デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 














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日が照ってきた

カラカラ大浴場が造られた頃には、すでに男性・女性の入浴時間帯は分けられていた。たしかハドリアヌス帝が男女を別々の時間に入浴させるようにしたと記憶しているが、また調べておこう。


見上げてもなお高し。




アーチの美しさには、ただただ目を瞠(みは)る


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公共浴場は無料ではなかったとはいえ、庶民的な値段で入れたという。入場料は1クアドランス青銅貨で、1アスの四分の一に相当する。荷物預けや、マッサージ、その他サービスを利用するには別料金がかかった。
ちなみに1アス半あれば、ワインの瓶(ワインそのものではない)が一本と小さめのパンが一つ買えた。
(貨幣制度の規定では、1セステルティウス=2ドゥポンディウス=4アス=8セミス=16クアドランス、と定められていた。)


子どもだから絵になるのか?(笑)

こう見ると、太い柱であったろうことがわかる。


床もサウナのところなら熱かったろうなぁ



セクションによっては裸足で歩けないところもあった。





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2012年6月29日改訂第18版第1刷の「地球の歩き方 '12~'13 A10 ローマ」に私が提供した訂正情報が掲載され、そのお礼のかたちで編集社からのプレゼントとして画像にあるとおりガイド書が送られてきた。本音を言うと、本当にお礼としてガイド書が送られてくるのか半信半疑であった。
送られてきた書を繰りながら、外国での情報と言うのは基本的に何年も変わらないものもあるだろうけど、既に変わってしまってるのに日本のガイド書では何年も改訂されないままになっているものもあるのだなぁと、また、短い期間により正確な情報を把握し、次の版のガイド書に反映させるまでのプロセスは、おそらく大変なのだろうなぁと思った。
ちなみに、私が書き送った内容が反映されている個所はp213とp218である。後の方のページでは、このブログのペンネームそのままで内容がリライトされた形で掲載されている。アッピア旧街道のカザル・ロトンド(古代ローマの共和政時代の墓が残る)や、クインティーリ荘へバスで行こうとする方の参考になれば幸いである。

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カラカラ大浴場跡にて

↑の画像、タイトルなど付さずともカラカラ大浴場跡じゃないか、と自分でも思うが、この大遺跡にて我ながら自分の撮ったなかで、たぶん一番いい写真ではないかと自負しているからあえてつけた。脚光を浴びているのは遺跡であって、生きている人間たちはあくまで影である。
大浴場跡のことを思い起こすと、ピラネージやロベールに関連したことをつい考えてしまうのだが、遺跡の圧倒的なスケールからは、やっぱりピラネージのローマのイメージを感じとれると思うのである。
この場所に立つと、人間の高貴な重々しさなど感じとれない。カメラに入ってしまう他の観光客も蟻ぐらいの存在と化し、私も他の観光客にとっては蟻ぐらいの存在のように写っているだろうと思うのである。

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大浴場には、熱い湯、ぬるい湯の浴槽に、水風呂、サウナ、マッサージ室といったものの他、プール、体育館、運動場、図書館などもあり、一日のんびりすることができた。


なんとか床のモザイクも残っている



大浴場は一度に1500人以上も収容できたという






モザイクは本当に立派なものだ。

大浴場に設置されていた彫刻がないのは残念なところである。

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日が照ってきた


当時のモザイクも残る

 紀元前一世紀の初頭、ガイウス・セルギウス・オーラータ(以下セルギウスと表記)という裕福な商人が考案したのが大浴場の始まりという。ヴェスヴィオ火山からほど近い、カンピ・フレグレイ(ナポリ西部の火山性カルデラ盆地)の海岸沿いでは、温泉の蒸気を利用して病気を治療する習慣があった。それは「発汗室」でたっぷり汗をかくことであった。悪い体液を外に出すいわばサウナ浴をすることが病気にいいと信じられていた時代である。
それを見たセルギウスは、地下で炉を燃やし、床下や壁のあいだに熱を伝えることによって、天然の発汗室を再現できると考えつき、それが大浴場となっていったそうだ。大浴場は裕福な階級の人間や時に皇帝も関わって、あちこちに作られた公共施設であった。






石油のない時代であるから、浴場の水を温める燃料は木材であった。ほぼ毎日、浴場では大量の木材が燃やされた。ローマ帝国全体となるとヨーロッパ中の木が切り倒されたように思う人もいるかもしれないが、人口に対して必要になる木材の量からすると、砂漠になるようなところはなかったようだ。

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順路はすでに大浴場の中だ










雲が太陽を覆うと極端なまでに薄暗さを感じさせるのが、イタリアの土地である。

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ここしばらくロベールやピラネージの描いた廃墟画を見ていて、今もローマに残るカラカラ帝の大浴場跡の写真を引っ張り出してみたくなった。

大浴場跡はチルコ・マッシモからカラカラ浴場通りを行けば右手に見えてくる。


入口の時点でこの奥行きである。









外国では分かる単語が少ないのであった…。

カラカラ大浴場と呼ばれているが、着工はセヴェルス帝のときで、完成がカラカラ帝治世時だったから「カラカラ」の名がついている。
「庶民の宮殿」と呼ばれたほど豪華で図書館まで完備した大浴場であった。

つづく。

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なるべく解説を読まないまま、前回前々回みたいなことを書きなぐってるが、別のボルヘス訳者・研究者の解説を見てみると、クレアシオニスモ(創造主義)やウルトラニスモ(超絶主義)という便利な言葉があるではないか。
この二つの主義については初見だったが、宗教の世界や文芸の世界で、そういった盛り込まれ運動が展開されていった経緯は経緯で押さえて、いずれまたボルヘスの作品を手にとってみたい。

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