デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 




春の前にもう一度寒波が来るであろうが、最低気温が高くなっているので、車のタイヤをさっさとノーマルタイヤに交換した。
テスト走行を兼ねて、またあの神社に行って見た。駐車場に入ろうとすると、たまたま私と同じタイミングで駐車する車があった。
前と同じように、いくつかの場所から写真を撮っていたとき、同じタイミングで駐車した岡山ナンバーの車に乗っていた二人が声をかけてきた。鳥居を背景にお二人で写った写真を撮ってほしいとのことだった。
そのお二人は学生さんなのか、車で小旅行している感じで、神社に寄ったのも鳥居が目に入ったからとのことで、また「もう今日か明日には滋賀にはいないので、この神社は最初で最後です」と言われた。なんというタイミングか!
というのは、タイヤ交換のさい、作業する場所がなかなか見つからず、予定していたよりは作業がはるかに遅れたり、走行中車に積んでいたパソコンに強いショックを与えた気がして安全なところに止まり、無事しっかり起動するか試したり(大丈夫だった)して、ちょっと気分的に面白くない状態でのドライブだったのだ。
しかし、いろいろと手間取ったおかげで、きっと記念になるであろうお二人の写真を撮ってさしあげる機会が訪れたのだった。お二人のカメラで一枚ずつ、しっかりと写っているか確認しながらの撮影だった。お二人に感謝していただけて、私の鬱屈した気分は一気に飛び去った。
二三言葉を交わした後、私はこれぞ僥倖と先に神社を後にした。お二人はどこまで車で行く予定なのだろう。願わくば、いつの日かまたお二人がこの神社に来られんことを。

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びわ湖タワーから北に車で30分くらいのとこだったか、湖面に鳥居がたっていた。通り過ぎたが気になったので引き返した。
天気次第ではかなりいろいろな写真が撮れそうなので、また来たい。遠いけど…。

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『Out of Africa(アフリカから)』の映画の感想です。少しネタバレあり。

邦題「愛」から始まるシリーズは、原題と作品内容が一致しないことが多いので、偏屈なようだが邦題は避ける。

原作『アフリカの日々』を「先」に読んでしまったゆえ、覚悟はしていたが、まぁ仕方ないだろうなぁ、というのが正直な感想である。
私のなかでは、これまでみた映画の中で、原作に肉薄した作品は唯一ヴィスコンティの『ベニスに死す』しかない。原作に忠実な映画というのは、ほとんど作れないのはわかっているつもりだったが、正直、「アフリカから」は今回の再鑑賞でも原作と映画は別作品であった。あの脚色を活かしたいなら、映画では原作どおりのタイトルを付けるよりは、ディネセンの伝記に即した別タイトルでの作品としたほうが良かった気がする。
映画のなかで用いられていた音楽と、ラスト近くでカレンが土地の人々のために総督に懇願する場面はよかった。

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先日、琵琶湖までドライブに行った。
これからも立ちつづけるのかは分からない、かつて動いていたものが立っていた。孤高とはこういう姿かもしれないと思った。

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イサク・ディネセンの『アフリカの日々』原題Out of Africa(アフリカから)を読み終えた。
この作品については、以前にも何回か触れたので、この記事は補記ぐらいの扱いになる。
作品ではディネセンの豊かな観察眼と、洗練されたしかし現地での空気の質感を伝えることを念頭に置いた巧みで美しい自然描写に驚かされる。
そして、ヨーロッパ人が決して理解できないような「アフリカ的なもの」の概念を捉えようとしてか、コーヒー農園の運営をするにはそのような概念を早く会得する必要に迫られたからか、あるいはその両方からか、彼女はアフリカで骨をうづめる覚悟でいたことがわかる。農園の運営は破綻に終るが、彼女が現地の人々から尊敬を勝ち得たのは上の覚悟と、なにより現地の人々の生活に染まり切らず、しかしながら現地の人々の言語や文化を学びながら「アフリカ的なもの」を全身で地道に受け止めつづけたからなのだと思う。
異国や異文化の人間を理解するには、相手の文化を学び、相手の立場からすれば自分がどのような人間に映っているかを考えねばならない。しかしこれはそう簡単なことではない。実際、同国人で同じ地域に住んでいたり、同じ会社にいても、相手の人間が「変わった人」であれば、我慢がならないのが人の常である。環境や自己の孤独の中にあっても、理解できない振る舞いを目の当たりにしても、時間をかけて相手のことを観察し冷静に思いやるディネセンの姿勢は、グローバル化が進んだ現代にこそ、もっと見直されていいと思う。

  ***

ところで、『アフリカの日々』は、映画『愛と哀しみの果て(邦題)』の原作でもある。私は学校に通ってた頃にこの映画を見たことがあったが、今回の読書中、映画の原作であることを人様から教えてもらうまで、まったく(原作であることを)気づかなかった。とどのつまり、私の中では別作品であったのだ。これをきっかけに映画をもう一度見ようと思う。もし、映画を最初に見てそれから『アフリカの日々』を読んだという方がおられたら、ぜひコメントをいただければと思う。

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『アフリカの日々』はようやく第三部を読み終えた。
20世紀前半にケニアに渡り、農園を運営する中で様々な困難や危機をその身で持って経験した人が書いた本なので、私などがヨーロッパ文化とアフリカ文化について考察などできるはずもないのだが、ただ東方や南方に夢想や憧れを抱いただけで滞在した人ではおそらく書けないだろう内容であることは、読めば読むほど分かる気がする。
第三部の最後には最後の最後で、これこそ文化の違い、しかし一本とられたというようなユーモラスなエピソードがある。それはディネセンが友人と飛行機でアフリカの大地を俯瞰する話で、その詩心に読者としていたく感心したあとに、その飛行を見てやってきたキクユ族の老人が言い放った一言なのだが、正直かなりウケた(笑)。弊ブログでネタ割れしてしまうのはもったいないので、ぜひ本を繰ってほしいと思う。

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ファイヤー・バード

いつも持ち歩いているデジカメを、うっかり家に置き忘れてきたときに限って、印象に残る夕景が見られたりするものだ。
しかし携帯電話のカメラで残せただけでも、よかったと思う。

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前の家で引越しの作業中に出ていたもの。そういや前の家は改修業者によって、えらく周囲がスッキリしていた…。

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思いつき


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まさに空中の演戯


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