デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



壁にも仏画が



寝釈迦仏はかなり長い御身体



これも寝釈迦仏。涅槃像の可能性も



座する釈迦仏。上の像と同様、参拝者の流れを
止めないため、座ってのお祈りは禁止されている


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まさか、いつもの山で『源氏物語』の講座を受け持っているという方と出会うとは思わなかった。その方は京都には何度も来てはいるものの、市内を一望できる場所に来るのは初めてなのだとか。
原文で読んで20年になるというその方の『源氏物語』に関する言葉はさすがに奥が深くて、私などはただただ聞き入るばかりであったが、物語に登場する場所が一望できるところから物語について語るような体験は、講座を受け持って何年にもなるのに初めての体験だったことだろう。
私はまだ「須磨」を読み終えたばかりだが、その方の「まじめで一途な女性ほど可哀想でうかばれない現実」(六条の御息所について)や、「帝が住まう内裏のきらびやかな美しさが所詮幻想であって、登場人物内の誰一人、幸福になった人はいない」という言葉がとても印象に残った。

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勢いに任せて、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズの最終話も見てしまった。
パート2の伏線もしっかり回収されていて、テンポの早い展開の中によくぞここまで詰め込んだなと、改めて感心してしまう。
パート2は先日で3回目の鑑賞だったけど、パート3については一度しか見たことがなかったこともあって、忘れているシーンとかがあった。しかし、パート2にいろいろなヒントが散りばめられていることを知ると、パート3も小技が利いていると言うか、パート2の内容を踏まえて集中して見ていないと笑いどころを見逃してしまうようなシーンが充実していた。
2015年の10月下旬に、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の三部作を見れて本当によかったと思う。

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先日の記念日に影響され「バック・トゥ・ザ・フューチャー パート2」を十数年ぶりに鑑賞。
第一作を見ていないと分からない作品であることは言うまでもないが、パート2はまさにSFコメディの金字塔であるように思う。これほどまでにタイム・パラドクスをコミカルにかつ綿密に表現し、ドタバタコメディに仕上げてしまう作品は今もってしてもないような気がする。俳優陣もスタッフ陣もすばらしい仕事をしたものだと、作品の場面場面で感心してしまった。


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その日一番のできごと

3年以上も前の手術の影響から体調が思わしくなく体力的に山の途中までしか登れなくなっていた高齢の常連さんが、1年あまりかけて徐々に鍛えなおして、先日、ついに火床まで再び登ってこられたタイミングに遭遇した。
「3年ぶりだよ(笑)」と心底からの笑顔でおっしゃり、達成感がにじみ出ていた。火床にいた人は(私も含めて)拍手でお迎えした。とても勇気付けられる気持ちになり、その気持ちをその場にいた人全員で共有できて、本当に良かった。

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「時空を壊すな」(R・ゼメキス監督)

映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のパート2の舞台は、たしかに第一作で流れていた時間1985年から数えて30年後の未来の2015年に設定されていたなぁと、記事を見て思い出した。映画の世界で描かれた未来の年が訪れてしまっているわけだが、それを思うとある種の感慨を覚える。
あの作品を楽しみ、影響を受けた人は少なくないだろう。私の同級生の中でもデロリアンを真剣に欲しがった奴がいた。
また、世間には「デロリアン」を本当にゴミで走らせた!  未来を実現した人はどんな人?こういったチャレンジを行った人もいる。映画の力って本当に大きくすばらしいと改めて思った。

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英4部で試合中に珍事…スタンドにいたファンが急遽第4審判を務める

アジア圏では考えられないようなことだが、確かにサッカー大国では起りえそうな出来事だ。それにしてもドラマの典型ネタの一つである機内や車両内での急患発生の事態に「(お客様の中に)お医者さんはいませんか!」と乗務員が呼びかけて、キリッとした表情でパリッとした身なり(または医者に見えなさそうなパッとしない風采)の(「休暇旅行中です」と言う割りに、どういうわけか診療器具を持っている)名医が名乗り出て急患に応急措置をほどこして命を救うような展開を思い浮かべたのは、私だけだろうか(笑)。

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訃報:熊倉一雄さん88歳=ヒチコックやポワロの声、演出
訃報:橘家円蔵さん 81歳=落語家

御高齢ゆえ仕方の無いことだが、日本の芸能を支えてきた巨星が逝った。熊倉一雄さんの逝去は、山田康雄さんや二年前に逝った内海賢二さんの訃報を目にした時と同じぐらいの喪失感がある。
ただ、正直なところ、ポアロ・シリーズの最終回の吹き替えが熊倉さんで完遂されたことは大いに救いだったように思う。これからもポアロ・シリーズが再放送されるならきっとまた視ることだろう。

桂米朝さんのあと、落語会の巨星 橘家円蔵さんがこの世を去った。円蔵さんの頭の回転が速すぎることが顕われている様な語り口、正直なにを言っているのか分からないこともあったことはあったのだが、関東の落語界には大きな存在だったように思う。

御冥福をお祈りいたします。

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ワット・ポーの大寝釈迦仏

ワット・ポーもタイ王室第一級寺院とのことだ。ワット・ポーの礼拝堂には堂内に収まりきれなさそうなぐらいの寝釈迦仏がある。


画像で伝わるだろうか。見上げてのショット。



孔雀かな?


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最近、中国やアメリカに関する本や小説を読む割合が多かったが、そろそろ日本の古典を読まないとなと思い始め、紫式部『源氏物語』を瀬戸内寂聴 訳で読み始めた。
『源氏物語』を現代語訳ではあれど初めて手がけたのは12・3年前だが、なにかといろいろな作品を割り込ませてずるずると読まないままできてしまった。世界に向けて影響力の強い現代の日本人作家も『源氏物語』の影響を受けたことがないという人はほぼいなく、恋愛小説・姦通小説をお家芸にしている外国の評論家やエッセイストにとっても、近現代のどろどろ恋愛小説の名作に匹敵するような物語が、平安時代の時点で優雅でスノブで重層なおそるべき恋愛模様として描かれていたことに驚愕するこの作品。
おそらく一生「読みたいとは思うが」とか「読まねばなといつも思っていたが」と口癖のようにくりかえすばかりで読まず仕舞いになるだろうから、体力と集中力が続く今ならばという希望的観測でもって臨む。
なにはともあれ、この手の作品にすんなり受け容れられるようになったのは、たぶん、『源氏物語』から多大な影響を受けた谷崎潤一郎の『細雪()』を面白く読めるようになったこともあるだろう。『細雪』もいろんな意味で日本的で身につまされる話の連続で苦笑してしまうおもしろさがある。『源氏物語』の場合はあらすじ自体、大体分かっているので今ならばきっとたのしく読める気がする。

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