デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 




雨上がりだったり、分厚い雲が足早に去っていくときにカメラをもっていることが、以前と比べ格段に少なくなった。ついてないのもあるが、雨の日にカメラを持ち歩けないことが、何よりもシャッターチャンスを逃している大きな要因だ。しかし先日の空模様は久々に神がかった空だった。

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TVで放送されてた分を録画して放って置きっぱなしだったのをようやく見れた。本編が1時間半もないから内容的にどうかな、と思っていたが、この作品のドラマの進行時間と映画の時間をほぼ同時シンクロさせるという、おもしろい手法に途中から目が離せなくなった。最近のドラマ「24」でもこの手法が取り入れられているらしい。(ちなみに「24」は未見)

映画の方は、初見だと思っていたが、過去に見たことはあった。ただ、1度目の鑑賞ではたぶん上の手法がもたらす緊張感も理解できていなかったし、どうせ正義が勝つ話しで、保安官とその妻以外が臆病でありその腰抜けぶりに腹立った印象しかなかった。
でも二度目の鑑賞では、保安官は暴力を恐れ怯えながらも何とかしようとあがく普通の人間だし、保安官に結果的に協力せずに腰抜け振りをさらす町衆も、「6年前は凄腕の仲間がいて、なんとかなったが、その彼らはもういない」ことや、6年も経てば仕事を得て安定した生活を送り、家族をもったことで自ら身を危険にさらしたくないという大人になった人間も多いわけで、先日読み終えた『夜の果ての旅』にあった「臆病は生き抜くための最善の策」という現実が非常によく描かれていたのにとても感心した。
「昔ギリシャで圧政をした独裁者を追い出すのに民は協力した。独裁者が兵を引き連れて舞い戻ってくると、民は(独裁者を追い出した)政府要人たちを自らの手で殺した」というエピソードが語られた際の保安官の気持ちと教会に集った町衆のそれぞれの思いは、今となれば痛いほど分かる。保安官にとってみれば「今戦わないとまた同じことの繰り返し、しかし一人では勝ち目はない」であり、町衆からすれば「安全な町にしてくれた保安官に感謝してるが、保安官がいなければ少なくとも当面の流血は避けられる。もしくは保安官が死ぬところを見たくない、また決闘なんかあれば北部の大企業の工場誘致があやうくなるからとりあえず保安官には町を出て欲しい…etc」なのである。まさにリアリズム。
私個人は西部劇の主人公が、なりふり構わずに助けを求めるも孤立無援でイライラを募らせて、ラストの手前となれば遺書を書き終えた途端机に伏すという「西部劇の主人公らしくないさま」を見せたあの場面が一番秀逸だったように思う。西部劇の歴史はよく知らないが、住民たちに聞き入れられない哀願をくりかえし、それが暖簾の腕押しに終わったことから、苦渋や後悔や絶望といった感情があれほど入り混じった状態になった保安官像を私は見たことがない。

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今年は、映画鑑賞や読書がほとんど出来ない年である。今年に入ってこれまで読んだ小説は、4作品である。『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー)、『ファウストゥス博士』(トーマス・マン)、『ペスト』(カミュ)、そして今回読了できた『夜の旅の果て』。
かつては多読したらステータス、冊数が多ければ偉業を成し遂げてる、私ってすごいといったような、顔から火が出るようなことを誇りにしていたように思うが、多読しても内容が読めてなかったら意味ないし空っぽなので、今年は視界の狭い極端なことをいうようだが、もうこの4冊でいいような気がしている。

さて、『夜の果ての旅』であるが、読了まで2ヵ月半以上かかってしまった。おもしろくなかったわけじゃない。おもしろさが分かるまでに2ヶ月かかったのだ。文庫で400ページもない上巻に2ヶ月かけようとしたころに、急におもしろさが分かるようになってきはじめ、下巻は正味一週間かからずに読めた。
小説というのはどんな結末になろうが、作品内の登場人物のなかに一人および数人は人間性を讃歌したくなるようなキャラ、もしくは場面が盛り込まれていて、それが僅少であっても小説内に救いを与えている場合が多いように思うが、『夜の果ての旅』はそんなところが微塵もない。描かれているのは人間がいかに卑劣で汚くエゴイズムに満ちているか、目を覆っても時代が変わっても現実は変わらず人間は変わらないといった、リアリズムである。もちろん主人公も己の汚なさ黒さを客観的に書くような真似はしていない。
作品のなかで主人公が戦場、植民地、自動車工場、パリの場末で目にし、破格の文体で暴き出すおぞましい人間の姿と人間社会の愚劣さの描写は、いくら小説のなかでの自由な表現だからといって、作者の呪詛をおそらく読者の殆どは受け付けられなく嫌悪してしまうのではないだろうか。本当のことに目を背けることが人間社会を構成・持続させる条件であり、それでこそ社会が成り立っていることを意識せずにいられる鈍感さをもってもしても、セリーヌの呪詛はぐうの音のでなくなるほど容赦ないものに感じられると思う。おそらくその容赦のなさに怒鳴り散らしたくなるものの、怒鳴った内容はきっと寒々しいものになるだろう。
ただ、セリーヌのそういった人間の現実や社会の現実に対する呪詛も、ときにアフォリズムとして引用してしまいたくなるような表現で書かれているところに、この作品の光るところがあって、読んでいて暗澹とした気持ちになりつつも、苦笑してしまうのだ。そこのところが憎めない。
作品が出た当時、左翼・右翼、資本主義・社会主義の思想のどの陣営だろうが、この作品を錦の御旗にできなかったであろう。本当のことが描かれすぎていて手に負えないのだ。人間の醜さを全部見据えた上で、なにかを構築したい人に、まず薦めたい作品の一つである。

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「晴れた日に…」

YouTubeに先月弾いた同じ曲を弾きなおしてアップした。
セミがいなくなってから弾きなおしするとか思ったりしてたけど、あの映画は登場人物たちの服装や背景の色使いを見る限り、暑さが感じられる季節の話だと思うので、演奏の環境もセミの鳴声がやかましすぎる騒音になってなければ、それでいいと思うようになった。

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スカイプの通話などで長年使用していたヘッドセット。あちこちガタがきていてなんとか修理して使っていたが、とうとう左側のスピーカーが壊れて音声が聞こえなくなってしまった。右だけ聞こえるのは気持ち悪くまた、何度か落として割れた部分の接着面がもう限界まできていたので、新しいのを買った。
新ヘッドセットは以前と同じタイプのものだが、新しいものは音声がよりクリアに聞こえるように感じるから不思議である。ひょっとすると若干性能的なものが向上しているのかもしれない。前のヘッドセットでは、通話時に自分の声がやまびこみたいに聞こえていたのであるが、もしかすると改善されるかもしれないと期待を寄せている。

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京都市美術館で開かれている「フェルメールからのラブレター展」に行ってきた。
思いの他充実した展だった。最後の展示作品をじっくり見た後、もう一度最初の作品から見直すことを数回繰り返すほどだった。とくに、この絵はダブリンまで行かねば見れない、と思っていたフェルメールの「手紙を書く女と召使い」を、まさか日本で見れるとは思わなかった。
ほかに展で目が行ったのは、ピーテル・デ・ホーホの作品とヤン・ステーンの作品、フェルディナント・ボル、アドリアーン・ファン・オスターデの作品だった。
幾つかの作品とも再会できた。ピーテル・デ・ホーホの『中庭にいる女と子供』と、フェルメールの『手紙を書く女』は現地のワシントン・ナショナル・ギャラリーで見たことがあったもので、ワシントンの珠玉の作品たちのこともたくさん思い出すことが出来た。

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