デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



東首塚

「戦いの後に敵味方の区別なく供養を行うのは
当時の習わし」とある。負けた側で戦死すれば
供養すら行われなかったら延々と恨まれること
を避けたい狙いもあったのかもしれない。

また、この説明内容からして、こちらのクイズの答えは(1)ということか。




首級墳碑

古代ローマにしろ古代中国にしろ大事な
記録は石や岩に刻むことを思い出した。






6月の関ヶ原散策はここまで。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




石田三成の陣跡あたりにて

松平忠吉・井伊直政陣跡




慣用句に「抜け駆けの功名」というのがあるが、関ヶ原合戦での東軍の先陣争いが語源になったのではと思ってしまうほど、この二人が福島正則の隊の横を抜け駆けして戦いの火ぶたが切られたエピソードはよくできている。
古今東西、当初の計画や予定や正式な手続きや継承の慣例を無視し、抜け駆けたり出し抜いたりしたことで、事実上は掠め取ったにすぎないことでも祝福を与えられ権力を保持し続けつつ恨みや誹りを受けつづける代償をともなうエピソードを挙げたらきりがない。日本に絞ったとしても神話の時代から乙巳の変、壬申の乱、その他枚挙にいとまなしだ。
ただ、ある意味、井伊家は徳川家にとって重要な局面での矢面に立ち続けた忠臣ではある。幕末の開国と近代化へ踏み出すうえで矢面に立ったことからもそれは窺えるかもしれない。徳川四天王の一人として、未だに少なくない誤解を抱かれる代償も背負った重臣だった。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




陣跡の碑らしきものが

細川忠興陣跡








いまは児童公園か

うっかり忘れてしまうことがあるのだが細川忠興の妻の細川ガラシャは明智光秀の三女なのだ。何かの番組で聡明で教養も高かった細川ガラシャが生き延びて、本能寺の変から豊臣氏の滅亡(細川ガラシャが生き延びてなお大坂の陣で滅亡していたらの話だが)までの回想録を残してくれていたらそれこそ第一級の史料になったろうと早すぎる死を惜しがる歴史研究者の言は印象深かった。
細川ガラシャとキリスト教布教について、昔だったら、戦国の世にあって「神のもとに身分など無く皆平等」などと言われ続けたら大名や庶民問わずキリスト教に傾倒したり改宗した人がいてもおかしくないし、そんな当時にあって「ありがたい宗教」を弾圧した歴史に自虐史観を覚えたことだろう。そしてバテレン追放令やキリスト教禁教と、権力闘争や風雲急を告げるなかでの細川ガラシャの死とは実質的に関係ないにもかかわらず、一緒くたにして感傷的になっていたかもしれない。
今は、細川ガラシャが非業の死を遂げた事には変わりないと思いつつも、ポルトガルとスペインが武器を輸出して利益を挙げるとともに布教によって日本をキリスト教国へと改宗・変心させることと、日本の銀の搾取することをワンセットにした侵略と植民地化の目的を遂行しようとしていた事実を知っているので、そのことを思うと複雑な気持ちになる。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





クイズを出されたら答えたくなる私のような者には楽しく感じる町の取り組みだが、人物の略歴のみならず美濃国の地理的知識まで問われるようなこの問題、かなり難しくないか!?(笑) 正直私には分からなかった。

細川忠興の紹介が。陣跡までもうすぐだ。

陣跡が近いのもあっての紹介だろう。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




数年ぶりに関ヶ原へ

姉川を通過し関ヶ原古戦場跡へ。今回は観光案内所が開いているか分からなかったのでネット上の地図を頼りにこれまで行っていない陣跡に向かうことにした。

比較的新しい案内板があり分かりやすい


一般の民家にお邪魔しようとしているかのようだった





本多忠勝陣跡





解説板も新しい感じだ

徳川家康に仕えた本多忠勝はドラマで兜に鹿角をつけた姿で登場するのが印象深い武将だ。また武勇や武功という印象も強いせいか、演じる人がアクションヒーローを演じていた俳優だったり、格闘家出身の人だったりすることがあるのも特徴かもしれない。
徳川家康が天下を取れたのはこの人の働きも大きいことはよく知られている。私はまるで張飛と関羽のいいところばかりが集まった忠臣というイメージを思い浮かべることがあるのだが、それはそれで脳内での脚色が過ぎるかもしれない。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )