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デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 




坂を下ったらまた上りになった。









北村3景だけは落ち着けたが全体的に北村韓屋村は人でいっぱいだった。とても疲れた。








けっこういろいろな国の
旅行者が訪れているのに
正直なところ驚いた。








この辺りが一番有名というかネットでもガイド書でもよく紹介される所なのでは思った。ただ、「この場所に行ってみたい!」と思わせるようなネットやガイド書の画像・写真って早朝や夕景に加え誰もいないタイミングできれいな陽光や空のもと撮られていることが多く、この場所に私が抱いていた印象はそういうものだったこともあって、(私もその一部なのではあるが)正直人の多さにうんざりしてしまった。改めて「画像はイメージです」の但し書きがある所あるあるだなと思う。



旅行者の多くの人同様、私もネットやガイド書の写真の場所に行って、メディア媒体と同じような写真を撮る作業が旅行であるという、すり込みというか行動様式から逃れられない一人である。この旅行時の北村韓屋村の画像を見直すと、改めてそう自覚せざるを得なかった。





車も通りにくそう…

つづく


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北村3景の辺りは昔の韓屋のデザインと、所々にそのデザインと現代的な家のデザインとミックスしたような建物が上手い具合に点在している感じがしておもしろかった。
韓屋の模型での解説や韓屋の庭で育てられている植物などを紹介している展示と休憩所を兼ねた所があったので、一息つかせてもらった。靴を脱いだのでリラックスできた。

一昨年に見た良洞村の
韓屋とはまた異なり、
お屋敷という感じがする








窓から








韓服は景福宮でも映えるが
韓屋でも合っているように思った


泊まれる韓屋が
あるのかも?

だいぶ下ってきた


一気に人が…


人気の撮影スポットが
あるような感じがした。



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おそらく北村2景の建物

修理かなにかで工事用シートがかけられてあった。向かいから歩いてきた旅行者とおもしき年配の韓国人男性がシートを見てハングルで私に話しかけてきたが、ハングルを聞き取れなくてもなんとなく気持ちが分かった。たぶん「2景がこれじゃ、運が悪かったね」といったところじゃないかなと思う。


結構急な坂を上った





形而上絵画ぽいな
と勝手に思ってしまった





たぶん北村3景





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北村1景の昌徳宮


昌徳宮ギルを左へ行った


韓屋を意識したような
デザインの建物がチラホラ








私のように北村●景を散策する観光客がよく利用しそうなアイスクリームが目を惹くCUだった。



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建春門(コンチュンムン)

建春門の北側、画像では右の方になるが、そこにかつて光化門が置かれていたことなど、今となっては想像しづらい。
上の画像はコンビニの前で撮った。コンビニでおにぎりを3個買って、店の前の机椅子に腰かけて食べようとすると、雰囲気的に日本人っぽい日傘を差した年配の婦人と子連れの若い夫婦と相席になった。婦人の日傘が私の方まで倒れてきて当たりそうになったので思わず日本語で「日傘をもう少し縦にお持ち願えないでしょうか?」と言ったら、やっぱりその家族も日本人だった。それがきっかけで思わぬ暑さに少々参っていること、ご主人が韓国で仕事をされていて今は日本から韓国に家族が遊びに来ていることなどをお聞きした。「お一人で?」と訊かれたのでハイと返事したら、ソウルを一人旅される男性に初めてお会いしたとのことだった。ご主人の目にはこれまで、ソウルを旅行する多くが二人連れ以上、それも女性の割合が高いと映っていたそうだ。まぁ乗ってきた飛行機の乗客の割合からして分からなくはない気もする。


北村韓屋村へ東へ





宮殿以外でも韓服で
散策する旅行者もいる





人気の店のようだ








北村1景

ガイドブックに北村韓屋村の北村●景として撮影ポイントが8つ紹介されていたので、それを巡ることにした。北村1景は少し高いところから東に見える昌徳宮の眺めになっていた。



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興禮門を出る


朝に見た興禮門も
こう見たら広々と
している。旧朝鮮
総督府庁舎跡として
見ればかなり広い。


景福宮を後にした


道路を渡り何が建っている
のか行ってみたかったが
車が多かったので控えた。







9月下旬でも昼間は
かなり暑かった。

どこかで昼食を摂ろうと思ったが、午前に通ったグルメ通りに戻るのは面倒に思った。



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再び勤政殿


文官武官の階級別に
立つ位置を示す品階石


昼になり韓服の人が
さらに多くなった


たぶん勤政門の真下

歩き疲れてきたこともあって、あとはまだ行ってないであろう区画に適当に足を運んだ。


たぶん建春門











慈慶殿





歩き回ったとはいえ、正午が近づくにつれ、どの建物がどういった由来とか、ガイドブックを繰るのが面倒になってしまった。それに段々どの建物も同じようなものに見えてきてしまった。



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興福殿





再び慶会楼






慶会楼は1929年9月~10月に朝鮮博覧会会場の休憩所として使われたことはこちらですでに触れたが、会場の入場口は景福宮の東側にされた。その入場口から会場のメインストリートが伸びていたが慶会楼はその突き当りになっていた。この方向からの画像なら当時の来場者の目に映った感じかもしれない。


主に仏事を行った含元殿





交泰殿(キョテジョン)


康寧殿(カンニョンジョン)


康寧殿は王のため、交泰殿は王妃のための寝殿だった。夜がふけると王は交泰殿に通った。



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資善堂の基壇と礎









資善堂と目にしたとき某化粧品メーカーのことかと思ってしまったが、落ち着いて読んでみれば全く違った。
解説の通り資善堂は王世子と世子妃の居所だったので、この辺りは東宮の領域だった。
15世紀からあった建物ながら20世紀に入り朝鮮の国権が失われると日本の東京に移設され、美術館として使われたとは…。しかし関東大震災で建物は全焼し、基壇と礎だけが残された。上の画像の基壇と礎は1995年に再び韓国に搬入されたものだ。


香遠亭


左に興福殿と右に後宮領域


後宮領域の緝敬堂


この一帯は後宮と宮女たちのための後宮領域だ。寝殿として使われた幾多の殿閣と複雑な行閣は殆んど無くなり、現在は咸和堂と緝敬堂だけが残っている。
この建物が現存するのは日本が朝鮮総督府博物館を運営し、その事務室として使うために壊さなかったからだという。


興福殿

晴れてきた



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香遠池と香遠亭

もう一度神武門から入城した。


香遠池と香遠亭を少し見たあとその北側の建物に行ってみた。現地では気付かずに、また帰国してから潜在的に「見ておいてよかった所に、行ってたんだな」と思ってしまった建物だった。そこは乾清宮だったのだ。









乾清宮は1895年10月8日未明に三浦梧楼が日本守備隊や公使館警察などと糾合して実行部隊を王宮に侵入させ、閔妃(ミンピ)こと明成皇后を殺害した現場となった建物である。2007年に復元された。
中も特別公開するときがあるらしく、こちらの動画で中の様子が分かる。










1895年閔妃(ミンピ)が殺害された事件は韓国では乙未事変(ウルミサビョン)といわれる。
日本側は事件を大院君派のクーデターに見せかけようとしたが、事件の一部始終はアメリカ人軍事教官やロシア人技師らに目撃されていた。事件の国際問題化は避けることができなくなり、日本側はやむなく事件の関連者を逮捕し裁判を行なった。しかし事件関係者らは翌年の1896年1月には証拠不十分ということで全員釈放されている。
閔妃殺害事件後、全国的な抗日義兵活動が起こった。親日派内閣がその対応に追われている中、親露派の政治家たちはロシア公使にはたらきかけ、高宗にも王宮からロシア公使館に移るよう勧めた。高宗は勧めに従った。独立門の記事で触れた露館播遷である。



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