デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



『レニー・ブルース』を見てからダスティン・ホフマン主演の映画を探すようになっている。『卒業』、『トッツィー』、『レインマン』、『ファミリービジネス』(豪華ゲストだった気がするが記憶があやふや(笑))、『スリーパーズ』、『ワグ・ザ・ドッグ』『パフューム ある人殺しの物語』は過去に見たのだが、『真夜中のカーボーイ』と『クレイマー、クレイマー』は見ていなかった。いや、『クレイマー、クレイマー』は日本語吹替バージョンで子供の頃に見たことがあったのだが、最初の数分で子育てに慣れていない父親が奮闘するコメディだと勘違いし、しばらくするとおもしろくなくなったので漫画や絵本に気持ちが移ったのだと思う。
で、『クレイマー、クレイマー』(1979)を見たのだが、以下ネタ割れもあるので、これから見ようとする人は注意してください。
作品は大人になってから分かる現代人の物語だなぁと、しみじみ思った。主題は一人っ子の男の子をもつ夫婦が離婚し、1年半もの父子家庭の状態で暮らしたあと、母親と父親が養育権を法廷で争うというものだ。
しかしこの映画、上のあらすじだけでは到底語りつくせない。父親(テッド)は少し堪え性がないものの、ビジネスマンとして将来副社長になれるかもしれないほどの実績をあげる仕事人間で、家庭を顧みない人間である。そんな彼は、突然妻(ジョアンナ)から別れを切り出され、彼女に子(ビリー)を置いて出て行ってしまわれる。テッドとしては仕事が優先、ジョアンナはテッドの召使といわぬまでも型にはまった幸せな妻を内心演じ続け、そのストレスからか同じマンションに住むウーマンリブ信奉者のマーガレットにあらゆる相談をもちかけたりしていたことが明らかになる。ちなみにマーガレットは過去に夫と別れ、一人娘を育てているという事情をもつ女性である。
物語の始めのほうではテッドとビリーの最悪といっていいほどの噛み合わない父子関係が描かれるが、二人の絆は次第に深まっていく。そして互いの子供とのふれあいの機会や、離婚という痛い経験をしたことで培ったタフネスの共感からテッドとマーガレットの友情も深まっていくのだが、一人ひとりの登場人物にスポットを当てると現代生活を送る人間の悩ましい点が浮き彫りになる。
気に入った場面はたくさんあるが、個人的にはキッチンで皿を洗っているときにテッドが「もし自分に何かあったら、ビリーを頼む」とマーガレットに信頼を示す場面がとても気に入った。こういういいかたもなんだが、あれこそが昨今の「親の地域からの孤立」を解決する大いなるヒントではないかと思うのだ。あの場面も互いに痛い体験をし、子育てと真っ向から向き合うようにならなければ成り立たなかったであろうことは、人間の愚かさゆえに起こるのだろうか、と思った。が、全編を通してまたどの登場人物にもいえることだが、痛い思いをしても、誰も幸せにならないのに法廷で養育権を争ってしまったりしても、痛い経験から登場人物たちは何かを学んでいるように感じた。ラストに至るまで、たしかに切なさで充たされてはいる。だが、私は思う以上にハートフルなものを覚える。
映画は1970年代のニューヨークを舞台にしているので、今の不景気からすればちょっと「なんだかんだいっても恵まれてるじゃん」と思えなくもなかったが、それは作られた時代が異なるゆえ仕方がない。作品は各種賞を総なめにしたようだが、主演のダスティン・ホフマン、難しい役どころのジョアンナを演じたメリル・ストリープは本当にすばらしかった。

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有名なシーンさえ知っていれば、本編を見なくても話題には困らないので、そのまま本編を見ないままで終っているという映画って、多かれ少なかれあるのでは?
何を隠そう、私の場合『雨に唄えば』(1952)がそういった作品の一つだったのだ。それも、『踊る大紐育』『錨を上げて』『巴里のアメリカ人』は見たことがあったのに、『雨に唄えば』の方を全編通して見た事がなかったのである。
『雨に唄えば』での私が覚えた興味は、作品が映画界でトーキー導入の時代を描いていること、トーキーへの手探りやそれに付随する混乱までも笑いにかえてしまっているセンスである。映画制作の舞台裏、とくに舞台装置や照明技術、大道具や美術を堂々と当たり前の背景として用い、それを舞台として、物語が進行して行くという作品は、『雨に唄えば』の前に存在していたのだろうか?
作品は、俳優というのは、歌って踊れて演技ができてこそ一流であるという概念をビシッと示してくれているように思う。観衆に夢を見させてくれる演出・制作の手腕はズバ抜けている。すごいことを笑いながらさらっとやってのける、そんなプロの俳優の姿が存分に楽しめる映画だった。

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月灯りふんわり落ちてくる夜 (on whistle)

YouTubeこちらと同じ曲を少し練習してアップした。大して変わらないかもしれない(笑)。

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カルロス・フエンテスの『老いぼれグリンゴ』読了。

学校でもなかなか聞かされないアメリカとメキシコの歴史が背景になっている小説なのだが、作品の解説にある両国間の複雑な関係の外縁すら私は知らなかった。メキシコについて解説では

 一五二一年にエルナン・コルテスがアステカ王国(メキシコ)を征服し、一八一〇年にイダルゴ神父が独立の叫びをあげ、二一年に正式に独立するまでの三百年の間、メキシコはスペインの植民地となる。だが独立後も、政局は安定せず、米墨戦争後の一八四八年の条約により、カリフォルニア、ユタ、ネバダ、コロラド、アリゾナ、ニューメキシコ、そしてすでに併合されていたテキサスと合わせると、この時期に領土の半分を奪われてしまう。その後、フランスの内政干渉を退けたファレス大統領が休止すると、その対仏戦争で戦功をおさめたポルフィリオ・ディアスが独裁者となり、アメリカを始めとする外国資本に経済は牛耳られる。そして一九一〇年、マデーロが革命をスタートさせる。ディアスは亡命し、マデーロは大統領に選ばれるが、すぐに暗殺され、ウエルタが反革命政府を操る。ふたたび、革命家たちは、ウエルタ打倒のために立ち上がる。北部で圧倒的な力と人気があったのが、パンチョ・ビージャであり、…
「池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-8」(河出書房新社) p545

と書いてあるのだが、ざっと読むだけでも混乱のつづいた、いや今でもその傷跡を引きずってきている事がわかる。
物語は一人の女性の回想から始まるのだが、これが非常に読みづらい書き方でつづられている。小説の手法の一つなのだが、読み進めていくうちに数行もしないのに登場人物の誰を中心にものごとが語られているのか、分からなくなった。私の誤読かもしれないが、文節から次の文節に移る間で、語られる登場人物たちの頭の中というか意識が変わってしまう、今描かれているのはヒロインのハリエットのことなのか、主人公のグリンゴのことなのか、アローヨ将軍のことなのか、判読が付かなくなるときがあったのだ。
しかし、この読みにくさは、実に効果的なものがある。ジョイスに『ユリシーズ』という20世紀最大の傑作(奇作)で、作品に用いられている”意識の流れ”という手法があるのだが、どうもそれっぽいのだ。「メキシコ」と一言に言っても、混乱期に革命を起こそうとする立場の人間、アメリカでなくメキシコで死にたいと不法入国者の立場で戦いに志願する"グリンゴ"(グリンゴとはメキシコ人がアメリカ人を蔑称するときに使う言葉)、アメリカの価値観を家庭教師として持ち込もうとメキシコに来たものの既に雇い主はおらず、メキシコで革命軍に身を寄せ肌でメキシコを知る人間、各々には各々のメキシコがある。
作者はきっとメキシコ人によるメキシコを描くだけではなく、他国の人間の目を借りた客観性でもっても描くことが、総体としてのメキシコを描くことになると思ったのではないだろうか。あらゆる形のメキシコを登場人物たちの意思の総体として表現する、そのごちゃごちゃかんで、おぼろげではあるが、メキシコという矛盾に満ちた国のアイデンティティを示されたように思った。しかし正直読了まで来年までかかってしまうかもと思ったくらい、混沌としていて私には難しかったと思う。

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月灯りふんわり落ちてくる夜 (on whistle)

昨日の夜、ふとしたことでドえらく懐かしい歌を耳にし、じわりと目から汗が出そうになった。昨年亡くなった漫画家臼井儀人原作のアニメで、エンディングに使用されていた曲だった。ちょうど子供たちをあずかるバイトをしていた頃ではなかったろうか、子供たちの間で流行っているアニメをチェックしていた時分に、知らぬ間に記憶していた曲でもあった。
夕飯を食べる時間だったが、止むに止まれぬなんとかというやつで、月明かりは出てないもののぶっつけで弾いてみた。私の演奏はともかくオリジナルは本当にいい曲だと思う。懐かしいと思われる方もいるのではないだろうか。

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ネタ割れ注意です。

S・スピルバーグ監督・脚本の『未知との遭遇』を見た。見た本数は少ないながらもSF映画も好きな私ではあるが、この作品をずっと見すごしていたのは、どういうわけだろうと思う。
まぁ、「宇宙人」が空飛ぶ円盤に乗っていて、彼らが地球にやってきているとか、アメリカの砂漠の特定の地域で空飛ぶ円盤を開発中といった内容のTV番組を子供の頃に見ていつつも、いつしかバカらしくなり、そういった番組を見なくなったのは多かれ少なかれ私だけではないはずだ。それに「宇宙人」の(本来ならもっと地球外生命体といったほうがいいと思うのだが、)イメージとして、人間でいう頭部がデカく目は切れ込んでいて真っ黒、耳はとんがっているか穴が開いているだけか、鼻はあるのかわからないが顔の中心が凸上に盛り上がり、表情を表す重要な口がなぜかある、そして身体はドラえもんに登場する未来人の予想図みたいなガリガリという、誰もが見たことのあるあのイメージを決定付けた作品が『未知との遭遇』であり、なんか型にはまりすぎているように見えたのも、見なかった理由かもしれない。その他、「神隠し」をそういった宇宙人のせいにすることとか…。
しかし、今回、字幕版で、じっくりと2時間以上かけて見てみると、スピルバーグという人は本当に少年の心を持ったまま、この作品を手がけたのだなぁということが分かった。人類に対して好意的で関心を持っている地球外生命体、人類も彼らと敵対することなく無邪気にかつ粘り強くコンタクトを試みる好奇心と外交的な真摯さを持ち合わせている、という枠からははみ出ないものの、充分に夢を見させてくれる作品であるように思う。
印象に残った場面は、主人公のロイ・ニアリー(リチャード・ドレイファスが演じる)が、奇行に走り、とうとう彼から周囲が離れていくも、「イメージ」を探求しつづけるところだったかも。キリストやハムレットやドン・キホーテは周囲を不愉快どころか混乱に陥れるが、奇行の果てに後世が何度も採り上げる目的の成就や、それなりの偉大なる教えや真理といったものを周囲に投げかけ、少なからず共感者を獲得するに至る。そのことを少し思ったりした。

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先日図書館でサン=テグジュペリの"Le Petit Prince"『ちいさな王子』(野崎歓訳・光文社古典新訳文庫)をふと手にとってみて解説だけ読んでみた。それによれば、"Le Petit Prince"は聖書、『資本論』の次に多く翻訳された作品だといわれているそうである。(ちなみにネット上にはベストセラー本の一覧といったページもあった。セラーというよりは流布本だろう。版元によっては売ってはいかんと言ってる本もあるし)
本の話題で、まことしやかな「真実」として10年以上前に、

・図書館で借りると公権力から身元をチェックされる本がある

という妄言を熱く語られたことがある。それは、ヒトラーの『わが闘争』と、ダンテの『神曲』、そして『星の王子さま』だというのだ。若輩な私なりに、そんなことを語る人に対し、物知りだなぁなどとわずかに思った時期があったが、もちろんこの話には何の根拠もないし、たとえチェックしたとしても、それに何のメリットがあるのか誰も説明できないだろう(笑)。つーか普通に書店で売ってるし、その時点で信憑性をつくりだす基が断たれている。
推論だが、これは映画「セブン」(1995)の序盤で語られる「『わが闘争』や『カンタベリー物語』その他を借りた利用者はチェックされる」を勝手に脳内変換して、伝言ゲームが繰り返されるうちにどういうわけか、『星の王子さま』が紛れ込んだのではと思う。

今回の"Le Petit Prince"のみならず、昨年から古典の新訳や全面改訳になった作品を、ちらほら見ているが、訳者たちの解説のなかにはこれまでの苦労に加えて、これまで異議を唱えることなどタブー視されていたような先達たちの訳に対し、ようやくものを言える様になった開放感で満たされていることが少なくない。
そういえばこれも10年以上前だが、「『星の王子さま』は誤訳があるんでしょ?」と、やたら強調され、それに同意を求められたことがある。私は読んでいなかったが、同意を求めたがってた人の口からは内藤濯の「な」すら出なかった。
二つ目の訳で久しぶりに読んでみようか、図書館から借りて。

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こちらでも触れましたが、二葉亭四迷展(4月18日まで)の招待券をご希望の方は、プロフィール欄のメールアドレスまでご連絡ください。
ところで、二葉亭四迷展で展示されている私の撮った写真というのは、こちらです。
サンクト・ペテルブルグは帝政ロシアの首都でしたが、19世紀の文豪達が住んだ都市でもあります。とくにセンナヤ広場周辺には『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』を書いたドストエフスキーが住んでいて、臨終のアパートは現在彼の記念館になっています。
そんなペテルブルグの下町に、特派員としてロシアへ赴任した二葉亭四迷も下宿していました。その建物が私の撮った写真の建物でして、これは昔の世界文学全集でドストエフスキーを扱う巻や彼について書かれた本では、ちらほら紹介されている建物でもあります。ちなみに文芸評論家で作家の中村光夫は二葉亭の足跡をたどり、このアパートの中に入ったそうです。
展の様子については、私の代わり?に足を運んだ方がこちらのページに感想を書いてくださっているので、紹介させていただきます。どういった形であれ、自分の撮った写真を多くの方にご覧になっていただくのは、本当にうれしい限りです。

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若気の至りムンムンの頃に見てたら、ものすごい影響を受けたであろう熱い映画を見た。実在したアメリカの毒舌漫談家レニー・ブルースの後半生を描いた『レニー・ブルース』である。監督はボブ・フォッシー、主演ダスティン・ホフマン。

レニー・ブルース(本名レオナルド・アルフレッド・シュナイダー)は1923年ニューヨークの下町ブルックリンのユダヤ人家庭に生まれ、その家庭環境から世間の良識や常識を別アングルで観察する少年期を過ごした。16歳で家出、それから2年間はロングアイランドの農場に住み込みで働いたが、その期間がもっとも快適で愛情に満ちた日々であったという。
1942年、未成年だった彼は見習い水兵として米海軍で戦争を体験する。戦場で極限状態や不条理を何度も体験した彼は、除隊を決意、「陸軍では頭がオカシクなると除隊になる」という話をヒントにして、わざと婦人海軍部隊の制服を着て夜な夜な戦艦のデッキを歩き回る行動に出た。精神科医の診察や軍法会議を経て除隊した彼は、こういった戦争体験をのちにコメディに活かす。
戦争で気がふれた感覚を活かして、戦後、毒のこもったユーモアがふんだんにあるシック・コメディを、レニーは1950年台後半から60年代にかけて公演した。その内容は(映画でも描かれているのだが)社会や人間の持つ矛盾を見事なコメディに料理して見せている。作品の中で黒人の観客もいるなかで蔑視用語である「ニガー!ニガー!」を連発して、最後には「ニガー!」という言葉から差別的な語感を取り除いてしまう場面などは本当にすばらしい。どういった風にすばらしいかは漫談や落語の小噺の構成などをイメージした上で、実際に映画をご覧になっていただきたい。

ところで、今回みたDVDにある解説には、ビートルズが1963年ロイヤル・バラエティ・ショーでの演奏の最中、エリザベス女王の前で、ジョン・レノンが

「安い席の人は手を叩いてください、その他の人は指輪をガチャガチャ鳴らしてください」"Will the people in the cheaper seats clap your hands? All the rest of you, if you'll just rattle your jewelry."(宝石と訳されることが多いが、ここは指輪の方がいいように思う)

と言ったこのセンスを、『レニー・ブルース』と絡めて論じている。イギリスでは戦場で爆撃に見舞われ「気が狂ってしまった」その感覚を活かし、戦後のラジオ・コメディ番組をつくった人がいるのだ。そのなかの一人にスパイク・ミリガンという人がいて、彼のつくる番組「グーン・ショー」でミリガンのつくるコントは、およそ常人では思いつかないような支離滅裂なものであり、描かれる不条理は凄みのあるものだったという。のちのイギリスのコメディで「グーン・ショー」の影響を受けていないものはないといわれるほどの番組を、ジョン・レノンは10代の頃に大ファンとして聴いていた。
レノンは多くのジョークを飛ばしたが、彼が影響を受けた社会の不条理や欺瞞を衝くシック・コメディは戦争体験から得た感覚でつくられたもので、その変遷が未だに語り草になるというのは実に興味深い。毒のあるシックなトークやその中のジョークが、本質を衝いているものならば、言語や国を超えて理解される、『レニー・ブルース』ではそのことがよく分かる、そういったことをいろいろ考えさせられる映画だった。

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