デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 




3日前の土曜日、京田辺市にある同志社女子大学の音楽学科オペラクラスによる卒業記念公演「フィガロの結婚(全4幕)」を鑑賞しに行った。同志社女子大学では毎年この公演を行っていて、今回で20回目とのことだった。
『フィガロの結婚』は、18世紀のボーマルシェ作『セビリアの理髪師』の続編であり、当時は貴族を風刺する作品として人気があった。これに音楽をつけてオペラ化し更に世に広めた作曲家がモーツァルトである。
この作品は高校のころから大好きで、何度も同じビデオを繰り返し見た。ドタバタなコミカルな笑いあり、貴族の狡猾さと悲哀もあり、最後には温かな慈愛がすべてを包みこむ感動(はっきり言ってとても泣ける)があって、構成そして音楽がすばらしい名作だと思う。
卒業公演では、歌詞はイタリア語ではなく全て日本語で演じられた。ちょっと無理があるのではと思って出かけたが、予想はいい方に裏切られ、うまく当てはめてあり自然で無理がなかった。(以下の画像は、撮影はダメとはされてなかったことを踏まえた、フラッシュなし消音での高感度撮影です。画像説明での出演者・演出者・指揮者・奏者などの敬称は略させていただいてます)


第3幕:アルマヴィーヴァ伯爵の怒り心頭のなか、式の準備が始まる



第4幕:アルマヴィーヴァ伯爵夫人は夫の「暴走」を戒め、赦しと慈愛で包み込む

以下、カーテンコール。


村娘・花娘役のみなさん



ケルビーノ役は二人、パルパリーナ役は一人

重要な役は幕を分けるなどして一つの役を数人が演じるという形をとっていた。感心したのはマルチェリーナ役の二人で、舞台イメージを損なわないようにまるで一人で演じているように仕上げていたことだった。


主役のスザンナは何と5人で演じていた。中央にフィガロ役の井原秀人



アルマヴィーヴァ伯爵夫人は2人で演じられていた。伯爵役は三原剛






衣装を担当した岸井克己に花束が



チェンバロの担当の松浦亜季。この人の奏でる音色とタイミングがシブかった。



裏方さんも全員登場



指揮の井村誠貴



一通りカーテンコールが終わった後、再び第4幕の感動の「赦し」の旋律が流れた






オペラクラスの在校生同士も手をつないで場内で歌い、すごく感動的だった



オーケストラで素晴らしい音色を奏でたみなさんの達成感が表情に満ちていた



カーテンコール中、これが最後と一生懸命手を振る姿も目に焼きついた

公演では、男性が演じる役はプロの人が担当していた。でも女性の役どころもかなりいい線をいっていたと思う。同じ役柄でも演じる人によっては、ちょっと個性が出るところもおもしろかった。
一年間、合宿なども通して情熱を傾けて練習されていたことの成果が表れた、非常に良くできた公演だったと思う。その素晴らしさに何度も拍手をしたことを私は忘れないと思う。

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ウクレレの演奏について、よくよく考えたら、先月の中旬ごろの本町靱さんのライブに加えて、その後の飲みの席でウクレレ教室の先生をされている方が遊び感覚でジャカジャカ弾いているのを間近で聴き、先週はお世話になったウクリコさんの演奏、そして昨日フレイムハウスで出演されていた「まいたけ」さんと「川合ケン」さんの演奏をこれまた間近で聴くことができて、ここしばらく洗礼を受けっぱなし…。
楽器をやり始めて、いつも客の立場から聞いている演奏が、俄然変わって聴こえるというのは本当だ。間近で弾いてもらった演奏や、ありがたいことに動画で残っている演奏を聴くと、もっと練習しようと思ったし、もっといろんな演奏を聴いてみたいと思うようになった。
それにしても、人間ほんまに圧倒的なものに驚いてしまうと、開いた口がふさがらないし、本当に目をむいてしまうよなぁ…。

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一人の画家にこだわっていると旅程が先に進まないとは知りつつ、今回も長々と書いてしまった…。


プッサン「花の女神、フローラの勝利」(1627/28)

まだプッサンかよと自分でもツッコんではいるが、この絵も「アルカディアの牧人たち」と同じぐらい、私にとってはぜひ見ておきたかった絵なのだ。
私が旅好きになった最大の誘引は作家のドストエフスキーとプルーストの小説なのだが、そのプルーストの小説に『失われた時を求めて』という作品がある。作品の第一篇「スワン家の方へ」の第三部で主人公が、いつか田舎町で出会ったジルベルトという少女の名を再びパリで耳にした時、尋常でない想像力を発揮し一気に彼女に対する気持ちが膨れ上がる場面がある。その描写のイメージのもととなっている絵の有力な説として挙げられているのが「花の女神、フローラの勝利」なのだ。とはいえこれには異論もあって、私としてはどちらかというと異論の方に説得力があると思っている。
なにはともあれ、説は説としてあるのだから、見ておくに越したことはないわけで、これまたいろいろな神々が登場している作品を凝視した。
フローラは「花の女神」だから、結局はボッティチェリの有名な「ヴィーナス誕生」や「春(プリマヴェーラ)」のように、冬が終わって春が訪れるよ、それを祝おう、勝利に見立てようというテーマに近い感じなのだろう。まるで「春が絢爛豪華なお車で乗り付けてきました。それ、みんなで祝え!」といわんばかりだ。
でもプッサンはフローラを祝福している周囲の神々にも、各々のエピソードを踏まえた(暗示した)事物を描きこんでいる。列の先頭(左端)にヴィーナス、それにつづくアドニス、身をかがめるヒュアキントス、フローラに水仙をささげるナルキッソス、アポロンに心を奪われ太陽の方向を向く者となる右下で身をかがめるクリュティエー…「アルカディアの牧人たち」と違って窮屈な話かもしれないが、隙がないとも思えた。でも、ちょっと見方を変えたら、神々の大名行列とも思えるので、昔の人も大名行列みたいな同じようなものをイメージしていたのかもと考えると、ちょっとおもしろいような気がした。


学校の宿題だろうか、真剣に登場人物を書き写していた

これまで紹介してきたプッサンの自画像がルーヴルにある。


「自画像」(1650)

背景として用いられ描かれている数枚のカンバス、そして壁の位置は本人と近いはずなのに、この理知的で厳格ともいえる存在感はすごい。というより重ねられたカンバスで狭い場所?の奥行きまで表現する技巧を見てとるべきなのかも。


絵画の寓意か結婚の暗示か

左端に少し描かれている女性の頭には、目を形どった冠が乗っている。当時の研究者によればその目を被った女性もしくは目は「絵画の寓意」だそうだ。
『失われた時を求めて』読了後に、保苅瑞穂著『プルースト-夢の方法』という本をおもしろく読んだとき、カバーにこの部分が用いられていた。カバーのデザインは誰のものだったかは知らないが、今から思うと小説の後につぎつぎと手を出した本にて触れられていた絵のイメージも、私を旅へと駆り立てた誘因になっていると思う。私にとってルーヴルはそんなイメージの宝庫だと思える。


こちら鮮明な画像です


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ハンガリーの、とある小さな村が財政難を打開するために、村の8つの通りを対象に自分の名前をつける命名権を販売しているという。詳しくはこちら。
http://www.excite.co.jp/News/odd/00081171673023.html
財政難という現実は笑えないが、笑点の大喜利だったらこれは座布団2枚は堅いかもしれない。
私はこれを読んだ瞬間、よく出来たアネクドート(小噺)というのはこういったものだ!と膝を手で打ってしまったのである。死んだ自分の棺を運ぶために棺から出て片棒担ぐ落語ネタがあるくらいだから、こちらは死んだ体に鞭打ってサインするということかもしれない。

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村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読んだ。そしてこの作品をめぐる読書自体について、感慨深いものを覚えた。凡庸で冗長な話だが、もしよければお付き合いいただきたい。

6年ほど前、私はネット上の掲示板やオフ会で村上春樹の作品で一番面白い(楽しめる)作品は何ですか?とよく訊ねたものだった。どうして訊ねていたのか、おそらくその時分は小説はおろか読書を始めたばかりで、そんななか80年代圧倒的に売れていた村上春樹作品が、2000年を超えても読者を獲得し、読者はよく読後感想をネット上に載せていたという私なりの目で見た経緯がある。既に読んた方々は意見交換・議論を繰り広げ、私はそれを目にする機会が多かった。
私の書き込み(率直な問い)に対する返事は、ほとんどが『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』だった。そこまで多くの人(とはいえ10人に満たないだろうが)が挙げる作品なのだから、何かあるのだろうと思わざるを得なかった。そこで更に、どういったところが面白いのかと訊ねた。
すると、私の村上春樹作品への食指が働くような返事は一つも帰ってこず、また作品にどういった特徴があるのか、巨視的に見たおぼろげながら穿ったレビューさえ1つと数少なかった。まぁ往々にしてネタバレに対して慎重になったやさしさかもしれないし、単に説明することが面倒くさいということもあったのかもしれない。
ところが、おもしろいことに既読者同士ならば、たとえ2・3行の感想のやりとりでも充分に疎通が成り立っていたりするように感じられたのである。
爾来、私は何度か作品を手にとって見たが、20ページぐらいで放り出す始末だった。

先日、私は「村上春樹全作品1979-1989 ④」(講談社)の分で、6年越しでようやく作品を読了できた。今回のチャレンジでは読了まで1週間かからなかった。読後感としては「なるほどぉ」という言葉が出た。そしてM・プルーストの『失われた時を求めて』を逆手に取ったパロディに加えて理系化させ泡ぶくを絞ったような作品だと思った。
作者は様々なことをよく研究し、どんな瑣末なことも注視しアンテナを張り巡らせていることがわかった。作品のプロット(構想)もきめ細かいところから練り上げられているし、展開のキーワードを反復させるタイミングが丁度読者がそれを忘れかける頃だったり、またスピード感を損なわせないために次章でキーワードを反復させるといった手法も巧みだ。それにまた読者に展開を予想させ、ときに読者の思うとおりに、ときにその予想を裏切るようにもっていく、読者の興味を持続させる展開力もある。通常考えられない事象下での法則や摂理を読者に学ばせていき、あの不可思議な世界での理(ことわり)の逸脱を最小限に抑えて、一定の結末まで運んでいく強引さ(力強さ)は、読者に現実にありながら非現実な体験を得るようなカタルシスを得さしてくれる。(ごちゃごちゃ書いたが、おもしろく読める、うまくよくできている小説だということだ)
6年ほど前の、私に訴えたかった個々の内容はどうであれ、この作品を薦めた方々の熱い気持ちはわかった。そして勝手な推測ながら、作品のこの部分がおもしろかったとか、具体的な内容を引用し私に作品を薦める方がいなかったというのも分かる気がする。読み進めるにしたがい解き明かされてくる作品内での世界の公理を、私のような本当に村上春樹作品を知らなかった人間に対し、作品内での哲学的な主張や「第三回路」だ「僕」だ「頭蓋」だとかネット上に書き連ねたり直接面と向って熱く語ったところで、思う以上に説得力は発揮されないのかもしれないし、ひどい話だと気がふれたようにしか思われないだろう。そう考えると、特定の作家の作品について、未読者にその気にさせるレビューというのは、簡単なようで難しいのかも。とはいえ、書店で積み上げられた新刊本の帯のように難しいようであっさりと簡単なのかも。

作品はおもしろかったし、それ以上に感慨深かった。そしてかつてネット上の作品感想や、読みやすい村上春樹作品の評論本にパラパラと目を通したこともあって、以下のような勝手な「追憶」まで私の頭の中で出来上がってしまった。
読者のなかには、作品に散りばめられたおびたただしいキーワードに興味を覚え、謎解きや哲学論議に夢中になってしまった人もいたろう。作品に登場する数多くの外国文学や哲学書、映画や音楽を集めてしまい、決して安くはないお金を費やした人もいたろう。議論で相手を負かすために、作品の言葉になりきってしまった人もいたろう。世代によっては訳として玉石混合な世界文学全集を読み漁り、そののち村上春樹を「発見」したと思った人もいたろう。本を手にしなくなった若者へ、まずは村上春樹をと読書を推進させるという使命感を覚えた人もいたろう。
そういったことが事実であるなら『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という作品は、時代の美的情操を反映させるような性質がある(あった)と勝手ながら思う。正直、この作品が出た時代に何であれ「その時」を映し出しているとされた本を読んでみたかったと、少し後ろ髪ひかれるような思いがあるにはある。とはいえ、今読んで感慨を覚えるという体験は、寂寥感だけでなく思った以上に悦びをもたらしてくれた気がする。

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昨日(2/17)、フレイムハウスにて、うかれれさんとウクリコさんのライブがありました。
とても楽しいライブでしたし、私もいつも以上に楽しめてそして学ぶことが多かったライブでした。(以下の画像はデジカメの動画の小さい画面からですので、画素が荒くなっています。ご了承下さい)


うかれれさん

第一部はうかれれさんの部で、お客さんをほっこりさせる持ち味がとても印象に残る演奏でした。SNSサイトのキャラクター「酢鶏」をテーマに歌にしてしまう独創的な魅力もすごかった。MCの語り口もなめらかで、お客さんの心をつかんで離さないところもすばらしいなぁ思いました。


私です

ウクリコさんの前に一曲だけ、弾かせていただきました。演奏の場を提供してくださったウクリコさんとフレイムのオネーサンに感謝です! いろんなことを感じましたが、とにかくもっと練習し上手くなりたいと思っています。


ウクリコさん、コーラスのAKKOさんと、ピアノのO西さん



ウクリコさん

第二部はウクリコさん。いつも客の立場から演奏を聴かせてもらっていますが、上のこともあって今回はより真剣に演奏に聴き入りました。演奏技術だけでなく、その場全体に響く迫力に圧倒されました。そして私の知っている好きな曲もたくさん登場したので、更に楽しませていただきました。特に「When I'm Sixty-Four」よかったなぁ~。

最後にちょいゲストの私からではありますが、なんと表現したらいいのか、とにかく演奏を聴いてくださったみなさんに感謝の言葉しか出てきません。雨にもかかわらず、多くの方に来ていただいて、本当にありがとうございました!

さて、フレイムハウスではこれからも楽しいライブがありますので、ぜひお運びください。
そして、ウクレレ・歌・小説好きの方はぜひmixiのほうで「うかれれ」と検索してみてくださいませ。
またウクリコさんのサイトレレレのブログ~Le Le Le no Ukulele~おふとん だいすき♪に、ぜひアクセスしてみてくださいませ。

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この時期に、もう春一番が吹き荒れたというニュースが流れたので、さっさと冬の画像をアップします。


山脈みたいな雲出現①



山脈みたいな雲出現②



晴れていたのに陽光はなし。



代わりに虹が…寒かったなぁ…


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私は本格的な小説など書いたこともないが、ある小説家のインタビュー記事から、小説の新たな試みをする上で先祖帰りする作品が二つあるという言葉には、興味を持ったことはある。その作品とは、一つは17世紀の『ドン・キホーテ』、もう一つは18世紀の『トリストラム・シャンディ』だという。
この『トリストラム・シャンディ』を書いたイギリスの小説家にロレンス・スターンという人がいて、スターンは日本人でも馴染み深く感じられるような題名をもつ『センチメンタル・ジャーニィ』(1768、原題は A Sentimental Journey through France and Italy, by Mr.Yorick)という作品を書いている。
解説によれば、この作品におけるセンチメンタルは現代の訳みたいに感傷というものではなく、18世紀に実際に用いられていた「考え、意見」という意味と、スターン自身が広めた「洗練された豊かな感情」という意味が併せて込められ使用されているらしい。
では、作品はどういった内容かというと、ヨーリック師なる人物がフランスとイタリアを巡った旅行記と一言で済ませられるようで、そうでもないのだ。
スターンの書く小説は話の筋があるのか無いのか、本当に分かりづらい脱線小説という特徴を持っている。ところがこの手法は一時忘れ去られるものの、20世紀文学に多大なる影響を及ぼした。
どんなことかというと、観光名所そのものの蘊蓄を傾けるよりも、街角で出会った人の印象やトラブルの事実に加えて、そのときの自分の感情を包み隠さずに文にするところであるといえるかも。なんだそれくらいのこと、と思われるかもしれないが、これがそうなかなかできないものだ。とくに旅行先で出会った人に対する感情を発露するとなると、それが嫌悪なのか悲哀なのか同情なのか欲情なのか義侠なのか疑念なのか…大雑把に表現するだけでもかなり難しい。まして印象を文にした時点で、自分にウソをついているかもしれないわけで、読んでいる相手に洗練された感受性を表現することは大変なことなんじゃないかと思う。
だから作品では、宿で出会ったがめつい主人についての記述が数ページにも及んでいたりするわけだ。ところが内容は退屈かといえば(最初はそうかもしれないが)、洗練された感受性ゆえに、感傷的で泣きそうになるような場面のはずでも、どこか笑いを誘うような、多感な筆者ならでは記述もたくさん散見できる。だから、ある程度読み進み慣れてくるとかえって退屈しないし、まるで人様の面白い旅行話を聞いているようなそんな感覚になってくる。
倦厭されるかもしれないが、私は旅行記などの文章を書くときはスターンのような徹底した情感の記述を盛り込んでいるつもりなのだが、いつも気持ちだけになってしまっている。まぁ実際、旅程に加えて出会った人とのことを情感たっぷりに全部書こうものなら一生が終わってしまうので、無理な注文といえばそうなのだが、でもスターンはそれをやろうとしたんだろうなぁ。何せスターンの作品には完結したものが無く、最後の文は尻切れトンボで終わってしまっているのだから…。
この作品で印象に残った言葉の一つ

人間にはやすやすと欺される心が或る程度ないと、それはかえってよくないものだ――
スターン『センチメンタル・ジャーニィ』小林亨訳(朝日出版社)p139

旅行中、ボラれやすい自分には大いになぐさめになる。

この作品は脈絡が感じられないので退屈かもしれないが、話が脱線していくような内容が苦痛でない人にはおすすめかもしれない。またスターンといえばやっぱり『トリストラム・シャンディ』だと思うのでそちらも併せておすすめ。ちなみに本は入手困難ではある…。
最後に、タイトルを見てこのブログに飛んできた方、ひょっとして1981年以降に流行った松本伊代が歌った曲か、渡辺淳一の本のことを書いた記事と思ったかもしれませんが、これをきっかけにスターンの「脱線小説」の世界を楽しんでみてくださいませ。

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祝日で休館の図書館のポストに本を返却したあと、京都会館を囲むように関西ステージマーチングフェスティバルの出番前の準備に勤しむ派手な衣装を着た参加者たちを横目に、平安神宮の傍を通った。
その後、川端丸太町の交差点で信号を待っていたら、地図を一心不乱に見ていた初老の外国人夫妻が英語で私に話しかけてきた。以下のやり取りはもちろん、しどろもどろ英語でのものである。
「駅はどこ?」
「見えている、すぐそこの地下です」
「いいや、新幹線の駅だよ」
「京都駅ですか? 遠いですよ」
「歩いてどのくらい? 2時間は余裕がある(もしくは2時間以内に着きたい)」
ここで一度、平安神宮から京都駅まで休みなしで1時間15分かけて歩いて行ったことのある私は、見積もって行けない事もないと思った。今から思うとトンデモないことを教えてしまいかけた…。
「真っ直ぐ行って、烏丸通りとあったら、左に曲がってください」
「どのくらい?」
「烏丸通までが30分。その後は1時間半ぐらい」
「歩くのはやめた。列車で行くよ」
紳士は「いいや」にあたる単語で「Nein」と言った。あ、ドイツかドイツ語圏の人だと私は思った。
夫妻は向きを変えて京阪の駅の階段へと向ったのだが、ドイツの響きに私の心は躍ってしまい、過去に旅行でドイツに行ったと思わず言ってしまった。階段に差しかかろうとした時、紳士が尋ねた。
「ドイツ語話せるかい?」
「Auf Wiedersehen!(さようなら)」
このとき奥さんの方がアハハハハ!と笑い出した。私もこれは尋ねられたことに対する返事としては会心のギャップで、タイミングが絶妙だったと自分でも思うし、もし立場が逆で私が外国で別れ際に道を訊いた相手が同じように返事したら、私だって笑い出したに違いない。つづけて紳士、にこやかに
「Vielen Dank!(どうもありがとう)」
私、
「Tschus!(バイバイ)」
   ・・・
とまぁこれだけのことだったが、礼は言われたものの気にかかったことがある。私はあの夫妻に京阪では七条駅で降りて、そこから20分ほど歩くかバスに5分乗るという道程を言い忘れていたのだ。
京阪では直通でJR京都駅に行けない。大阪に行ってしまうことなく、何とかして着いただろうか? まぁ、夫妻はマップ持ってたし駅構内で案内はあるし、なんとかなったと思いたいのだが、たとえどのような結果になっていたにしろ、あの時の絶妙の笑いは忘れてほしくないものだ。もし明日ばったり再会し苦情言われたら、旨いラーメン屋で罪滅ぼしさせてもらおう。(まず無いだろうけど)

   ***



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昨年の一月末、ダダイズムのデュシャンの傑作「」をハンマーで壊そうとしたピエール・ピノセリ氏が逮捕された。この便器の危機?たるニュースには個人的に大いに興味を覚えたのだが、最近ピノセリ氏に対する判決が下りた。

http://www.excite.co.jp/News/odd/00081171074295.html

三ヶ月の執行猶予とは、判事たちはフランスにあってさすがに芸術には造詣が深く、それ相応の斟酌をしよるわい、というのが正直な感想だった。
これからもピノセリ氏に活躍の場が与えられんことを!

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