介するにあたって都合のいい格好の内容になっていただけなのかもしれないと思う。
以下、覚書のような脈絡のない雑記である。
映画はニューヨーク市立図書館の書庫がゴーストによって荒らされるのを目の当たりにした女性司書が悲鳴をあげる場面から始まるが、映画の中では人間の日常生活をゴーストが荒らす現象が社会生活を送る人々の間で目立つ形で起ころうとしているところに、主人公たちがゴーストの存在を世間に知らしめたことで、ゴーストという存在が街・社会で認知されるのであって、決してゴースト研究をしていた主人公の二人がゴーストを生み出したわけではない。
映画ではヒロイン(ディナ)にとって、恋愛のアプローチを受けても嫌な気にならない男(ピーター・ヴェンクマン博士)とアプローチされて鬱陶しく思ってしまう男(ルイス)が出てくるが、ヒロインが抑圧された性的欲求を満たしたい相手は本当にルイスなのだろうか。ディナは言い寄ってきたピーターの活躍をTVで見るようになり有名になった男にすりよるような心がはたらく取り立てて恋愛のプロセスとしては珍しくない感情の動きを見せるのは別におかしくない。性的な相性と相手への関心は別物であることは分かるが社会的有名人になった相手への関心を抱き、たとえ憑かれてなくとも恋愛関係に至るまでのプロセスを踏んでいるとはいえる。よって、あくまで、「門」を担当させられるディナと「鍵」を担当させられるルイスが強烈に求め合うのは、ニューヨークに降臨する「神」によって憑かれてしまったことが原因である。もし、「神」が降臨しなくともディナがルイスに抑圧された性的欲求を爆発させる相手として無意識な感情を覚えていたのならば、そのサインの表現・描写はどこにあったのだろう?
環境保護局局長のウォルターはゴーストを退治するビジネスが出来てしまった社会に適応することができず、常識が変わってしまったことを理解できなかったことで既存の法体系からはみ出した存在を許せず、そのような相手から不遜な態度をとられたことが許せないというキャラに過ぎないのではないか。
本に書かれている内容の一端を感じとるセンスの欠片さえ私には無いことを自ら露呈させたようなことを書いてしまったが、やっぱり本の内容にある「ゴーストバスターズ」に込められた意味は超解釈な気がするなぁ…。


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ヴォーリズの像のようだ





レンズはともかく、レンズ枠とフレームが行方不明だ・・・



ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(日本名:一柳米来留(ひとつやなぎめれる)は英語教師として来日した。時代は明治38年(1905年)である。ヴォーリズ建築というくらいだから、建築設計も手掛けたことで知られ、さらにキリスト教伝道活動も積極的だった。より詳しく触れているサイトはこちら
日本人にとってはメンソレータム(現メンターム)を日本に輸入した人物といえばより親近感がわくかもしれない。


新町通り





















旧伴家住宅(きゅうばんけじゅうたく)、近江商人の豪商の住宅だった




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また別の日に琵琶湖を渡った





今回は堀は少なめにした


今回は歴史的な街並みの方をめぐった



おねがい地蔵さま

受嘱救生尊とある。「依頼受けます」ということか。あまり昔からあるような感じはしなかったが、有名スポットだという。


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映えた写真が撮れそうに見えるが向日葵の
正面から撮ると背後に大きな建物が写って
しまうという撮影者泣かせのポイントだった。



安土城跡の近くを通ったので寄ってみた


時間が無かったので安土城跡はまたいつか。


湖岸の公園で休憩。セーリングの
帆が置かれているのが目に入った



































帆走ってけっこう速く、まさに疾走という感じだった


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ヴォーリズ建築が目立つが昔ながらの
お寺もふとしたところによく見かける








日牟禮八幡宮まで戻ってきた

以外で蘇民将来子孫家門と
あるのを見たのは初めてだった。

















近江商人の守護神として歴史を誇る神社、
今のご時世は蘇民将来子孫家門の幟のように
疫病退散が祈願されることが多いだろうなぁ。


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アンドリュース記念館(ヴォーリズ建築)






アンドリュース記念館についてはこちらで紹介されている。なんか八幡掘周辺のヴォーリズ建築を見ているといわゆる租界っぽい雰囲気を感じる。


もちろん和風の建築も充実している


旧ヴォーリズ住宅






周囲まるまる全体は見れなかった


ハイド記念館(ヴォーリズ建築)


ハイド記念館については公式サイトがある。コロナ禍ということもあって入場や見学はできなかった。
それにしても、旧八幡郵便局やアンドリュース記念館、旧ヴォーリズ住宅、ハイド記念館、ほかにもヴォーリズ建築が近江八幡の旧市街に数多く残っているとは全く知らなかった。


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