デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



プラ・モンドップにもヤックの像。
こっちのは金色がやたら目立つ(笑)


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琵琶湖大橋



今も船が泊るのだろうか

自動車の車検の為、いつもお願いしている滋賀県の整備場へ。画像は車検が終わり車を取りに行った日だが、久しぶりに見る琵琶湖はとても大きく見えた。

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「アンコール・ワット」の模型の画像の続き

アンコール・ワットの模型は、19世紀末にクメール国の大寺院に感動したラーマ四世が作らせた。クメールというのは今のカンボジアのことで、カンボジアの90%の人々が話す言語がクメール語と呼ばれていたりする。


プラ・モンドップの四方には釈尊の菩薩像が







アンコール・ワットの模型はかなり精巧にできているらしいが、背景にプラ・スイー・ラッタナ・チェーディーやウイハーン・ヨートなどが写ってしまうとちょっと残念な気持ちになる。

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「アンコール・ワット」がタイに?



周りの建物に比べて小ぶりすぎる「アンコール・ワット」


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ある言葉が浮かび最初だけ変えてみた。

「不老長生へ至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はわずかである」

不謹慎かもしれないが、この言葉は先日少し触れた道教に関する疑問の答えの手がかりになるであろう。今回は、ずばり道教の世界観と死者観が道教徒にとってどれほど切実なものなのか、奈良氏の本では省かれていたことについて書きたい。
上の言葉は某聖典のパロディだが、でも道教徒にとってみても、大体同じことが言えるのではないか。とにかく道教を信奉する者にとって不老長生(仙人となる)を得ることは相当困難なことであるらしい。いうなれば、道教において人は死ねばそのほとんどが三塗(地獄)に行くということになるのだが、仙人になるのが困難である理由を明らかにしようとするならば、道教の死者観が半端なものではないところにその手がかりを見出せる。

 多くの道教徒にとっては、死とは単なる肉体の死滅ではない。人が死ぬことは生物として避けられない一つの自然現象であるとは考えていない。道教徒は人の死に対して、その人の犯した罪過という倫理的行為を結び付けて考えるのである。言わば、死はその人の犯した罪過が招いた報いであると見るのである。人が病気で死ぬのも、その人の罪過が死に値したからである。死を避けるには生まれて以来の罪過を、上章や斎や醮などの一定の宗教儀式を通じて除去しなければならなかったのである。
 では、「道教」ではなぜ死と罪過を結び付けるのであろうか。この考え方の背景には「道教」に特殊な因果応報観がある。「道教」の因果応報観を「功過の思想」とも呼ぶが、この功過の思想では、人は善い行い(功)をすれば、病気や災厄を除くことができ、多くの善行(例えば、千二百善)を積めば不死の神仙(天仙)にもなれるが、悪い行い(過)をすれば病気や災厄を招き、自分の寿命を縮めることにもなると説く。寿命を縮めることを「奪算」、という。算とは三日のことで、寿命が三日奪われるという意味である。人が悪事をなせば、他の人に気づかれなくとも、神々(多くは司命)が監視していて犯した悪事の程度に応じて、その人の寿命を記載した帳簿から一定の日数を削って寿命を縮めると考えられている。
 不死を願う道教徒にとっては「奪算」は恐ろしい罰である。それ故、教団の戒律に違反した場合は、『玄都律文』などではその罰を「罰算一紀」とか、「罰算三紀」と表す。この「罰算一紀」とは、戒律に違反した罰として寿命が一紀(三百日)短縮されるという意味である。罰の重さを奪われる寿命の日数によって示すところは、儒教や仏教にはない、「道教」独特の倫理思想である。
  中国学芸叢書 小林正美 著『中国の道教』(創文社)p185~186

逆に言えば、不老長生への願いがとても強いことを示す内容かと思う。(この文のあとには「死者は罪人であるから三塗(地獄)に落ちる」と考えられていること、三塗にいる祖先や自分の犯した罪という穢れを除去する方法(滅罪法)も説明されているが、ここでは触れない)
現代に道教を信仰する人々がどれほどの切迫感でもって日々の生活を送り陰暦の年中行事にたずさわったりするのか私には知る由も無いが、ただ、かつて年末に日本の中華街で見た口元に飴を塗りたくられたカマド神の図像だったか人形だったかの意味が、これでようやく少しは分かったように思う。
もちろん私には、そこの中華街で商売を営む人々の信仰心うんぬんについては知りようが無い。カマド神を祀っていたところで信仰心が篤いのか長年付き合ったわけじゃないのでわからないし、分からないついでに勝手な想像をつけたすならば、案外いまは道教徒ではなく昔から続けていたというだけの惰性的な習俗・年中行事にとして飾ってあったのかもしれない。
ただ、物の形をとって表れるものは馬鹿にできないのである。そこには現世利益という言葉だけでは説明しきれなかったものがあったのだと今にして思う。常に清らかに生き続けないと不老長生を得られないという思いが強いからこそ道教の習俗は残り続け今に至っているのだ。

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プラ・スワンナ・チェーディー

プラ・スワンナ・チェーディーはワット・プラケオで最も古い仏塔で、今の王様の祖先のラーマ1世が両親のために建てたのだという。


仏塔は猿神や悪魔が支える

猿神や悪魔が仏塔を支えているスタイルはワット・アルンの仏塔でも見ることができた。有名寺院の仏塔にはこのポーズの猿神や悪魔が支えるのかもしれない。
よく観光客がこのポーズを真似をして仏塔を背景に写真を撮っていたが、なかには「お手上げ」のジェスチャーみたいになっている人も(笑)。

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昨日の大工さんの通夜に出席させてもらった。
お経が終わり、坊さんが棒読みのごとく必死に葬式用のコメントをしぼりだしながら挨拶を終えたら、会場内に三味線の音色が聞こえ出し演歌が流れた。
大工仕事をしながら歌を口ずさんでいた姿は覚えているが、その曲かどうかはわからなかった。ただ喪主の方いわく、大工さんが好きだった演歌歌手の歌だという。
この意向は故人と喪主のものだったようで、親族の方々も何が起こったのか戸惑いつつも笑みをこぼしていた。その時、しんみりした場内の雰囲気がほがらかなものになった。死んでまで弔問客に印象を残すとは本当に粋な人だと思った。

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年に数回だけれどもバンドや個人で人様の前で演奏させていただく機会があるのだが、これまで人様の前で演奏する機会の半分近くが、本番の演奏日やその一週間前までの間に身内や親戚の葬儀および欠席しづらい法要が重なっている。
来月、地域の祭りに参加するのだが、その本番の約二週間前の金曜日、身内ではないものの今わたしが住んでいる家を建てた大工さんが亡くなられた。
町内の顔というべき大工さんだった。家だけでなく家のインフラを担当する業者にも顔が広く、まっすぐな性格でその腕前は地域でその大工さんを知っている人ならば一目も二目も置いていた。今の家の故祖母の車椅子のためのスロープやしっかりした物干し台をお願いしたし、弊ブログでも触れたことのある重大な水道のトラブルやちょっとした設備のトラブルの相談に乗ってくださった。その際トラブル以外の「予防措置としての排水溝洗浄のコツ」を助言してくれて放っておいたら大変なことになるまえにトラブル回避できたり、ずっと使わずにいた雨水の貯水をくみ出すポンプを復活させてくれたり、別の機会ではお隣の家へ仕事に来られたときは何かと雑談を垣根越しにしたものだ。
大工さんの訃報は来月の演奏会のための練習にも若干影響した。癌の話は聞いていたが、幾分急な話でとても残念であったのだ。
ただ、お元気だった頃のお仕事の姿勢や功徳からして仏教で言うならば涅槃に至ったような方だったし、道教で言えば天仙にも値するような人だったから、悲しいけれども仏教では解脱を得られ道教では天界に至られたと思うと祝ってさしあげたくも思う。

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聖鳥キンナラ




ご覧のとおり、半人半鳥の像である。インドの『ラーマーヤナ』(タイでは『ラーマキエン』と呼ばれる)に登場する歌や踊りが得意な天の楽人で、キンノーン(男)やキンリン(女)と区別できるらしい。

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仏教の寺院らしく象の像が



ネット上には細かい装飾を間近で写した良質な画像も
多く見られる。最近この画像の右下部分の装飾を近くで
写した画像をたまたま見つけたが、その装飾の凝りようは
本当に莫大な費用がかかっているように思わせる。


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