デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 




火曜のファイナルでは広島が琉球を50点に抑え込むような展開への持ち込みかたがうまかったと思う。解説の人も言っていたが、琉球の攻撃にスイッチディフェンスで対応し、ようはガード選手にサイズの大きい選手が立ちはだかることで、じわじわと遠めのシュートの成功率を下げさせたことが功を奏した。
それにしても西日本のチーム同士でのファイナルというのはBリーグ発足以来で初めてだった。まだまだ発展の余地はあるが、どんどん次なるチームが出てきてほしく思った。


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広通橋(クァントンギョ)

荷物を持ったままだったが機内でおおよその見当をつけた広通橋を見つけることができた。(帰国してから分かったのだが、事前に橋のことを調べるのに使った地図アプリだけで見当をつけようとしたのは早急だった。いつも使っているものとは別の地図アプリの使用でずばり「ここだ」と判明させる方法があったのだった)





十二神将の石像

十二神将の姿は手を合わせているように見える袖丈の長い服を着て雲に乗っているかのような人物。


この十二神将はひっくり返って
いるし、石像も欠損している。

1392年の朝鮮王朝建国は高麗の武官の李成桂(イ・ソンゲ、のちの李太祖。以下、李太祖と記す)が遠征中に起こしたクーデターが発端となり、李太祖が李氏朝鮮の初代国王に即位したことでなしとげられた。
李太祖には第一夫人がいて、彼は第一夫人との間に六男二女をもうけていた。第一夫人は建国前に死去したが、息子たちの中には朝鮮王朝建国にも多大な貢献をした者もいた。
さて、李太祖は建国の年に彼よりも20歳ほど年下の第二夫人となる康妃(カンピ、神徳王后康氏)と結婚し、康妃との間にも二男一女をもうけた。
ややこしい話だが、康妃は第二夫人ではあるものの、建国の年に李太祖と結婚したので継妃でありつつ「初代王妃」であり「正后」になったわけである。
康妃は我が子を李太祖の後継者にしようとした。漢陽(いまのソウル)の遷都の際の宮殿の位置を決めたり、朝鮮を統治するうえで地域を8つに分けたり、『朝鮮経国典』を編纂するなどの重要な功績をあげ王朝建国後に絶大な権力を握った功臣であり腹心の鄭道伝(チョン・ドジョン)も康妃を後押しした。
そんなこともあって、李太祖は王位継承は長子が継ぐのが常であることを曲げてしまい、第一夫人の息子たちを差し置いて、康妃との間に生まれた幼い息子それも次男の芳碩(バンソク)を王世子(日本でいうところの皇太子)にしてしまった。
1396年に康妃が逝去した。残された李太祖は生前の康妃を溺愛していたので康妃の墓である貞陵(ジョンヌン,ていりょう)を景福宮の近くに築かせ、貞陵には十二神将の石像(上の2枚の画像)を封土させるほどだった。また、通常、廟や陵は城内に築くことはしないものだが、貞陵が築かれたのは城外ではなく城内だった。
ここまでの記述で、朝鮮王朝建国にも多大な貢献をした第一夫人の息子たちが、第二婦人の康妃死後にどういった行動を起こしたか、想像がつくだろうと思う。
第一夫人の五男で、のちに太宗となる李芳遠(イ・バンウォン)は、1398年部下に命じて後継者の芳碩、鄭道伝らを殺害させ、さらに父・太祖を退位させた。しかし、それでも芳遠の怒りは収まらなかった。
1400年に芳遠は第三代国王に即位したが、1409年に父・太祖が亡くなるやいなや自分の王位継承を妨げた康妃の眠る貞陵の破壊を指示した。遺体を掘り起こし貞陵もろとも城外に移転させ、城内に貞陵の跡形が残らないように土まで削る徹底振りだった。掘り起こされた十二神将の石像は、洪水で流れた清渓川の広通橋の補修用石材として使った。民衆がたくさん踏むように意図的にやったという話もある。





子どもが物珍しそうに
石材を見上げていた。



言葉は悪いが石材というよりは石垣の一部にしか見えないところが、このエピソードのすさまじさを物語っているように思う。













広通橋の石材の話しを知った時、日本の壬申の乱や、戦国時代の斎藤道三と息子の斎藤義龍のエピソードや、『史記』にある劉邦の後継で揉めた記述や、旧約聖書のヤコブの二人の妻と二人の女奴隷との間にできた息子たちなどのことが頭をよぎった。もちろん、これらは李太祖と康妃と第一夫人との子のエピソードとは異なるが、後継者をめぐる野望や争いはいつの時代も止むことは無い。









あと、なんだか切ないなと思いはすれど、広通橋に思いを馳せるうえで欠かせないエピソードも頭から離れなかった。

 李太祖と康妃の出会いにはエピソードがある。李太祖が虎狩りに出かけた際、のどが渇いて井戸を探した。ふと立ち寄った井戸端にある女がいた。李太祖が水をくれと頼むと、ひさごに水を汲んでから、柳の葉一握りを水の上に浮かべた。これに李太祖は何様のつもりかと叱る。女は、駆けつけた李太祖が急いで冷たい水を飲んだらお腹を痛めるかもしれない。柳を吹いてからゆっくり飲むほうが良いと思って、わざわざそうしたのです、と慎ましく答えた。この話を聞いて内心感心した李太祖は女を改めて見た。たいそうな美人だった。李太祖は女の知恵と美貌に我を忘れた。
砂本文彦著『図説ソウルの歴史(ふくろうの本)』(河出書房新社)p34

出来すぎなエピソードだとは思うが、この出会いの時点で、二人とも後の自分の運命や死後の扱われ方へのある種の不吉な予感を覚えることはできなかったのだろうか?などと分かるはずがないことを勝手に思ってしまった。後世の人間からすれば荒行で前後不覚に陥った釈尊にミルクを差し出したスジャータのエピソードとを対比する人もいるかもしれないな、とも。
ただ、李太祖にとって康妃はファムファタル(運命の女)だったろうし、李太祖は破滅したとはいえないのかもしれないが、『リア王』のような運命を辿ったと思う。



(広通橋を巡るエピソードに関心のある方、よりきちんと整理された形で詳しく知りたい方は「李太祖」「神徳王后」「康妃」「貞陵」「李芳遠」「太宗」などのワードで検索していただきたい。)

というわけで、朝鮮王朝史に見られる愛憎渦巻きまくっている象徴のような所にソウル初日に足を運んだわけである。後回しにしたらおそらく行かないだろうなと予感したのもあったし、景福宮を訪れる前に王朝の縁のエピソードをどれか一つでよいので自分の頭に印象付けておきたかったというのもあった。



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明洞聖堂から北に乙支路(ウルチロ)へ出た。


乙支路を西に

南大門路(ナムデムンロ)に右折し北へ歩いた。


熱々な二人が歩きながらキスをしていた(笑)

人にもよるとはいえ、韓国や中国では主に駅構内で人前でいちゃついたり愛情表現をはばからない若者たちをちらほら見かけるように思う。



郵政局路(ウジョングクロ)と清渓川路(チョンゲチョンロ)の交差点まで来た。
この記事を書いていてようやく分かったが、このまま真っ直ぐ行ったら後日に足を運んだ郵征総局(逓信記念館)、曹渓寺と普信閣に行けたのだ(笑)。


清渓川


ここの飛び石を渡って西に歩いた。


広通橋だ!



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明洞聖堂堂内

朝鮮王朝時代の天主教弾圧、1791年の辛亥迫害、1801年の辛酉迫害について触れようと思ったが、コンパクトにまとめようとするとかなり無理があるし、天主教弾圧の歴史についてはまた別の記事で記そうと思う。









明洞聖堂そのものより、天主教とその受容の内容になってしまった。聖堂については、こちらに詳しいので私からはあと少しだけ。
聖堂が建つ前、ベックというアメリカ人が1883年から土地の購入を始め、1892年に高宗参席のもとで施工式が行なわれた。
しかし、建設の中心人物であったフランス人司祭エウジェニー・コストの他界と、日清戦争の激化により、建設工事は遅れた。韓国最初の聖堂として、1898年に完成した。



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明洞聖堂まで来た。

韓国のキリスト教について、中山義幸・平井敏晴 著『韓国歴史散歩』(河出書房新社)によれば

 キリスト教は、18世紀頃から朝鮮半島に次第に入りはじめ、大韓帝国になって外国文化が一気に入ってくると、各地で教会が造られ始めた。カトリックは天主教(チョンジュギョ)であり、その寺院は聖堂(ソンダン)、プロテスタントは基督教(キドクキョ)であり、その寺院は教会(キョフェ)、と明確に区別している。

とのことだ。


打ち上げることが
できそうな形かも

水野俊平 著『韓国の歴史』(河出書房新社)を読むまで知らなかったのだが、朝鮮王朝のキリスト教受容は中国の明や清の時代の頃である。ただ、日本や中国みたいに宣教師がやってきて守護大名の庇護を受けて布教を始め許可を得て教会や学校を建て、いつしか布教が南蛮貿易の交換条件的なものでなされる、といったものではかったようだ。


聖堂内






朝鮮王朝は中国や日本に定期的に外交使節を派遣していた。日本へは教科書でも習う「通信使(トンシンサ)」、中国へは「赴京使(プギョンサ)」(「燕行使(ヨネンサ)」ともいう)といった具合だ。
赴京使には、清の先進文化に触れるために官吏や技術官吏が随行した。随行員の中にはヨーロッパから燕京(清の都、いまの北京)に来ていたイエズス会士と交流し視野を広める者もいて、彼らの活動によって西学(西欧の自然科学・西洋思想・天主教など)が朝鮮に紹介された。
17世紀には朝鮮の知識人の間で西学を研究する人が増え、天主教を探究する人も出始めた。その背景には両班層の学派の一部の朝鮮古来の伝統的価値観や朱子学に対する反発もあったが、天主教の受容という点だけでいえば知識人が天主教に傾倒し自ら天主信仰に目覚め、自主的に教会をつくったところに、日本や中国と違う特徴があるといえよう。



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