デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



比叡山高校の傍の登山口へはここから行ける

紀貫之の墓を訪ねた後、下山するにあたり坂本ケーブルから少し南にある比叡山高校の横へ行ってみようと思った。(本当のところは別ルートで降りたら比叡山高校の裏に出てしまった、というのが正しい(笑))
でも写真は撮り続けたので、紀貫之の墓への別ルートという形で紹介する。











登山口は野球部のグラウンドの後ろがわにあるのだ。



標示は剥がれてしまってたが、細い登り口があるのが分かる

画像として紹介するのは少なめだけれども、登るとなるとそれなりにきついかも。

















ここを左に



この標示まできたら、すぐである

余談だが、比叡山に京都から登るにしろ滋賀から登るにしろ、延暦寺に近いある地点で「延暦寺の拝観料が発生」といかいう注意書きに出くわすことがある。延暦寺に行くつもりがなくとも、知らぬ間に「有料山路」に入り寺に出てしまうといった事態を望まない登山者は、事前に寺を通らずに登山できるルートを調べておいたほうがよいだろう。

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まぁいろんなものがおっ立ててある



墓標自体は明治に立てられた?







紀貫之の『土佐日記』について、今のところ私の中では、「かな」が使われている時点で読み手が瞬時に女らしいと文章だと判断していたのか、いくら「かな」を使って書いたところで読み手からすれば「あ、これ実は男が書いてるやろ?」と即見抜かれたりしていたのだろうか、などの、いくつか疑問をもっている。
ただ、やはり『土佐日記』は文を読んだり書いたりする人から見れば、「紀貫之め、女言葉をつかって諧謔めいたものを書きよったわい(笑)」といった楽しみを、当時の読者は味わっていた可能性はあるだろう。紀貫之は自分の交友関係のネットワークをもっていて、その「友だち」に日記のことを知ってもらったからこそ、作品は今に伝えられたと思うのだ。

ところで私が読んだ『土佐日記』は、林望著『すらすら読める土佐日記』(講談社)の分であるが、この本にはありがたくもページの上段に原文、下段に現代語訳が付されていて、初心者にも『土佐日記』が非常に分かりやすくとっつきやすさを感じさせるものになっている。
この本の中から『土佐日記』の七日目を引用させていただく。

七日になりぬ。同じ港にあり。
 今日は、白馬を思へど、かひなし。ただ波の白きのみぞ見ゆる。
 かかる間に、人の家の、池と名ある所より、鯉はなくて、鮒よりはじめて、川のも海のも、他物ども、長櫃に担い続けておこせたり。若菜ぞ今日をば知らせたる。歌あり。その歌、

浅茅生の野辺にしあれば水もなき 池に摘みつる若菜なりけり

いとをかしかし。この池といふは、所の名なり。よき人の、男につきて下りて、住みけるなり。この長櫃の物は、みな人、童までにくれたれば、飽き満ちて、船子どもは腹鼓を打ちて、海をさへおどろかして、波立てつべし。
 かくて、この間に事多かり。今日、破籠持たせて来たる人、その名などぞや、今思ひ出でむ。この人、歌詠まむ、と思ふ心ありてなりけり。とかく言ひ言ひて、「波の立つなること」と憂へ言ひて、詠める歌、

行く先に立つ白波の声よりも 遅れて泣かむ我や勝らむ

とぞ詠める。いと大声なるべし。持て来たる物よりは、歌はいかがあらむ。この歌を、これかれあはれがれども、一人も返しせず。しつべき人も交れれど、これをのみいたがり、物をのみ食ひて、夜更けぬ。この歌主、「まだ罷らず」と言ひて立ちぬ。ある人の子の童なる、ひそかに言ふ。「まろ、この歌の返しせむ」と言ふ。驚きて、「いとをかしきことかな。詠みてむやは。詠みつべくは、はや言へかし」と言う。「『罷らず』とて立ちぬる人を待ちて詠まむ」とて求めけるを、夜更けぬ、とにやありけむ、やがて往にけり。「そもそも、いかが詠んだる」と、いぶかしがりて問ふ。この童、さすがに恥ぢて言はず。強ひて問へば、言へる歌、

行く人もとまるも袖の涙川 汀のみこそ濡れ勝りけれ

となむ詠める。かくは言ふものか。うつくしければにやあらむ、いと思わずなり。「童言にては何かはせむ。嫗、翁、手捺しつべし。悪しくもあれ、いかにあれ、便りあらばやらむ」とて、置かれぬめり。

(現代語訳)
七日になった。が、まだ同じ港に停泊している。
 今日は宮中で白馬(あおうま)の節会(せちえ)が行われている日だなあと思うけれど、どうにもしかたがない。こうして、馬の白いのは見えもせて、波頭の白いのばかりが目に見える。
 そうこうしているところへ、ある人の家から、……これは池という名前のついた所の家からでしたが、長櫃(ながびつ)に幾つも幾つも担がせて贈り物を届けてきた。なにが入っているのかと思ってみると、残念ながら池につきものの鯉はなくて、鮒をはじめとする川の魚、そして海の魚、その他あれこれと入っていた。なかに若菜が入っていたので、そうか今日は菜摘(なつ)みの行事の日だったよなあと思い知らされる。菜に、歌が付けてある。その歌。

「私のところは『池』とは申しますが、じつは茅萱(ちがや)の繁る野、そんな野辺の村なのでございますから、その水もない池で摘んだ若菜でございます」

 じつにしゃれたものだ。この「池」というのは地名である。やんごとない身分の姫が、夫に連れ添うてこんなところまで下ってきて、今も住んでいるのである。この長櫃のなかの物は、一行の総ての人に、それこそ童(わらわ)の末に至るまで行き渡るほどあったので、みなすっかり満足満腹して、船の水夫どもは鼓腹撃壌(こふくげきじょう)の民よろしく腹鼓を打って、池どころか海までも驚かして波を立てようかという騒ぎとなる。
 とまあこんなことで、かれこれするうちにいろいろな事があった。今日、折り詰めの餞別(せんべつ)を家来に持たせてやって来た人、さてその名は、なんと言ったか、……ま、そのうち思いだすだろう。ともあれ、この御仁、よせばいいのに歌を詠もうと思いついて、それでこんな粗略なものを持ってやって来たのであったよと思い当たる。ああだこうだとお喋りをして、揚げ句に「波が立つようでござりますなあ」などと、わざとらしい憂え顔で言って見せたあと、詠んだ歌は、

「行く先に立つ白波の音よりも、その後に残されて泣く私の泣き声のほうが、きっと勝るでありましょう」

 と、こうであった。波よりも勝るとは、よほどの大声にちがいない。持って来た料理はまあいいとして、この歌のほうは、さていかがなものであろう。この歌については、誰も彼も、口先では、結構ですなあ、ってなことを言うけれど、ただの一人も返し歌を詠もうという人がない。一同のなかには返し歌を詠んでもよさそうな人も交じっていたけれど、その人もまた、「まことに結構なるお歌で……」なぞと言いつつ、ひたすら物を食うて、夜が更けた。と、この歌の主は「まだ帰りませんがね」と言いながら、ふと席を立った。その時、ある人の子で、まだほんの小さな女の子にすぎぬ者が、「わたくしが、この歌の返しをいたしましょう」と言う。一同これにはびっくりして、「そりゃあいいねえ。でも、ちゃんと詠めるかな。もし詠めるなら、さっそく言ってごらん」と言う。すると、この子が「さっき『まだ帰らない』と言って立っていった人が戻ってきたら詠みます」と言うので、くだんの歌の主を船じゅう探してみたけれど、みつからない。たぶんもう夜が更けたから、とでもいうので、あのまま帰ってしまったのであろう。「で、それは、いったいぜんたい、どんなふうに詠んだかね」と、いぶかしく思って尋ねる。けれども、この童、そうは言っても恥ずかしがって言わない。強いて問うと、やっと言った歌は、

「都へ帰っていく人も、ここに留まる人も、袖濡(そでぬ)らす涙が川のように流れて、その涙の川の水際はますます濡れ勝っていくばかりでございます」

 とこんなふうに詠んだ。なるほど、こんなふうに詠むものか。まだほんの可愛い娘だとばかり思っていたからであろうか、この歌の出来の良さには、みな意外の感を持ったことである。そこで、一同「子供の歌ということではどうにもならぬ。ここはひとつ、お母上かお父上が、署名なさったらよい。作者を偽るのが悪いことであろうとなかろうと構わぬさ。それで、なにかのついでにでも、奴に届けておやんなさいよ」とか言って、それっきりになったもののようである。

長くなったが、こんなことって現代でもあるだろ?と、弊ブログをご覧になられている方々に共感を求めたい気分になってくる(笑)。
餞別(豪華な料理)を持たせてやってきた田舎の役人は、日記の作者に名前すら覚えてもらえない。そもそもこの役人に関しては、作者は名前を覚えようとする気がないように私は思う。
なぜならば、この田舎役人は別れを惜しむために料理を振舞ったのではなく、自分の歌を聴いてもらうために足止めを食らっている船客に料理を振舞ったからである。この役人の歌は自ら歌の素養の貧しさを露呈してしまうできのもので、それを聞かされる船客たちはいい迷惑なのだ。なので「けっこうなお歌」と言ってはいるが、場合によっては誰もが絶句してしまい場が白けて、誰もが料理を何かをごまかすように取り繕うように俯いて食べ続けるような光景すら起こりうるだろう。そして次の秀逸なエピソードが語られる。
船中には歌を返せるような素養の持ち主もいるが誰も返さず、田舎役人はバツが悪くなったのか引くに引けなくなったのか「まだ帰らん」と言い残しその場を一旦?離れるが、その間に子供が大人顔負けの返しの歌を詠んでしまう、というのはなんとも笑える話ではないか。あげく、みな子供に感心したものの田舎役人の顔も立てなきゃならんから、善悪はともかくその場をとりつくろいましょうと共謀する思考はさらにおもしろい(笑)。
西洋と東洋の文芸における笑いについては一概に比較はできないが、セルバンテスの『ドン・キホーテ』が機知でもって人を笑わせるものを書くことに並々ならぬ姿勢を感じさせ、また自ら機知について時に狂人の主人公に作中で論じさせることのおもしろさを与えてくれるものならば、紀貫之は機知について論じはしないが人の素養の有無がはっきり表れる情景をものの見事に描き出し、この場の空気って困るよなぁ、食っちまった料理を今更吐き出すわけにもいかん、といった誰でも覚えてしまう情感があって、懐かしくもあり同時進行的なものがあるように思う。
『土佐日記』はこういった笑えるエピソードだけでなく、悲哀を感じさせるエピソード、ちょっとエロいがユーモアを感じさせるエピソード、紀貫之の前の時代に編まれた和歌集や唐詩を踏まえて書かれたシブい記述など、盛りだくさんな内容になっている。私なんぞが『土佐日記』の魅力を語ろうにも到底語りつくせぬが、もしこの記事で『土佐日記』を手に取ってみようかな、と思われた方がおられれば幸いである。

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紀貫之の墓

なんとか登ってこれた。


微妙に詠みづらい(笑)



文字が月日を経て消えてる



なんとかの碑とあるのは読めた

前回、『ドン・キホーテ』について少しだけ書いたけれども、なぜここに来て『ドン・キホーテ』のことを思い出したのかといえば、紀貫之の『土佐日記』の魅力と重なるところがあるように思ったからである。
たとえば、文芸作品を書く上で、語り手の存在を自己韜晦させる手法がある。セルバンテスは「シーデ・メハーテ・ベネンヘーリという歴史家がアラビア語で書いたドン・キホーテの記録を、アラビア語から翻訳したものが『ドン・キホーテ』である」という設定にしているけれど、紀貫之だって男なのに女になりすまし「男が日記を書くなら、女の私でも書いてみよう」と女の語り手という設定にしている。
セルバンテスの『ドン・キホーテ』が出たのが17世紀前半、『土佐日記』が書かれたのは10世紀、なんと『土佐日記』は600年以上も先んじて、文芸として自己韜晦の方法を用いて、読者を楽しませていたことになる。単純な思考だが、ただこれだけで日本の古典ってすごいな!と思い、またその内容も決して西洋文学に引けをとらない箇所も多いように思うのだ。
飛躍しすぎた解釈になるかもしれないが、次の記事あたりでそのことについて少し触れたい。

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M・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ』に以下のような一節がある。

ニコラス親方が、いったい誰の作品かと思って取り上げてみると、それは『雷名高き騎士ティランテ・エル・ブランコ』であった。
 「これは驚いた」と、司祭が大声をあげた。「こんなところに、『ティランテ・エル・ブランコ』があったとは! さあさ、こちらに渡してもらいましょうか、親方。これを手にするとは、まさに楽しみの宝庫、気晴らしの鉱脈に出くわしたようなものですよ。ここでは、勇士ドン・キリエレイソン・デ・モンタルバンとその弟トマス・デ・モンタルバン、さらには騎士フォンセーカらが颯爽(さっそう)たる男ぶりを披露し、豪勇の騎士ティランテが猛々(たけだけ)しいアラーノ犬とわたりあい、侍女のプラセルデミビーダが才覚を発揮し、寡婦レポサーダが色恋沙汰において手練手管を弄(ろう)し、はたまた名だたる女帝が従士のイポリトふぜいに懸想(けそう)したりするんです。実を言えばね、親方、その文体からしても、これは世界一の良書ですよ。なにしろ、ここでは騎士たちがものを食べたり、眠ったり、ベッドの上で死んだり、死ぬ前に遺言をしたりといった、この種のほかの本には見られない、さまざまなことをするんですからね。とはいうものの、わたしはあえて言うが、この本の作者は、あれほど多くのばかげたことを故意に書いたわけではないのだから、終身漕刑(そうけい)囚としてガレー船に送られてしかるべきですな。ともかく、これを家に持ち帰って読んでみれば、わたしの言ったことがすべて本当だとお分かりになるでしょう。」
    M・セルバンテス(牛島信明訳)『ドン・キホーテ(前篇一)』第6章(岩波文庫、p121~122)

気の利いたことを言ったり、洒落(しゃれ)たことを書きつけたりするのは大変な才知を要することです。芝居においていちばん才能のいる役柄は道化であるが、それというのも、観客にばかに思われようとする者が本当にばか者であっては具合が悪いからですよ。
    『ドン・キホーテ(後篇一)』第3章(岩波文庫、p69)

後者の方で言わんとしている事は読者にも理解しやすい。前者でセルバンテスが司祭の口を借りて品定めをしている要素は、実は『ドン・キホーテ』を読む上でとても重要である。

とはいうものの、わたしはあえて言うが、この本の作者は、あれほど多くのばかげたことを故意に書いたわけではないのだから、終身漕刑(そうけい)囚としてガレー船に送られてしかるべきですな。

この言い回しこそ、『ドン・キホーテ』の真骨頂なのだ。つまり機知のある作者ならその故意でより、『ティランテ・エル・ブランコ』がもっとおもしろいものになる、少なくともばかげたものではなくなるはずなのだ、ということだから、この作者がなんの機知も持ち合わせていない作者であることを、セルバンテスは司祭の口を借りて辛らつな評価を下しているわけだ。セルバンテスの小説に対する姿勢、とりわけ笑いに対するこだわりは並々ならぬものがあって、人を楽しませる作品を書くには機知を要して作品に取り掛かる信念を垣間見ることができるように思う。
この箇所は訳者の牛島氏もかなり気をつけたようである。さらさらと読んでいけば見落としがちになるし、一瞬何を言いたいのか分かりづらいと思うかもしれないが、作品の中に顕れるキラリ光るもの、「こう書かれちゃかなわんなぁ(笑)」といったことを捉えられれば、読書はもっと楽しいものになると思う。

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あと五町、600mもない

画像では分かりづらいが、ここから左と右に道があるのが分かる。右の勾配が少しきつく細い登り道を行く。



こういった丁寧な道標があると本当に気が楽になる。



この辺りで「山の神さま(大きい蛇(ヘビ苦手な方はクリック非推奨))」と出くわした。
さすがに驚いたが、こちらが何もしなければ危害を加えてくるわけでなし、ゆっくり距離をとるようにして歩いていると人間の歩く音に驚いたのか、すぐにどこかへ去って行った。木の杖は持っていたし、また毒を持ってるやつではなかったし、おっかなかったのは事実だが、貴重な姿を見れたとは思う。


気持ちを切り替えて登る。






おっ、それらしきものが。


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浄利結界跡




しばらく道標がないので不安ではあったが、ようやく山道らしいところに入る手前に道標があった。
一応、山を降りてくる人にも「紀貫之の墓ってありましたか?」と訊ねた。すると墓への距離を記した道標があるので分かるよ、と返事をもらえたので、行く気持ちがより強くなった。
登っている途中に遠足だろうか、先生に引率された小学生の団体とすれ違い、子どもらが「先生、誰か登ってきます!」とか軍の伝達口調で話しているのが聞こえてきたりした。


あと九町。大体1kmぐらいか。



お地蔵さんがまつられている

ここからが案外遠く感じたものである。






念のため書いておくけれども、紀貫之の墓への歩いて行くルートは私が辿った道以外にもルートがあるようである。

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J・ケルアック『オン・ザ・ロード』(河出文庫)読了。
作品は、日本の古典や俳句が外国ではなかなかその情感まで伝わりづらいのと同様、英語の語感を理解できないと作品のおもしろさが感じとれないのではないかと思った。また普段からときどきでもジャズやマンボを聴いていないとあのはじけるような感じもピンとこないかもしれない。翻訳もかなり意訳しようとしているが、そうとう手こずった感があるのは読んでいて分かった。
ただ、いかにもアメリカらしい映画のジャンルにロードムービーがあるけれども、『オン・ザ・ロード』はロードムービーの源流というかそういった作品であるようには思う。
人間は所違えば文化も人もまた違う。一国一城の主にたることが幸せの絶対的価値観であるような物言いを何の疑いもなく大前提として豪語する人もいるが、移住や移動することや途上にある状態であっても人は生きていけるし、逆にそういった生き方の方が気楽で安らぐという価値観も存在するのである。
特にアメリカという国は開拓の時代から人の移動が当たり前で、それがアメリカの文化を成り立たせている側面がある。とくに個人が車をもつようになってからは移動の文化に拍車がかかったろうし、現代でも例え旅をしている状態であっても自分たちで稼げる技量さえあるならばキャンピングカーでアメリカ全土を旅してまわって、訪問した土地で子どもを実地で勉強させたり、そこで働いて土地を知りその後の人生に生かしたり、生まれ故郷とは違う町に長く住むのはざらである。
そういった人の移動は西部開拓に始まるのかもとか作品を読んで思ったが、よくよく考えてみると「旧約聖書」のヤコブだって遊牧民という職業柄ではあったが定住に反感を持っていたようなところがあるから、案外ひとつのところに腰を据えてという考え方に負けず劣らず、行商や遊牧の生き方や旅への抑え難い力はDNAに刻み込まれているのかもしれない。
それに作品がカウンターカルチャーの聖書とまで言われているのも、少しだが分かるような気がした。これからもボブ・ディランの歌は絶える事はないだろうし、聴き手がいる以上、やはりケルアックの残したものはアメリカ文化に根を張っていたものをアメリカ国民に喚起させる作用があると言っていいように思う。

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琵琶湖病院の傍から(県道47号線)

比叡山を登るルートについてネット上で調べていたら、比叡山の滋賀県側に国語(古文)や日本史で名前くらいは聞かされる紀貫之の墓があると出た。
京都にはいくつか有名人の墓があるけれども、平安時代の著名人で祀られている人は少なくないとはいえ、平安時代の人の墓はあまり聞かない。
また個人的に『土佐日記』については一度まじめに読んでみたいと思っていたので、これをきっかけに参詣と体力づくりと『土佐日記』の読書とを兼ねてみようと思った。で、最初に参詣した。

紀貫之の墓にはいろいろ行き方があるけれど、私はとりあえず京阪電鉄石山坂本線の松ノ馬場駅から西に歩いて琵琶湖病院に面している県道47号線を渡った。


登山口の標が






登山初心者にとっては一瞬「行っていいの?」と疑いたくなる









とにかく上がって行く


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頂上から少し下りたとこで

比叡山山頂にはケーブルカーやロープウェイを利用する以外にも、バス、マイカーでドライブがてら来るという方法もあるんだなぁと、バスの停留所や広い駐車場を見て思った。ちなみに比叡山ドライブウェイの料金はこちらのとおりである。





滋賀県側の眺望

ゆっくりしていられる時間ではなくなったので、さっさと下山。


再びケーブルカーの駅のところへ。



さすがに夕暮れ時となると冷えてきた


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ここを左が正解だった。

一旦少しだけ引き返し、順路がのちのち分かるように写真を撮りなおした。
上の画像の左をしばらく行くと、山頂駐車場に出た。


山頂駐車場から「京都側」?



左の道をガードレールに沿って登っていく



ここで迷いそうになる。よく見れば右に行けるのが分かる。

右に行って少し登る。


こんなのが見えてくる。



ここで左を向くと…



こんな上り道が。躊躇することなくあがると



三角点に到達。木々に囲まれているので、絶景は期待できない(笑)。


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