今年は、映画鑑賞や読書がほとんど出来ない年である。今年に入ってこれまで読んだ小説は、4作品である。『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー)、『ファウストゥス博士』(トーマス・マン)、『ペスト』(カミュ)、そして今回読了できた『夜の旅の果て』。
かつては多読したらステータス、冊数が多ければ偉業を成し遂げてる、私ってすごいといったような、顔から火が出るようなことを誇りにしていたように思うが、多読しても内容が読めてなかったら意味ないし空っぽなので、今年は視界の狭い極端なことをいうようだが、もうこの4冊でいいような気がしている。
さて、『夜の果ての旅』であるが、読了まで2ヵ月半以上かかってしまった。おもしろくなかったわけじゃない。おもしろさが分かるまでに2ヶ月かかったのだ。文庫で400ページもない上巻に2ヶ月かけようとしたころに、急におもしろさが分かるようになってきはじめ、下巻は正味一週間かからずに読めた。
小説というのはどんな結末になろうが、作品内の登場人物のなかに一人および数人は人間性を讃歌したくなるようなキャラ、もしくは場面が盛り込まれていて、それが僅少であっても小説内に救いを与えている場合が多いように思うが、『夜の果ての旅』はそんなところが微塵もない。描かれているのは人間がいかに卑劣で汚くエゴイズムに満ちているか、目を覆っても時代が変わっても現実は変わらず人間は変わらないといった、リアリズムである。もちろん主人公も己の汚なさ黒さを客観的に書くような真似はしていない。
作品のなかで主人公が戦場、植民地、自動車工場、パリの場末で目にし、破格の文体で暴き出すおぞましい人間の姿と人間社会の愚劣さの描写は、いくら小説のなかでの自由な表現だからといって、作者の呪詛をおそらく読者の殆どは受け付けられなく嫌悪してしまうのではないだろうか。本当のことに目を背けることが人間社会を構成・持続させる条件であり、それでこそ社会が成り立っていることを意識せずにいられる鈍感さをもってもしても、セリーヌの呪詛はぐうの音のでなくなるほど容赦ないものに感じられると思う。おそらくその容赦のなさに怒鳴り散らしたくなるものの、怒鳴った内容はきっと寒々しいものになるだろう。
ただ、セリーヌのそういった人間の現実や社会の現実に対する呪詛も、ときにアフォリズムとして引用してしまいたくなるような表現で書かれているところに、この作品の光るところがあって、読んでいて暗澹とした気持ちになりつつも、苦笑してしまうのだ。そこのところが憎めない。
作品が出た当時、左翼・右翼、資本主義・社会主義の思想のどの陣営だろうが、この作品を錦の御旗にできなかったであろう。本当のことが描かれすぎていて手に負えないのだ。人間の醜さを全部見据えた上で、なにかを構築したい人に、まず薦めたい作品の一つである。
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