デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 




古代エジプト展 天地創造の神話を鑑賞してきた。混雑緩和および先月の臨時休館の分を取り戻すためもあろう月曜日の臨時開館というのもあって、夕方からではあったが足を運んだ。ひさしぶりに見応えのある展示に満足している。
素晴らしい展示品のみならず、古代エジプトの創世神話や社会における神々の役割、死後の世界を当時のエジプトではどのように捉えていたのか、といった基本テーマをアニメーションを用いて分かりやすく解説する映像コーナーも充実していてとてもよかった。
すべての展示作品について感想を述べることは難しいが、私は「タレメチュエンバステトの『死者の書』」の展示およびその解説がとてもおもしろく感じた。
古代エジプトにおいて神が創った「秩序ある世界」の概念をマアトというが、ファラオはマアトを実現させるために努力し、民衆もマアトを意識しその倫理観でもって生涯を全うしようとも死は訪れる。
そして死者となってからは死後の審判にかかることになる。死者(の心臓:魂の象徴といってよい)は閻魔様に匹敵するような42もの神々に「生前悪いことは一切してません」と言い張った後、アヌビス神によって死者の心臓が天秤の片側にかけられるわけだが、天秤のもう片方にはマアトを象徴する羽が置かれ、天秤が釣り合えば死者は永遠を約束された天界に行ける。もし釣り合わなかったら二度と心臓も肉体も復活することはできない。
そこで登場するのが『死者の書』で、それは死者にとって都合の悪いことを42の神々の前で心臓が話さないようにする呪文・いわば指南書であり、確実に永遠なる天界に行くための呪文集である『死者の書』はミイラと一緒に人型棺に入れられた。またナイルとうり二つの天界に行ってからの農作業を代わりにやってくれるシャブティの像も一緒に。


照明で有翼のスカラベをかたどって床に映す演出もよかった

『死者の書』の展示を見たとき、マスクの下でプッと噴いてしまった(笑)。悪人正機・南無阿弥陀仏、お血脈、免罪符などに相当するような思想ってとっくの昔に存在し、紀元前も中世も今も人間考えることは皆同じなのだ。
もちろん、峻厳な42の神々の審問や心臓とマアトの羽を天秤にかけられる審判を心から畏怖する気持ちがあるからこそ、それを何とかやり過ごそうという呪文のニーズがあり、関門をクリアさえすれば天界に行けるので死を恐れることは無いというポジティブな死の捉え方がベースになっているわけだが、それが定式化しての『死者の書』となると儀式の一部として立派な経済活動を担うアイテムでもあった可能性をつい考えてしまったのだった。神殿に出入りする専門制の強い葬儀屋さん的なシステマチックな様子・姿は古代エジプトでも普通に見られることだったのかもしれない。


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奈良墓地公園・三笠霊苑

前回の記事でいくつか存在する島左近の墓の一つに行ったことを記したので、その時のことを書きたく思った。
タイトルとしては「関ヶ原古戦場跡(28.5)」の方がいいのかもだが、奈良にある墓に行ったので奈良の記事にした。

結構きつい上り坂

奈良県にある島左近の墓は東大寺の正倉院の西側から歩いて10分ほどで行ける三笠霊苑内にあるのだが、霊苑入口から墓へは上り坂をしばらく上らないといけなかった。
苑内のどこにあるのか分からなかったので、清掃作業をされていた方にお訊ねした。親切に教えてくださった。


島左近の墓

サッと検索にかけて調べた程度でなんだが、島左近の出生地についてはいくつかの説がある。現在では大和説が有力とのことだ。
ただ、墓の方は前回触れた生存説を説得力をもたせるが如く、6つもある。ちなみに奈良の墓では没年が庚子(かのえね)の関ヶ原の合戦の日になっている。


島左近墓の近くで。本当に奈良市内を見渡せる所だ。


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笹尾山までやってきた

合戦のコスチュームの観光客か?

左の青年、兜飾りの形からして、島左近!?

まぁ、実際、笹尾山のふもとは島左近陣跡があるし不思議ではないが、それにしてもマスクを防具の頬あてのデザインにしているとはうまく考えているなぁ。

島左近陣跡

石田三成の忠臣・島左近。三成に「過ぎたるもの」と評されるほど優れた人材だったとされるが、このくだりを聞くたびに、石田三成は酷い言われようだなぁと可哀想になってしまう。




島左近は謎多き武将ということでも知られるが、よく分かっていない前半生(出身地が4つほどある)に加えて、没年がわからない、関ヶ原の合戦で獅子奮迅の戦いぶりを発揮したそれ以降も生き延びたいわゆる生存説があることも、島左近がよりミステリアスな武将足らしめている要素だろう。
前回の記事にある解説板には島左近は黒田長政の家臣・菅六之助(かんろくのすけ)の銃撃で負傷したとされるとある。この解説版では撃たれて負傷し、奮戦の末、討ち死にしたとも、戦場を脱したともいわれるとある。
実際、島左近の墓もいくつかある。私の知る限りでも2つあるし、その一つに詣でたことがある。いくつかある墓の内、本当に埋葬された墓があるのかもしれないし、西首塚や東首塚に他の戦死者ともども埋葬されてしまっているのかもしれない。


黒田長政は石田三成と島左近の軍勢と一進一退の攻防を繰り広げた。島左近は何度も黒田長政軍を押し返したが、黒田長政は一隊を割いて笹尾山の北側へ迂回させ、石田軍を側面からも攻撃した。島左近が鉄砲で撃たれて戦場を脱すると一気に黒田軍の有勢となる。
西軍の武将の寝返りが相次いで、西軍は総崩れとなり西軍諸隊は敗走。なおも踏みとどまっていた石田軍に黒田長政・東軍諸隊が最後の猛攻を仕掛け、石田軍は壊滅、勝負は決した。

映画の話が聞こえてきた

甲冑姿の二人と子どもの会話内容から「カリオストロの城」のタイトルが聞こえたので、帰宅してから調べてみると「岐阜ドライブインシアター in 関ケ原古戦場」の日だったようだ。ということは甲冑姿の男女は観光客じゃなくて、イベントのスタッフかボランティアだったようだ。コンビニで見かけた甲冑姿の男性もイベントの関係者だったのだろう。


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岡山烽火場(おかやまのろしば)へ


少し歩いて登る必要がある









岡山烽火場の岡山というのは標高164mの丘陵で、ここに東軍の黒田長政と竹中重門の軍約5000が布陣した。東軍の最右翼になると同時に戦況を見渡せる所であった。












関ヶ原の合戦は午前8時ごろに開戦したが、攻撃の合図の烽火を上げたのがこの場所だ。












黒田如水の嫡男である黒田長政らの陣跡に来て、今回は朝鮮出兵(文禄・慶長の役、壬辰倭乱・丁酉再乱)で朝鮮半島に渡航し、現地で戦いを繰り広げた武将の事について考えてみた。
私が知る限り、朝鮮出兵に応え、かつ関ヶ原の陣跡に名のある武将は、宇喜多秀家、小西行長、黒田長政、島津義弘、福島正則、細川忠興、藤堂高虎、脇坂安治ではないかと思う。
先日の記事で賤ヶ岳の戦いで武功を上げた武将のその後について、語るに語りつくせないとチラッと触れたが、朝鮮出兵と関が原の合戦に関わったこの8名もすごい面子だと思う。半島に渡ったあげく撤兵し、結果的に何のために行ったのかという虚脱感に襲われたりしなかったのだろうか。
家康が最初に陣を敷いた桃配山の目と鼻の先の南宮山の毛利秀元が動かなかったのは吉川広家が調略されていたことも大きいが、その吉川広家を調略したのが黒田長政だった。また、解説板を読むまで知らなかったが、松尾山の小早川秀秋を調略したのも黒田長政だったとは・・・。
黒田長政の戦功についてはまた後の記事で触れたい。


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西首塚



東首塚についてはこちらで触れたが、戦いの後に徳川家康から遺体の処理の命を受けた竹中重門(たけなかしげかど:合戦時に関ヶ原一帯を領していた)は遺体を埋葬し東首塚・西首塚を造営した。
解説板には明治時代に行なわれた鉄道工事や梨の木川改修工事の際に夥しい数の白骨や刀が出土したとある。


戦死者の慰霊や地域の安全と平和を願う行事は、地元住民により今も続けられているという。
過去に関ヶ原の合戦がありました、と教えられ、さまざまな学問書や小説などで戦のことを知ってはいても、大量の人骨や刀が出土した事実はやっぱり本当にあったことなんだと歴史のリアルを感じぜざるを得ない。


旧中山道松並木












江戸ー京都間を走る道(約532km)には69もの宿場があったとは知らなかった。関ヶ原宿(せきがはらじゅく)は中山道58番目の宿場だった。




山内一豊陣跡

関ヶ原宿から歩いてすぐの所に山内一豊陣跡がある。山内一豊については『功名が辻』も未読だし大河ドラマを適当に見た程度である。ドラマの転封された山内一豊が土佐に船で向かっていると陸から鉄砲で威嚇された場面は妙に覚えている・・・。
山内一豊は関ヶ原の合戦では南宮山に布陣した毛利秀元を抑える役割を与えられたが、戦いの前から徳川家康は毛利方の吉川広家や安国寺恵瓊に対して調略を仕掛けていて毛利軍を動けなくしていたので、家康にとって山内一豊の役割は実際のところ動けない毛利軍に対する見張り役や「万が一の保険」ぐらいだったように思う。

遅めの昼食を摂るため国道21号関ヶ原バイパスのコンビニに寄ったら、

甲冑姿の人が。何かの撮影!?


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平塚為広碑











脇坂安治陣跡










脇坂安治は賤ケ岳の戦いで功名をあげた「七本槍」の武将の一人である。もっとも「七本槍」たちはアイドルグループのようなパフォーマンスを発揮したわけでなく、まとまった感のある語られ方は後世の「創作」めいた記述から発展してしまったものだろう。
それにしても、脇坂安治、福島正則、加藤清正、片桐且元の四人の名を挙げるだけでもなんとも悩み多き後半生だなぁと考えさせられる。賤ヶ岳七本槍の面々は豊臣秀吉没後、大雑把にいって関ケ原の合戦で東軍についたか西軍についたかが大きな運命の分岐点となったといえるだろう。ただ、脇坂安治の関ケ原の合戦時の活躍だけにしぼってしまうと東軍に寝返って大谷吉継・平塚為広・戸田勝成を壊滅させた点がどうしても引っかかってしまうのが正直なところだ。戦いの前夜からさまざまな人間関係やそれにともなう調略があり、武将たちには各々の複雑な事情が絡んで翻弄されていたであろうことは分かるが…。


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シーズンが始まる時、今年こそなんとしても優勝するための補強だなと思ったが、移ってきた選手たちとのチーム作りが上手かった。もちろん宇都宮のチーム作りも相当なものだった。
ファイナルの2チームだけでなく、すべての選手たちチームスタッフ、ブースターにとって大変なシーズンだったが、なんとかファイナルまで漕ぎつけた見えない努力が報われたと思う。


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