デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



弥生の森歴史公園


















音楽プレーヤーからはラブバラードが流れていた

銅鐸(どうたく)博物館は正式には野洲市歴史民俗博物館という。すぐ横に弥生の森歴史公園があるのだが、竪穴式住居が再現されていて、さらにライトアップされていた。
昼間来たならば普通の竪穴式住居を再現したものなんだろうけど、日が沈んでからのライトアップはいろんな意味でカオスで楽しかった(笑)。

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関西文化の日というものがあることを知ったのはごく最近で、その日の存在を聞いてすぐ概要を調べた。
すると気になってはいたが遠いところにあり、移動に時間を取られてしまうこともあって閉館時間なんてすぐにやってくるような施設が、この日だけは開館時間を延長しているのが目に入った。そういったところなら、夕方から出かけても、ゆっくり楽しめるので、喜び勇んで車を走らせた。
向かったのは滋賀県にある銅鐸博物館である。

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辻邦生『廻廊にて』(辻邦生全集1(新潮社))読了。

貴婦人と一角獣展のあとに、中世のタピスリーを作品を読み解くキーとして用い、そのタピスリーの描写が心に深くしみこんでくる場面があると友人から聞いたので読んでみた。作品におけるタピスリーは確かに重要なキーであるのは間違いないだろう。
全体としては、初めて読む作品なのに非常に懐かしい香りのする小説であった。おそらく『廻廊にて』が書かれるまでの作者の読書遍歴が、個人的に私の読書の軌跡と重複するように思われ、作中の場面場面になぜだかかつて私が没入し今でも即イメージできるような絵巻物めいたものを感じたからであろう。
作品には、作者に影響を与えたロシアの作家の作品やソビエト映画の場面、フランスの作家の生涯が盛り込まれているように思う。『悪霊』や『おかしな人間の夢』などに登場するあの場面、20世紀二大作家の『失われた時を求めて』と書いた作家の「恋人」にまつわるエピソードを踏まえたうえで描かれているエピソードが作中に見てとれる。
また年を経た語り手を創作しようとしたこともあってか、あまりに分析的な語句を用いすべてを語ろうとしている点もある作家の影響があらわれているように思う。これは作中にエッセイを挟む、20世紀最大の知識人の一人とされている作家の作風からであろう。
もちろんかなり苦心して書かれた作品であることは察するに余りある。決して冷やかすわけではないが、『廻廊にて』においては、正直、辻邦生の作家としての若さが見てとれるようで、ほほえましかった。

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日の光が斜めに





















いろいろ濃い話しのできる店もあった。



車から見る月。帰りの国道176号は混んでたなぁ…


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篠山城下町は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されているそうだが、着いた時間が午後3時ということもあり、商店街を往復した程度であまり散策できなかった。いつの日か予習してからまた行きたいものだ。
商店街には篠山ならではの美味しそうな物がたくさん売ってあった。

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9月中旬にこの作品の上巻を手に取り、今月の月初に下巻を読み終えた。きっかけは貴婦人と一角獣展を見て改めて中世ってなんだろう?と思ったことであった。フランスの中世に関する本を手にとってもよかったのかもしれないが、世界史をやっていない私は7世紀から15世紀の大まかな年表も頭の中にないのである。それならば、まずは神聖ローマ帝国と7世紀から台頭してきたイスラム教とイスラムの国の覇権争いについて、「ローマ人の物語」の著者の視点から書いた本を読んでみようと思ったのだ。
西ローマ帝国亡き後の地中海世界での覇権争いについて触れたのが本書であるが、上巻を読んでいる最中に、作品の評価は毀誉褒貶激しいものだろうと思った。あたかも海賊行為が中世イスラム世界の生業で、イスラム世界の食料や労働力はすべてキリスト教国の海岸沿いに住む無名の人々から奪っていたかのような印象を受けてしまい、地中海の覇権あらそいを中立の視点で描いているとは私の目から見ても言いがたい。
ただ、イスラム世界であれ中世ヨーロッパの諸侯であれ、同じ宗教と信仰していながら、結局は自国内の権力争いや国益ともいう自己中心主義から脱却できず、いざというときになっても逡巡しなかなか団結しない様子の描き方はさすがといっていい。また、本当に体を張って最前線で相手と対峙していた騎士団や、周辺諸国から裏切り者扱いされても実質的に宗教を超えた共存を実現させ一時でも平和をもたらしたシチリア王、いくら宗教的に対立していようが他国あってのものだねを標榜するヴェネツィアに関する記述から読める、塩野氏が強調したいところは私も共感できた。やはり、本来なら、フリードリヒ二世みたいな人物こそが、キリスト教・イスラム教共通の聖人として崇められてもいいはずだし、経済という見地に立てば宗教は宗教、ビジネスはビジネスという割り切りがどうしても必要で、ビジネスの相手に対する情報収集とその情報を生かす力こそ国が生き残るための重要なファクターであるのは否定できないだろう。
ところで、作品に出てきた「無名の人々」の中の一人に、私の好きな『ドン・キホーテ』を書いたセルバンテスのことも触れられていた。たしかにセルバンテスの作品や彼の伝記には、中世の地中海世界での過酷な現実が描かれてあったが、今ならその内容の深さと重さが少しは理解できるように思う。
また、作品には、私が過去に何も知らずにローマで撮っていた写真と関連する事項がいくつかあった。いずれまた紹介したい。

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兵庫陶芸美術館







兵庫陶芸美術館は開館が2005年と比較的新しい美術館だそうだ。ここで陶芸の魅力×アートのドキドキ展を鑑賞。
一応ビッグネームの作品も4点ほどあったのだが、その4点が目玉のごとく展示されていた。世界的に知られている芸術家と言えど多作であれば作品によっては評価にピンキリが生じること、展にあった作品は、展示されるものというよりは使われることを意識して作られているように思え、「エスニック」な店に置いてもらえて数千円~数万円でやりとりしてそうで、それで作者も制作当初は満足してたんじゃないかといったことなどを考えた。















兵庫陶芸美術館を出たあと、篠山城の城下町に散策に向かった。

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「エコ陶灯」とな






作品の手前にある札のQRコードで制作者の情報が分かるそうな



友人に若鶏のから揚げの定食を御馳走になった。感謝。



















立杭陶の里の伝産会館で安土桃山時代から江戸時代の陶器を見、そのあと登り窯での陶器の製作過程のビデオが流れていたので見入った。登り窯の徹夜作業は並大抵のものじゃないことが映像から伝わってきた。また、そのなかで薪を入れる作業の映像が私の思っていたものでなくて、先月書いたブログの内容を訂正することにもなった(笑)。

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兵庫陶芸美術館に行くため、再び丹波へ。陶芸まつりの時とは異なり、とにかく静かだった。

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ここしばらく大文字山に登れていなかったが、ひさしぶりに登るとやはり気持ちいいものだ。でもしばらく登ってなかった所為で、すぐに息切れしてしまうのであった。

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