デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 




大仏殿と大仏ではどちらが大きいか?と問われたら、どう答えるだろう。やっぱり大仏殿だろうか。
しかし小噺では大仏となる。なぜなら立ち上がったら…。
十数年ぶりの東大寺は、チケット売り場から検札まで、さほど変わっていないように思えた。


ガイドさんが英語で煙を浴びる「効能」について楽しく説明していた。






大仏殿(東大寺金堂)

東大寺は、奈良時代の中ごろに聖武天皇の発願で創設された。今の建物は江戸時代に建て直された三度目のものだ。ちなみに平安時代末期と安土桃山時代に兵火に罹(かか)っているのだという。








大仏(盧舎那大仏)

盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)の盧舎那仏とは釈迦如来の別名である。如来 (にょらい)とは、仏教で釈迦を指す名称のひとつ。ちなみに菩薩は「仏になろうとする修行者」のこと(もちろん、意味をひとくくりには出来ないので詳細を知りたい方はまた調べてみてください)
像は青銅で鋳造されたが奈良時代には鍍金(金メッキ)が施されていたという。その後はたびたび損傷を蒙って、その都度修理されているのだが、今の両手は桃山時代、江戸時代のものだという。
ひさしぶりに見た大仏は、意外に小さく見えてしまった。



ところで、青銅で鋳造されたこの大仏、片方の目が老朽化で身体の中に落ちてしまったことがあったそうな。大規模な法要も近いということで急いで修理しなければならないが、どう考えても間に合わない。坊さんたちが頭を抱えていると、傍にいた親子が「10両出してくれたら、ものの半時で直してみせる」と言う。
そこで寺はその親子に10両を渡し、お金を受け取った父親はすぐさま鉤(かぎ)のついた長い縄を大仏の目めがけて投げた。鉤は目のふちにしっかりと引っかかり、そこへ子供が縄を伝ってスルスルと大仏の目に降り立ち、身体の中にあった目を内側から杭を打って直した。
坊さんたちが「立派なものじゃ!これで無事法要が行える」と安堵したのも束の間、今度は目を直した子供が大仏の内側から出られなくなってしまったことで騒ぎが起こった。すると子供は頭を働かせて、大仏の鼻の穴からスルっと出てきた。このことから、判断が素早く機転が利くことを「目から鼻へ抜ける」と言うようになった…。これも小噺の一つ。(ちなみに「目から鼻へ抜ける」は利口で物事を理解するのが素早いこと。判断が素早いこと。抜け目がなく、やる事が敏捷(びんしょう)であること。なので、臨機応変ができるという機転が利くこととは少し違います)。


広目天。広目天は四天王の一体



挑戦する勇気はあるか?(笑)

上のほうで「ひさしぶりに見た大仏は、意外に小さく見えてしまった。」と書いたが、この柱をみると大仏って大きいのだと改めて思う。この柱の穴の大きさは、大仏の鼻の穴のサイズと同じなのだ。
ここを這い抜けるのもいい思い出作りになるが、子供の頃ならまだしも今では腰がつかえて出て来れなくなってしまうのではないだろうかと思い、遠慮した(笑)。

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「ローマ人の物語」全15巻を読み終えた。旅行なり読書なり済ませたはいいが、それを弊ブログ上でつづる作業については、とんでもなくスローペースで間に合ってない私の特徴が今回も現れた(笑)。まぁ、書きたいことがまとまってるわけでないし、理解できてないことも多いので、今、巻ごとの感想を述べようがないし…。
ちなみに6月下旬の第8巻の感想を書いた時点で、第12巻を読んでいた。トライアヌス帝、ハドリアヌス帝、アントニヌス・ピウス帝を扱った第9巻(『賢帝の世紀』)が非常におもしろかったことで、一気に加速したのだが、第11巻以降(第10巻はローマ人のインフラ整備を論じた特別巻)の蛮族の襲撃から帝国の腐臭すらただようジレンマに満ちた滅亡への途は、私自身の興味も重なったゆえ、毎日少しずつ読めたようである。
塩野氏は、帝国滅亡の原因を挙げるのではなく、どのように滅亡していったかを描くようにしたと、著書の中でいっているのだが、このことは栄枯盛衰の具体例として読者の心を打つのではないだろうか。私はこれまで、起こったことの結果論を小難しく得意げに書き連ねたものを読むことが多かったが、国の興隆から衰亡への営みを通史として丹念に(塩野氏なりの毒々しいものいいを散りばめて(笑))描いた、長大な作品を読んだのは初めてだった。言葉そのものよりも、そのときの人間(国)は、いかなる行動したか、その行動を追ってこそ、人間や国の営み、さまざまな意味での真実がわかるというのは、何にもまして説得力があった。何でこうなったの?ではなく、こうなるものなのだ、と。いや、せめて、何でこうなったの?ではなく、こうなったのだ、と。

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西の阿形



東の吽形

金剛力士は、仏教の護法善神(守護神)である天部(仏教における神々)の一つである。私はなぜか未だに仏教に神々がついていることに違和感を覚えることがあるのだが、仏教と無関係ではない古代バラモン教の神々との関連については興味を覚えるようになった。こちら(ウィキペディア)などは参考になると思う。
東大寺の南大門には東西に木像の金剛力士像(仁王像)が配置され、参拝する人々をいかつい形相で見下ろしている。小学校の頃にはまったく注意を払わなかったが、今見ると本当に圧巻であった。
造像は鎌倉時代1203年(建仁3)で、作者は大仏師運慶・快慶・備中法橋・越後法橋の4人が弟子と共に75日間で作り上げたそうだ。
像は解体修理を経ているそうだが、造像されてから初めて解体修理をされたのは、なんと1988年(6年かけて修理)だそうである。700年以上もその堂々たる威厳を保ち続けていたというのは、驚きのほかない。
南大門では金剛力士像を見ることなく、そのまま本堂へ向かう人が少なくなかったが、少しでも時間があるなら、南大門でちょっと立ち止まることをお奨めしたいものだと思った。

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撮影時には露出を下げたので回りは暗く写っているが、実際は普段に分厚い雨雲がかかっているようなぐらいの明るさであった。
そう、日蝕だ。私の目で観測できたのは、部分日蝕だ。今日は日蝕についての戯言である。

日蝕に関する報道は、いつもながら派手なものだった。たしかに皆既日蝕や部分日蝕を見れることは大いに喜ばしいことだが、しかしとんでもなくありがたいという気にはならなかった。曇り空の下での部分日蝕であったから、というのもあるが、そもそも、
「蝕」は毎日、地球上のどこかでは起こってる現象だろ?
という醒めた気持ちが終始抜けなかったのだ。今は、人類が観測し発見した法則の下での日蝕が起こる周期がそれなりにわかるわけだし、日蝕を追いかける時間と体力とお金さえあれば、何度もお目にかかることができるかもしれないのだ。写真撮っておきながら言うのもなんだが。
なんというか、珍しい自然現象を目の当たりにした感動もそれはすばらしいと思うのだが、今回は、五輪で女子ソフトボールやWBCで日本代表が優勝したときの方が、跳び上がらんばかりの気持ちという意味では充実していた。横浜ベイスターズやシカゴ・ホワイトソックス、ボストン・レッドソックスのファンたちは、自分たちの応援するチームが何十年ぶりかで優勝したときと、日蝕を見たときとはどちらが嬉しいかったろう。確率でしか語れないそれはそれ、天文現象についてのこれはこれ、か(笑)。

最近読んだ本では、敵方が自ら兵を留まらせた理由が日蝕が起こったからであるという情報をつかんでいたローマの最高司令官が、戦(いくさ)を有利にもっていくにあたり、日蝕を利用したエピソードが印象に残っている。

ところで、日蝕が話題にされるときって、なんらかの法則がないだろうか?とふと思い、しばらく考えているうちに思いついた。忘れた頃にやってくるタイプの現象、マスコミや天文台にとっては変則的な恒例行事という気がしないでもないなと。ひょっとして、人間の物忘れと想起の周期と、観測地を日本に限らない場合を含めての日蝕の話題が起こる周期は、同じなのでは!?
たとえば伊東家の食卓で紹介されたような裏技が、1年後とは言わぬまでも数年後に別の番組で紹介されていたり、わが子の運動会を見守る山口百恵がワイドショーに登場する周期だったり、一昔前の大橋巨泉が本を出すタイミングだったり、なんというかそういう感じの周期と日蝕の話題が出るタイミングが似ている気がするのは私だけか?(笑)。

以上、戯言でした。

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ここに初めてきた頃は小学校の遠足で、それも平日だったと思う。東大寺や若草山や正倉院展のような展示をみたことは覚えているが、東大寺の表の参道の記憶は無く、正直、こんな感じだったとは思えなかった。だから初めて来たような気になった。
鹿は好き放題していたが、鹿にせんべいを集られる観光客はそれはそれで楽しそうだった。

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カミーユ・コロー「朝、ニンフたちの踊り」(1850)

カミーユ・コロー(1796-1875)の作品については書くまで何故か時間がかかった。作品は素晴らしいのに、文章にしようとすると「書きたい!」という熱烈な思いが湧いてこないのである。
というのも芸術作品を鑑賞し感想を述べるうえで、作者の生涯ではなく作品でのみ評価したら?と考える人には良いが、私はどうせなら作者の生涯と絵の関係について、ある程度分かっている限りは恐れ多くも生涯にも触れたいと思っているからだろう。もちろん、コローの生涯は退屈なものではなく、二月革命(1848)以降に作品が認められるまでは苦労も多かったろうし、私も気分が乗ればぜひ紹介したいエピソードもあるのだが、人格として好人物(お人好し過ぎる!?)な有名人は得てして書きづらい(笑)。

コローの両親はともに実業家夫婦で、コローは唯一の息子だった。経済的には裕福なものの両親は多忙で、コロー4歳までパリ近郊の村へ里子に出された。生涯、風景を愛す三つ子の魂はここで培われたといわれている。
青年期に入り、父のすすめでラシャ卸業者に見習いに入るものの、帳簿に落書きをしたり、配達の途中で風景のスケッチに熱中してしまうコローには、商才を期待できないのであった。
20代になると、当代のプーサンとの呼び声の高い風景画家ミシャロンに弟子入りするが、ミシャロンは急逝したため、ミシャロンの師ジャン=ヴィクトル・ベルタンの下で、戸外の写生を材料にアトリエで調和の取れた自然景観を構築する伝統的な風景画の技法を学ぶことになった。
1825年から3年間、コローはイタリアへ私費留学する。現在にも残るルネサンス期の傑作を目の当たりにしたコローだったが、彼の目は戸外の自然に向いていた。イタリア留学を果たしたコローは、フランス各地を写生旅行して回り、冬場はパリのアトリエで例年のサロン出品に備えるという生活を、78歳で死去するまで続けることになる。
コローは当時の新進気鋭の自然主義の画風や印象派などの革新の動きには、怖気を振っていた。たとえばミレーの人柄は愛したが、

「私にとってこれは新しい世界だ。途方にくれてしまう。私は過去の古典と結びつきすぎているのだ。私はここに(ミレーの作品に)偉大な科学を、大気を、深さを見る。そかし、これは私を怯えさせる。私は自分の小さな音楽のほうが好きだ」

と、コローは語っている。しかし1852年という早い時点からの肖像写真を撮影したり、映像技術に関心を示すなど、決してコローが保守的で革新に無理解であったとはいえない。
1855年の万国博覧会でコローの作品は最高賞に輝き、作品がひっぱりだことなると贋作も出回りだした。しかし、コローは人助けになるなどともっともらしい理由で懇願されると、その贋作に署名までしてやり、あまつさえできの悪いものは加筆修正してやったりした。コローは生涯で二千点の油絵を描いたが、現在アメリカだけでも五千点のコロー作品があるという(笑)。画名の上昇とともに増える収入も、大部分は近親者や友人への援助、寄付に当て、画家のドーミエには家まで買い与えた。(人格として好人物(お人好し過ぎる!?)な有名人については、得てして書きづらい、という意味、なんとなくご理解いただけたかと思う(笑))。

というわけで、作品の感想を述べる。
「朝、ニンフの踊り」は、実はこの作品はコローの真骨頂といっていい「…の思い出」とかいった抒情性をもたせた風景画が登場する頃(1850年以降)に描かれたものなのだ。この作品はコローがパリに滞在中によくオペラやコンサートによく足を運び、心ひかれた俳優や観客の姿をクロッキーに写したことと、第一回のイタリア旅行のスケッチを、無理なく融合させた作品となっているそうだ。
作品を見ているときにはそんなことは知らず、抒情的に描かれている風景と踊っているニンフ(精霊)の意味を勝手に自分の中で作り上げるのが精一杯だったが、舞台の俳優の動きをニンフたちの動きに例え何番煎じであろうか平気で用いるところは、彼の自分の音楽を愛すこだわりの顕れかもしれない。

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市街の方では祇園祭の宵山なのだが、今年は見に行かず宵山の日の夕暮れを撮った。私の傍で携帯のカメラで空を撮っている人がいた。その人は宵山に出かけたかも知れぬし、出かけなかったかもしれぬ(笑)。

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この時期によく夕暮れを撮りに行っていた場所で、新たな建物を建てる工事が始まった。絶好のポイントがまたしても一つ減ったと嘆きつつ出かけたら、昨日の夕暮れは久しぶりにカメラを向けたくなる夕暮れが見れた。本当に久しぶりだった。

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駅を出てしばらくのところにある地下道




友人と奈良へ行った目的の一つが鑑真和上展を見に行くことだった。
唐招提寺の文化財が一時的に奈良国立博物館で展示されているのは、唐招提寺が補修されているからだという。よって現地では正面からしか見えないような仏像が360°の角度でもってみることができた。
しかし、なんというか寺で見るのと異なり、ありがたみが薄れたような気がしたのも事実である。
尤も私は鑑真ってどこの人か、といったことも怪しかったのであるが(笑)。ちなみにこの特別展を見るまで、私は鑑真はインド人だと思っていた。正確には中国から渡来した僧である。
展示されている文化財の中では図鑑や歴史資料集なんかで載っている作品もあったのだが、それらに加えて印象に残っているのが、東山魁夷の御影堂障壁画だ。海辺を描いた「濤声」、「山雲」の二作品がよかったと思う。

特別展の後は東大寺へ。参道では鹿や「シカせんべい」を売る露店が…。





写っている子の親にこの画像あげようかと思った(笑)



やっぱり定番…。


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近鉄奈良駅を出ところの標識を見ると、いかにも観光地という気がした。しかし、どことなく懐かしい気にもなった。たぶん、10代の頃に来たことがあったからだろう。


たまたまだが、うれしいものだ(笑)



行基の像

行基像とこのデザインの噴水は、すぐ傍でミュージシャンがジャズの演奏をしていたこともあり、妙なとりあわせになってる気がした。
行基(668年 - 749年)についてはこの記事を書くまで名前しか知らなかったが、平城京の時代の僧である。主に関西で布教活動を展開したが、寺外の活動が「僧尼令」に違反するとし、717年(養老元年)4月23日詔をもって糾弾されて弾圧を受けた。
しかし後には禁圧は緩められた。理由は、行基の活動が拡大しすぎ抑え切れなかったことと、「反政府」的な布教ではないということからだそうだが、行基指導による墾田開発や貧民救済・治水・架橋などの社会事業の活動が、利害の一致を生んでいたのだそうだ。
浅学の上での想像だが、奈良時代から平安時代のお坊さんって、インフラの整備に長けた人もけっこういたのだろうか? とはいっても、行基のあとに出る空海しか思いつかないが(笑)

奈良といえば鹿だが、駅から歩いて500mも行けば、歩道に鹿がいる。


なにかをねだる鹿。

つづく。

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