デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ロトンドのヴィーナス像

ただでさえ人気の少なかったギャルリ・コルベールは、ギャルリ・ヴィヴィエンヌと同じく、盛り場の覇権がパレ・ロワイヤルからグラン・ブールヴァールに移り、パレ・ロワイヤルから娼婦を追放する命令が出されると衰退していった。ギャルリ・コルベールは娼婦すら出没しない不景気なパサージュになったが、かつて娼婦たちのたまり場であった家具付きホテルだけは細々と営業を続けていたという。そのころのロトンドはガレージとして使われていたとか…。


ヴィーナス像を私も気持ちだけこの人のように撮った(笑)

ギャルリ・コルベールがこうも美しい理由として、前回「ギャルリ・ヴィヴィエンヌに並行する形でつくられているパサージュであることから、「お隣」の成功に刺激されその対抗意識から建てられたゆえ、より美しく洗練され高級感を漂わせている」といったことを書いたが、現在に残る形でこうもピカピカになっているのはもう一つ理由がある。
ギャルリ・コルベールが敷地が隣接する国立図書館に買い取られ、そこに分館が建設されることが決まったのは1975年、その時点でパサージュはかなり傷みが激しく全面的な解体も検討された。最終的にパサージュを最初の状態に復元しようという建築家ルイ・ブランシェの設計図が採用され、十年の歳月をかけてレプリカが造られたことが、そのもう一つの理由である。つまり画像にあるギャルリ・コルベールは国立図書館の分館として復活を遂げた姿なのである。

……すべてこうしたものが、現在われわれが眼にするパサージュである。だが、かつてのパサージュはそうしたものではまったくなかった。「というのも、今日、つるはしによってその存在を脅かされるようになって初めて、パサージュはじっさいに束の間のもの(エフェメール)を崇拝する神殿となり、昨日までは理解されえなかったと思えば、明日にはもう知る人もなくなっているような快楽と呪われた諸々の職業との幽霊じみた風景となったからだ。」ルイ・アラゴン『パリの農夫』パリ、一九二六年、一九ページ■蒐集家■   [C2a,9]



プチ=シャン通りの方の出入口へ

あまりに整い過ぎた美人に男が寄ってこないのに似て、この洗練されたパサージュは、宿命のライバルたるギャルリ・ヴィヴィエンヌに比べて、いま一つ人気が出なかったのである。
 消費者というのは、一度でも自分を跳ね返すような冷たさを盛り場に感じてしまうと、二度とそこに足を踏み入れようとはしないのだ。猥雑さというのも、消費者を惹きつける重要な要因なのである。
  鹿島茂『パリのパサージュ』(平凡社)

新規の取引先や顧客に「他人がまねできない高級な接待をできることを見せ付ける」ために利用するような施設が客を選ぶところならばともかく、パサージュという施設において客が寄ってこないというのは商売にとっては致命的だ。
ギャルリ・コルベールのことを思い出すと、青年期の頃に感じたあることもついつい思い出してしまうのだ。自然の風景や食べ物を観光の目玉として大いに売り出している某都道府県のある山間のホテルに泊まったことがあったのだが、レトロな雰囲気と高級感を漂わせたそのホテルは「あまりに整い過ぎた美人たち」で経営しているような雰囲気で、バブル崩壊後でも本当はこちらで客を選びたいんですよ、といった冷たい空気が漂い居心地の悪さが際立っていた。その数年後だったか、そのホテルに閑古鳥が鳴き出し、TVの企画でホテルのオリジナル料理で客足を回復させたい、と某料理番組の有名シェフがホテルに出向いて新メニューをホテルの提供するのだが、その時に画面に現れた三人の従業員とホテルのロビーの雰囲気は私が体験したその頃とほぼ変わっていないことが画面からも感じられたのである。あの有名シェフの「起死回生」の新メニューはあのホテルにとってどれほどの収入アップに貢献したのか知るよしもないが、泊まるに恐れ多いホテルは入りづらいパサージュであったギャルリ・コルベールと共通点があるかもしれないなと、思ったものだ。

もときた出入口で少し警備員さんと話した。以下がその会話。

「美しいパサージュでした。ありがとう。」
「どこ(の国)からですか?」
「日本です」
「Oh, TOYOTA!(笑)」
「パリでもトヨタの車を見かけます」
「(いい車をつくるね、といったようなことのあとに)君の住んでいるところはフクシマの近く? ツナミは大丈夫だった?」
「いえ、離れています。」

まさかパリのなかにて、TOKYOよりもFUKUSIMAという地名、TSUNAMIという現象の語を耳にするとは思わなかった。私は「いえ、離れています。」のあとに「残念な事故でした」という英語が出てこなくてもどかしくなった。フランスも原発大国であり、隣国に電力を売っていることもあってかあの事故には並々ならぬ関心があるのだろうと、初めて現地で感じた瞬間だった。

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ロトンドの天井

ギャルリ・コルベールのロトンドは美しい。これはパサージュが誕生したときから称賛されていた。

ギャルリ・コルベールはギャルリ・ヴィヴィエンヌに並行する形でつくられているパサージュであった。ギャルリ・コルベールは「お隣」の成功に刺激されて、1826年に建設されたのである。
建設の母体となったのはアダン株式会社という会社でたずさわった建築家はビヨーである。「ギャルリ・コルベール」の名称は、この地所に建っていた建物がルイ14世の財務長官だったコルベール所有だったことが由来であるという。
「お隣」への対抗意識から建てられたゆえ、より美しく洗練され高級感を漂わせているギャルリ・コルベールであるが、誕生した頃は高級ブティックがテナントに入っていた。
しかし、ギャルリ・コルベールへは「お隣」ほどには人が押し寄せなかった。それはパサージュがあまりにも整い過ぎ、消費者が頭を低くして通るような雰囲気であったり、ギャルリ・ヴィヴィエンヌが自分たちのパサージュの方に客足が向くよう動線を捻じ曲げてしまったことに理由があるという。


見事なロトンド。でも人は…。



ファザードをかざる壁面装飾はポンペイ様式。ローマ時代の美学を再現していたという。

ギャルリ・コルベールも「お隣」に対抗するため一軒の店を犠牲にして支脈を開通させたりしたがそれも功を奏さず、1832年に支脈の角にジェオラマという新型の見世物を置くことにした。
だが、一時はジェオラマで人を集めたもののブームが去ると、やがて撤去され、その跡には家具付きホテルが二階に付属するカフェが入った。しかし、そこはパレ・ロワイヤルに出没する娼婦たちのたまり場となった。

ギャルリ・コルベール二六番地。「そこでは、表向きは手袋屋の、気さくな美人が一際目立っているのだったが、彼女は若さといえば、重視するのは自分の若さだけだった。彼女が一番贔屓にしている男たちに装身具を買ってくれるように迫るのであり、これで一財産期待していたのである。……この額に入った若い美人はラプソリュ〔絶対〕と呼ばれていたが、哲学が彼女を捜し求めようとしても、駆け回るだけですっかり時を無駄にしたことだろう。実は手袋を売っていたのは彼女の女中で、彼女と付き合うには手袋が必要というわけだった。」■人形たち■娼婦たち■ルヴーフ『パリの古い家』Ⅳ、<パリ、一八七五年>、七〇ページ。   [A1a,5]


「群衆は、おたがいの姿が見えないパサージュ・ヴィヴィエンヌにはひしめきあっているが、おたがいがおそらくよく見え過ぎるためか、パサージュ・コルベールのほうはお見限りだ。いつだったか、パサージュ内の円形の建物を毎晩中二階のガラス窓からかすかに漏れてくる響きのよい音楽で満たして、群衆を呼び戻そうとしたことがあった。ところが、群衆は入口に鼻先を突っこむだけで、内部にまで入ろうとはしなかった。この新機軸には、自分たちの旧態依然たる習慣や娯楽に対する陰謀が隠されているのではないかと疑ったのである。」『百と一の書』Ⅹ、パリ、一八三三年、五八ページ。一五年前にも同じように、W・ヴェルトハイム百貨店を救おうという試みがなされ、そして、その試みも徒労に終わった。この百貨店を貫いている大きなパサージュで、何回かコンサートが催されたのである。   [H1,2]



ロトンドに置かれているヴィーナス像

パサージュ・コルベール。「このパサージュを照明する大型燭台はサヴァンナの真ん中にあるココヤシの木に似ている。」■ガス■『百と一の書』Ⅹ、五七ページ、パリ、一八三三年(アメデ・ケルメル「パリのパサージュ」)    [M3,6]

パサージュ・コルベールの照明。「規則正しく並んだクリスタル・ガラスでできた丸い火の玉の列がすばらしい。そこから、強烈だが心地よい光りが発してくるのだ。宇宙空間を放浪しに出かけようと出発の合図を待っている戦闘隊形の彗星もこんなふうなのではないか。」『百と一の書』Ⅹ、五七ページ。都市の星界へのこのような変貌を、グランヴィルの『もう一つの世界』と比較せよ。■ガス■    [M3,7]

このヴィーナス像がある場所にはかつてココナツの樹を模したブロンズの彫刻が置かれ、その上部にクリスタル円球のガス灯がいくつか取り付けられていた。(後ろの壁に見える白い灯りがココナツの樹の上に「実っている」ようなイメージ)
その「ココナツの樹」がとなりのギャルリ・ヴィヴィエンヌを激しく嫉妬させたという。ギャルリ・ヴィヴィエンヌのメルクリウス像は「ココナツの樹」と比べるといかにも見劣りしたようである。
ちなみに、現在ギャルリ・コルベールのロトンドに置かれているヴィーナス像は1822年に製作されたものだ。


L.Ranteuil Rome 1822 とあるように読める。


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アレクサンダー・コルダ監督「レンブラント 描かれた人生」(1936年、イギリス)を見た。1936年の制作ではあるが、映像はかなり美しいところにまず驚かされる。
主演のチャールズ・ロートンは「ヘンリー八世の私生活」でも見たことはあったけれども、ロートンの演じたレンブラントは王様の役とはまるで別人で、作中の壮年期と晩年と最晩年の演じ分けは見事であった。
作品は「夜警」制作後のレンブラントの後半生を描く伝記映画だが、制作年のこともあるせいか「夜警」に対してここまで酷評されたのだろうかと思われるセリフもあったが、仕方が無いのかもしれない。ただ、作品を描く際にモデルに対して描く人物の由来を語る場面で、レンブラントが聖書や伝説の人物について豊富な知識から物語をモデルに語り、その気にさせていくときの画家の魂の強さを感じさせるところはすばらしかった。

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見出しの画像が歩いているときにカメラの電源が入ったままシャッターが下りてしまったようなものになっているが、これがギャルリ・コルベールでの最初のショットである。


きれい過ぎる(笑)



ガラス屋根から見える空も透き過ぎて…

ギャルリ・コルベールに足を踏み入れたときのことを思い出すと、今更どうにもならないが、どうでもいいような悔いを覚える。それは現地で訪れたパサージュの入口の画像をギャルリ・コルベールだけは撮り忘れたというものだ(笑)。
ギャルリ・コルベールのファザードを撮り忘れた理由は、おそらくここが現在ではフランス国立図書館の分館になっていることに求められるだろう。ギャルリ・コルベールに入るにはフランス国立図書館に入ることなので、入口で身分証明書の提示(時にはそれに加え手荷物検査をパスすること)が必要になる。私は入口には男性の警備員が二人いて、何を質問されても大丈夫なように答えの英語を頭の中で準備していたのだ。そして細かい答えを求められたときのために、

A la recherche DAS PASSAGEN-WERK by Walter Benjamin

などという言葉をいつ発しようかと冷静を装いつつ構えていたのである。これは無理矢理訳すと「ヴァルター・ベンヤミンによる「パサージュ論」を求めて」というニュアンスは通じるかもしれんと思って急きょこしらえたのだ。
結果はパスポートを見てもらって、「観光ですか?」と英語で尋ねられて Oui,sightseeing と答えただけで荷物検査なしで通されて終わった。ベンヤミンの名が混じったへんてこ「フランス語」の方は出番なし(笑)。荷物は小さめの手さげカバンを肩にかけていただけだったから検査されなかったのかもしれない。


ロトンドまでの歩廊も閑散と…



どうしてこんなに「きれい過ぎる」のかは次に触れる機会に。


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 私は、外務省で「ロシア・スクール」と呼ばれる語学閥に属した。ロシア語を研修し、対ロシア(ソ連)外交に従事することが多い外交官のことである。本文にも記したが、東西冷戦下で「ロシア・スクール」の研修生は、いきなりモスクワではなく、まずイギリスかアメリカの軍学校でロシア語の基礎を学ぶことになっていた。それだから、異文化の中での生活を、私はイギリスで初めて経験した。その経験をまとめたのが本書である。
  佐藤優『紳士協定 私のイギリス物語』(新潮社)のあとがきより

佐藤氏の本は『インテリジェンス人間論』以来いくつか読んでいるが、氏の本はいつも期待以上のおもしろさを感じることができる。今回は図書館で偶然見かけて手に取ったのだが、数時間で読めてしまった。分量的に短いというのもあるが、内容が非常に充実しているから帰宅を遅らせてもカフェに長居して読みきってしまおうと思ったのである。
本の内容は上に引用したとおりなのだが、ホームステイ先のイギリス人の少年グレンとの対等の付き合いで浮き彫りになってくる、文化の違いとたとえ異文化交流といえども共通しているものの見方や感じ方を再現した会話の描写がすばらしい。外交官というのは自国の文化や歴史だけでなく外国のことについてもそれなりの見識がなければならないとはいえ、20代半ばの研修中という時点でどこまで知識や造詣が深いんだと驚くことばかりだ。氏の生い立ちや両親の大戦中のエピソードを、イギリスとの関わり合いにおいて生身の歴史として少年グレンに真摯に語る場面は心を打つ。ただ、イギリス人は社交的で明るく見えるがなかなか本心は明かさないというテーマもこの本の大きなテーマとしてあるのだが、そこは接するイギリス人の性格と境遇次第かもしれないと思った。
あと氏の本でよく出てくる料理の話だが、この本でもそのおいしそうな描写は健在であった。はっきりいって内容の半分近くが料理の話、それも実地の、である。これには人付き合いに料理というものがどれほど大切か、いつも考えさせられる。腹を割った話というのはビジネス現場の一定の目的を持った短時間のミーティングでたやすくできるものではなく、食の時間を共有しじっくり時間をかけ回数を重ね互いにその人となりを徐々に理解していって、それで「少しだけ」本音を語ることができるようになり、それを継続していかないとできないのである。決して、人を強制出席させた酒の席で醜態をさらしたり怒号を飛ばしたり、改まった話をする場を強制的に設けて喧々諤々叫ばした内容をメモにとって「気持ちを把握する」ことではないのだ。氏の本はそういったことも考えさせてくれる。

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パリ・ミュゼットについてはこちらなどで紹介したが、また別のCDを入手した。
少し前に手に入れた分と同じ曲も入っていたが、半分以上は初めて聴く曲が入っていたので探してみてよかった。なかにはとても気に入った曲もあった。
このCDには「独特の郷愁味、物悲しさ、妖しさといかがわしさにみちた官能美、そこはかとなく漂う頑廃な」といったコメントが付されていたが、たしかにミュゼットにはそのような情感や美を感じることができるように思う。
しばらくは時間を見つけたらミュゼット以外にもパリに似合いそうなCDを入手しに音楽店に足を運ぶことが多くなるかもしれない。

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プチ=シャン通りのギャルリ・ヴィヴィエンヌの入口

ギャルリ・ヴィヴィエンヌはこちらに書いたような工夫に加え、マルショーが地上げした地所が妙な具合に分散していたこともあって、軽いジグザグのような歩廊になっている。通常ならバラバラの地所という時点で欠点だらけと見なしてしまいそうだが、それを逆手にとって長方形の歩廊や横枝、円形のロトンド、42mの歩廊、小さい階段、湾曲部、というふうに歩く人を退屈させないつくりにしているのだ。上の画像のとおり、プチ=シャン通りの入口からパサージュを見れば一直線でないことが分かるように思う。


カリアティド(女神柱)

地獄では鉄格子が――そのアレゴリーとして――定着しているのと同様に、パサージュ・ヴィヴィエンヌでは正面入口の彫像が、商売のアレゴリーを表現するものとして定着している。  [C1,1]

ベンヤミンのいう正面入口の彫像というのは、おそらくロトンドの真ん中に開業当時に置かれていたメルクリウスの彫像である可能性が高いだろう。しかしギャルリ・ヴィヴィエンヌを訪れた時点での私個人が抱いていた印象はこのカリアティドでも悪くないな、というものだった。
このファザードの上部に置かれたカリアティドの作者はギャルリ・ヴィヴィエンヌのオーナーの娘エルマンス・マルショー。これはファザードが1844年に作り替えられたときに制作されたという。


丁度こちらを振り返られた瞬間にシャッターが(笑)

「光輝くパサージュが道路のあいだを貫いて登場して以来、パレ・ロワイヤルはその魅力を失った。パレ・ロワイヤルが品行方正になってからというものは〔魅力を失った〕、と多くの人は言う。かつてあれほど悪評を買っていた特別個室(カビネ・パルティキュリエ)は、いまではカフェの喫煙室となっている。どのカフェも喫煙室を持っていて、それは〔トルコ皇帝の〕閣議室と言われている。」グツコウ『パリからの手紙』Ⅰ、ライプツィヒ、一八四二年、二二六ページ■パサージュ■     [I2a,3]

パサージュ没落の動因――歩道幅の拡張、電灯、売春婦の立ち入り禁止、野外活動。   [C2a,12]

ギャルリ・ヴィヴィエンヌは、盛り場の覇権がパレ・ロワイヤルからグラン・ブールヴァールへ移ろうとする頃につくられて大いに成功した。二つの盛り場をつなぐヴィヴィエンヌ通りが第三の盛り場として賑わい、そのヴィヴィエンヌ通りへの通り抜け道としてギャルリ・ヴィヴィエンヌは大成功を収めたことは既に書いたが、この大成功を収めたパサージュも衰退するときがきた。
1830年の七月革命でルイ・フィリップを王座に戴く七月王政によるパレ・ロワイヤルの娼婦追放令と賭博禁止令による影響で、盛り場の覇権はグラン・ブールヴァールに移っていくことになる。王政復古時代の末期となるとパレ・ロワイヤル衰退はギャルリ・ヴィヴィエンヌにも影響を及ぼした。
二つ上の引用は、ひょっとするとパレ・ロワイヤルの衰退のあと、まだなんとかギャルリ・ヴィヴィエンヌに人が訪れていた時期に書かれたものなのかもしれない。ただ、盛り場グラン・ブールヴァールへの資本集中現象は「負け組」のパサージュを生じさせたのだ。以後、パレ・ロワイヤルとグラン・ブールヴァールを結ぶ地域にはパサージュは建設されなくなった。

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ロトンド


この円形空間の真ん中には、開業当時メルクリウスの彫像が置かれていたそうである。ギリシア神話の商売のアレゴリーをロトンドの歩床の真ん中に置いていたとは、さすがというべきか。

ギャルリ・ヴィヴィエンヌは公証人組合の理事長をつとめていたマルショーという人物が、パレ・ロワイヤルを通り抜けた人が姿を現すプチ=シャン通りとヴィヴィエンヌ通りを結ぶパサージュを造れば、人気沸騰は確実と見込んで、ローマ賞の建築家ドゥラノワに設計を依頼してつくられた。
これまでパサージュに人が押し寄せる要因として「盛り場」への道の要素やパサージュ自体が盛り場となる事例とよく紹介してきたが、他にも知事オースマンのパリ大改造の前のパリが中世以降自然発生的な発展をしてきたせいで、人々が目的地に着くまでに通りを大回りしなければたどり着けなかった不便さを、歩行者専用のショートカット路をつくることで解消したことも加えねばならない。(余談だが、1823年当時の知事シャブロルは「(パリに)適切に作られた有用な歩道がない」ことを嘆いている。普段と段違いに気持ちよく歩けるパサージュに足を運びたくなるのは想像に難くない)



モザイク工事業者G.FACCHINA とある


紹介し忘れていたが、モザイク工事業者の名が歩廊に。



小説の登場人物が住む!?


時代設定がパサージュ建築の繚乱期と重なっている文芸作品を書いた作家はバルザックやユゴー、ボードレール、フロベール、ゾラなどが挙げられるだろうか。
私はこの4作家のうち、バルザックとユゴーとフロベールの作品、それも代表作しか読んでいないが、19世紀のパリやフランスのことを文芸からアプローチして現地を楽しもうとするならば、やはりバルザックの大構想「人間喜劇」の主要作品をある程度読み込んでからのほうが俄然楽しくなるのではと今になって思うのだ。(かなり前「若き日のドストエフスキーが作家を志す上で影響を及ぼしたバルザック!」と思い、バルザック作品を読もうとしたが、未だ4作品目を手がけてないでいる(笑))
↑の画像はギャルリ・ヴィヴィエンヌの長方形歩廊の13番地だけれども、この階段の上の住居にはバルザックの『ゴジオ爺さん』のヴォートランや、ユゴーの『レ・ミゼラブル』のジャン・ヴァルジャンのモデルとなった怪盗ヴィドックが住んでいた。
ヴォートランもジャン・ヴァルジャンも19世紀フランス文学には欠くことのできない名キャラだろう。両キャラともに私の中では仏文の最強キャラの部類に入る。パサージュはタイムトンネルという機能だけでなく、虚構と現実とがごちゃごちゃになるおもしろい体験を与える機能も持っているのだ。



アルカード式屋根をもつ長方形の歩廊


アルカード(アーケード)という言葉はパサージュのプロトタイプとされるギャルリ・ド・ボワのことを触れたときに紹介したが、木造のギャルリ・ド・ボワではどのくらいガラスが用いることができたのだろうかと思ってしまう。



ギャルリ・ヴィヴィエンヌで撮ったカメラの画像を見ると、お腹も空いてきてだんだんカメラの構え方が雑になってきているように思う。本当ならゆっくり歩きたいところだったが、昼食も摂りたい、午後にルーヴル美術館にも行きたい、など、気持ちが散漫になっているのが表れているかもしれない(笑)。



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ヴァンドーム広場が見える

一昨日にギャルリ・ヴィヴィエンヌの歩廊に並んでいるアーチ型ファザードを紹介したが、その建築様式はリヴォリ通りに見られるようなので、リヴォリ通りの画像を紹介したくなった。
しかし、現地でそれなりに歩いていたものの、通りのアーチ型ファザードが特徴の建物を撮ったのは夜に歩いている時だった。またリヴォリ通りに交差したり面したりしているカスティリオーリ通りやピラミッド広場がけっこう混じっている。
一枚目のリヴォリ通りからカスティリオーリ通りをのぞんだときに遠目に見えるヴァンドーム広場だが、カスティリオーリ通りに面する建物のファザードもアーチ型であることが分かる。


リヴォリ通りのファザードの内側。店のショーウィンドウや床のモザイクが美しい。



リヴォリ通り。画像はブレているがファザードのアーチ型は分かる



金色の騎士像が見えてきた



ピラミッド広場

リヴォリ通りのピラミッド広場は、チュイルリー庭園とルーヴル宮の大体中間ぐらいにある。この勇ましい騎馬像の騎士は、、、


ジャンヌ・ダルクの騎士像

ジャンヌ・ダルクであった。すごく夜に映える騎士像であった。

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ドラクロワ名画に女が落書き=「民衆を導く自由の女神」を修復-ルーブル美術館分館

当然展示作品に落書きすることは駄目なことが、落書き自体は修復がすぐ可能な程度の被害であったようだ。

それにしても名画とされる絵画に損傷を与えた事件は、エルミタージュ美術館のレンブラント作「ダナエ」やアムステルダム国立美術館のレンブラント作「フランス・バニック・コック隊長の市警団(夜警)」のものが有名だが、絵画を傷つけた本人らは当然の罰を受けた。
ただ、ちょっと疑問なのはこれらの事件の前に、それも数百年前に起こった美術品の損傷ではどうしていたことだろうということ。たとえば「フランス・バニック・コック隊長の市警団(夜警)」は市警団の建物から市庁舎に移される際、市庁舎に展示できないほどの大きさゆえ絵の左側が切り取られてしまったりしたし、ポンペイの遺跡の壁画も発掘にわいた当時「淫乱」「猥雑」と現場で判断されたら「モラル」の名の下その場で破壊されたりしたし、今のローマのサン・ピエトロ寺院も古代ローマ建築の大理石を容赦なく取り壊しその大理石が利用されてできたものだし、教皇アレクサンデル6世はフォロ・ロマーノやコロッセオを競売に付したりもしたのだ。
歴史は変えられないし今更という意見も聞こえてきそうだが、こういった過去の数々の不名誉があって、少なくとも美術品や遺跡に対し、真剣さと厳格さが宗教の価値観に囚われない形で大切にされるのが現代なのかもしれない。ただその「現代」は100年すら経過しておらず、またまともに歩ませていないように思う。

 ***

(後記:「分館に展示されていた「民衆を導く自由の女神」が画家自身による複製では」といった内容をなんの根拠も無く2013-02-10 01:06:47に記述してましたが、誤りであったのでその箇所は削除しています)

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