デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



フェデラル・ホール・ナショナル・メモリアルのなかに入ってみた。


天井はとてもきれいだった。






セキュリティーはしっかりしているが、観光客にそこまで緊張を感じさせなかった。



歴史を表したいろいろな模型があったが、ブレた。



18世紀前半の新聞記事についての説明だった。

ニューヨークの週間ジャーナルについての説明。ピーター・ゼンジャーという人の肖像がある。ここに写っている新聞は当時発行されたものの写真だろうか。


たぶん新聞発行のために使われた印刷機。



フェデラル・ホール・ナショナル・メモリアルの建設の説明?

当時の警備員(兵?)が使っていた武器とかもあった気がする。なんせ適当に鑑賞しただけだったが、館内は人があまり居らず、静かな雰囲気だった。

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昨日の記事を書いてから、自分の中でなにか、もやもや感が残っていた。なにかを、し忘れている気がしたのだ。そこで気づいた。以前から見ようと思っていたのに、ずっと見ないままでにいた、アカデミー賞の7つの部門にノミネートされたのに、受賞はゼロに終わった作品があったことを思い出したのだ。その作品を借りてきて、先ほど見終えた。
作品名は『インサイダー』。この作品は日本でも社会的に影響力のある企業の内部告発者がたどる運命の例えとして、しばしば取り上げられたし、またラッセル・クロウやアル・パチーノのファンということで見た人も少なくないと思う。
物語は人気ドキュメンタリー番組のプロデューサー(アル・パチーノ演じるローウェル・バーグマン)のもとへ、匿名で大手タバコ産業の不正を告発する丸秘の内部資料が送りつけられたことから始まる。バーグマンは、化学者で健康産業畑を歩んだ後、大手タバコメーカーB&W社の研究開発部門副社長に就任したものの「正当な理由なく」解雇されたジェフリー・ワイガンド(ラッセル・クロウ演じる)に、その内部資料についての解説を依頼する。
ワイガンドは家族を養わなければならない身であり、かつ解雇されたB&W社から退職金も手厚い医療保険も受けており、会社との間には守秘契約もある。しかし、ワイガンドにマスコミが接触したことを知ったB&W社は、彼を脅迫する。その後のワイガンドとバーグマンには、あらゆる困難や障害が待ち受けていたのだった…。

作品中に用いられている個人の名前や社名などは実名である。一部に脚色はあるものの事実に基づいた作品だと、ラストの字幕にある。この作品は2時間半近くあるが、その長さを感じさせなかった。
この作品のワイガンドは、きわめて難しい役どころではないかと思う。しかしラッセル・クロウは、一般市民で家族を養わねばならない立場にありながら、信念を貫き通すか、前の会社や司法のプレッシャーに屈するかで、ナーバスに葛藤する普通の男を、鬼気迫る演技で見事に演じきっている。たぶん『インサイダー』を見てから、彼がその次に主演した『グラディエーター』を見た人なら、ワイガンド役とマキシマス役の俳優が同じラッセル・クロウなのか?と自分の目を疑った人もいるのではないか。
周知の通り、ラッセル・クロウは『グラディエーター』(2000)の剣闘士の役で、アカデミー賞主演男優賞を受賞した。しかし、私は『インサイダー』(1999)でのワイガンド役こそ、受賞に値する演技だったのではと思う。ちなみに1999年のアカデミー主演男優賞は『アメリカン・ビューティー』のケビン・スペイシーだ。ケビン・スペイシーの演技も私は悪くないと思うが、ラッセル・クロウの演技の方がより素晴らしかったと思う私の主観とアカデミー賞の選考する独特な映画芸術科学アカデミー会員の主観とは異なっているようだ。(当たり前か(笑))
私は何も自分の主観でよいと思ったものが、受賞に値する作品そのものであるなどとは思っていない。しかし、『アメリカン・ビューティー』が数々の栄誉を獲得した翌年のアカデミー賞では、『エリン・ブロコビッチ』で主演したジュリア・ロバーツが主演女優賞にノミネート、しかも彼女は立派に受賞している。私は、いろんな意味で、こういった現象が付きまとうのもアカデミー賞なのだと思う。
最初に書いたとおり、『インサイダー』はアカデミー賞の7つの部門にノミネートされたが、受賞した賞はゼロなのである。

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うーむ。
日本でも話題の映画のアカデミー賞について、授賞式が始まる前に書かれた記事がある。書いた人はナイジェル・アンドリューズという人だが、私は翻訳者の方を気の毒に思う。

http://news.goo.ne.jp/article/ft/world/ft-20090224-01.html

私も冗長な文を書くことにおいては人一倍負けてない気がするが、しかし、これって、映画通を自負する人の自己陶酔なのではないかなぁ? 単に文章が下手なだけなのか?
この記事(翻訳)を見て、結局はなにを言いたかったのか瞬時にわかる方、おられたら、ぜひコメント待ってます。

私なりの要約:
・アカデミー賞受賞作というのは良くも悪くもアメリカがつくりだす時代の反映であるかもしれない。
・年代によっては、それが国内を中心にした反映か、それとも国外を中心にした反映か、に分かれる。
・911があってから、アメリカは酷く内向きで、ハリウッド映画どころではなくなったかも?
・しかし、オバマが出てきて、新たな価値観で評価されるべき作品が今年の受賞作になるだろう。
・その根拠は昔シドニー・ポワチエ(初の黒人の主演男優賞受賞者)のころから兆候(正解?)はあった。
・新たなアメリカ、新たな世界、バンザーイ!
って感じか?


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昨日は寒かったが、一時間以内ならかろうじて楽器を触れるかもと思ったので、練習しているところの一つに行ってみた。
するとなにやら大きいトラックと車が、普段自動車の進入禁止のところに止まっているのだった。楽器を触ってしばらくすると、ドッドッドッド・・・とディーゼル機関の音が聞こえ出した。
画像にあるとおり、夜の野外ロケが始まったのだった。ディーゼル機関の音は主に照明への電気を与えるための発電機だった。


照明は「ここまでするか!」といわんばかりに強烈だった

しばらくは「ふーん」と思っていたが、やがて強烈な照明の光が目に入りだし、さらにディーゼルの音も耳に障ってきた。そして、楽器を担いだまま、サスペンス系?ドラマの殺害シーンであろうロケを見物することにした。


「やめて! ギャー」とか迫真の演技で叫んでいた。

本音を言うと、どうしてよりによって今日ロケなんかするの?とか思ったりもしたが、しかし夜に行われるロケを見るのは初めてだった。その様子は見ていておもしろかった。
現場ではいろいろな声が飛び交っていた。現場ではドラマのなかのほんの一部のシーンのために、それなりの撮影機材を組み立てたり、俳優を気遣うために石油ストーブを焚いたりと、まめな作業が黙々と行われているのだった。寒空の下、お疲れ様ですという感じだった。

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カスパー・ダーヴィット・フリードリヒ「山上の十字架(テッチェン祭壇画)」1808年

ドレスデンのアルベルティーヌムの一階は彫刻が展示されていたと記憶している。
二階にはノイエマイスターがあって、ガイドブックなどではそこは国立近代絵画館という表示になっている。ドイツロマン派以降のすばらしい作品が展示されているのだ。
ナポレオンのドイツ支配からの解放戦争の時代(ゲーテなども活躍)に生きたドイツロマン派の画家C.D.フリードリヒの作品については、以前こちらでも書いたことがある。写真を撮っているときには、フリードリヒの絵のような風景や空を撮れればいいなぁと思うくらい、今でもフリードリヒの作品は好きである。
芸術のおもしろい要素の一つに、後世に多大な影響を及ぼすような作品が発表されたての頃は、世の物議をかもしたり、もっと卑俗な言い方をすればスキャンダル(醜聞)となって叩かれまくるという"洗礼"を、作者や作品が受けることが多い、といういわば「お約束」がある。
物議は、革新に真っ向から反対する論客がいないと成り立たないわけだが、その真っ向から反対する論客の気持ちが熱ければ熱いほど、叩かれまくる作品のすごさが際立つのは、今も昔も変わらない。
以前紹介したドラクロワもその典型だったが、国は異なるとはいえドラクロワに先んじるフリードリヒのこの絵も、そういった運命をたどった。
この風景画はある貴族のための祭壇画として制作されたが、公開されるやこの絵について議論が起こった。問題を提起したのは古典主義アカデミスムの立場に立つ宮中顧問官ラムドア男爵だった。彼はこの絵が従来の風景画の構築原理に従わず、奥行きや空気遠近もなく、偏平で細部だけ細かく、宗教がより低いジャンルとみなされる風景画が祭壇画に成り上がるのは不遜だとか、その他もろもろ、彼なりの主張を展開した。
もちろん、フリードリヒを擁護する論客もいたので、議論は3ヶ月間も続いた。古典主義に対する新しい芸術の誕生を彩る事件だったわけだが、端折って書けばフリードリヒの「山上の十字架」は、古典主義でおなじみの風景画の美を剥ぎ取って、風景画自体を”象徴”に、つまりは人間の主観性を持ち込んだということになる。その背景には、人間と自然とは根源でつながっていて、また魂はさまざまな段階を経て自己形成していき、最終的には地上を越えたものを目指すというロマン主義らしい考え方がある。
この絵をノイエマイスターで見たときは、事前に読んだフリードリヒ自身による解説が紹介された美術書やガイドブックの助けもあって、それなりに感動した。しかし、熱意はあったものの、何か肝心なことが分かってなかったような気がする。
私なんかに偉そうなことは言えないが、いわゆる風景画と人間の主観性とのつながりをカンバスに表現するとなると、「山上の十字架」のような作品が現れてもおかしくないと、これを書いている今なら思う。ある風景(光景)が自分にとって神秘的なものに思えて、それが自分の内面で持ち続けている美の感覚や自然と一体になりたいという憧れや魂の謎の答えっぽいものに感じられるのは、ときに自己満足と揶揄されようとも幸せなことではと、思うのだ。タルコフスキー映画やプルーストの影響を受けた頃から、フリードリヒの作品について書いている今に至るまで、たぶん私の中で、その考えは変わっていない。しかし作品を見たときには、そのあたりのことを深く享受できてなかったのかもしれない。

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ミレー「晩鐘」(1857-1859)

この作品も日本に何度か来たことがある。日本でご覧になった方も多いのでは?
ミレーが農家出身であることは前回書いたが、この作品はミレーの小さい頃の記憶のなかにある感情を思い起こして描かれたところがある。ミレー自身、友人にこう書いている。

「《晩鐘》は,かつて私の祖母が畑仕事をしている時鐘の音を聞くと,いつもどのようにしていたかを考えながら描いた作品です。彼女は必ず私たちの仕事の手を止めさせて,敬虔な仕草で帽子を手に,『哀れむべき死者のために』と唱えさせました」

作品に描かれているのはシャイイ平原だ。絵の右側遠方にシャイイの教会がある。彼は、きっとバルビゾン村近郊のシャイイ平原の農地で働く人々の夕べの鐘の音に祈りを捧げる姿も、数多く見てきたことだろう。
この作品については、男性の戸惑いつつ物思いにふけるような様子と敬虔な女性との対比や、夕暮れの光の移り加減の捉え方、作品から感じる農村における信仰の理想と当時の情勢から見た作品の価値、最初はアメリカに売られたが国民的財産として高値で買い戻されたことなど、研究を踏まえて書かれた充実した解説がある。
それらの解説も興味深いが、私はこの絵を見たときに受けた衝撃を大事にしたい。それは、絵から夕べを告げる鐘の音が聞えてきそうな錯覚?に襲われたことだった。もちろん日本であれオルセーであれ、館内の少量の喧騒は聞えていたのだろうけど、遠くから響く鐘の音とほとんど凪といっていいほどの風の音、じっと佇んでいても僅かに動いてしまう足と草地とが擦れる音までもが、感じ取れるような気がしたのだ。
日本で初めてこの絵を見たとき、その特別展会場内で、絵の痛み具合からして次は「長旅」に耐えられないかもということで、もう日本に来ないのではないか、みたいなことが書かれていたが、今でも作品の保護の観点からすれば日本に来て欲しくなく、でも再び来て欲しい、といったような複雑な気分になる。

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エンジェル・ベイビー

楽器部の女性メンバーの一人が、無事男児を出産した。久しぶりの、めでたいニュースだ!
祝いの気持ちから、そしてここ数日屋外が暖かいこともあり、一昨日急きょギターを担ぎ出してある曲を弾いてみた。
「エンジェル・ベイビー」はロージー&ジ・オリジナルズが1961年に出した曲なのだが、私にはジョン・レノンによるカバー曲の方が印象強い。
私はこの曲について改めて調べるまで、ジョン・レノンの息子ショーンが生まれたときに、ショーンが可愛くて仕方なくこの曲をカバーしたのだ、という風に理解していた。だが「エンジェル・ベイビー」がカバーされた時とショーンの誕生日とを照らし合わせると、実際のところはジョン・レノンがオノ・ヨーコの妊娠を知ったこと(もしくは妊娠中)に喜びを覚えていた状態で、この「エンジェル・ベイビー」を歌ったであろう、というのが近いのではないかと思う。
歌唱力は相変わらず、またあまり練習もしない状態での弾き語り、おまけに風の音が入るなど録音時の環境は決して良くはないが、めでたくかつ素晴らしいニュースを心から喜んでいるのは演奏時も今も同じだ。
新しい家族を得てのこれからの新しい生活が、よろこびに満ちたものになりますよう心から祈ります。

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Je te veux (on guitar)

ジムノペディで有名なエリック・サティが作曲したシャンソン「ジュ・トゥ・ヴ」。
これをアップロードしたときはもう0時を回ってましたが、日本時間でなければ、まだ聖バレンタイン・デーであったので、世界の方にもメッセージは伝わったかもしれない?(笑) 聖バレンタイン・デーの捉えかたは日本と外国では異なるし、また外国によっては女性から男性へだけでなく、男性から女性へプレゼントする日として過ごされることですし、2月14日にこの曲がアップされてもいいと思います。
以前、弊YouTubeチャンネルで同じ曲をアップしたことがありますが、今回のは前回の演奏でミスをしていた部分を修正したものです。でも前回の分は、鳥のさえずりが入ってたりして、私的には奇蹟的な動画だったと思ってます。そちらの分も併せてご覧いただければ、うれしいです。


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『ガリア戦記』はユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー、前100年-前44年)によるガリア地方への戦役の記録である。ガリアというのは、大雑把にいえば今のフランスやスイスやベルギーやオランダのあたりで、そこでは多くの部族(政治的単位)があった。
多くのガリアの部族にしてもローマにしても国境は地続きなのだから、それら政治的単位の間では、部族の利益が絡んだ問題が何かと起こりがちだったらしい。そこでカエサル率いるローマ軍がローマと「盟友」関係を結んでいた部族とかかわって、今のイギリスにあたるブリタニアに至るまで、戦役という形で遠征した。『ガリア戦記』はローマの元老院への報告書なのである。

さて、多くの人が評するように、戦記はたしかに簡潔・明瞭・洗練、なのに詳しい内容で、読み手の想像力をかきたてる、と思った。報告書ではあるものの、時にまるでパワーインフレを抑制した漫画みたいにも読めてしまう。
もちろん、敵方の軍勢の数値なんか誇張があるだろうし、ローマと戦った相手方のカウンター資料が分からないので、私は「真実」を想像する余地を残したいのだが、それでもなお戦役時にカエサルやその部下たちが経験した成功や身内の失敗(過失)、喜びや苦しみや怒り、悲しみをこの淡々とした記録から感じ取るのは難しくない。
それにこの戦記では、経験から得た金言が随所にちりばめられているところも魅力であると思う。戦役というのは半分以上が地固めと諜略(策略)であり、それを遂行するには情報収集力をフルに発揮したり、その上で最良の判断を素早く行ったりする。また戦闘が起これば、不利な状況に陥った場面を、なんとか打開しなければならないこともある。そういった際に重要なことが、淡々した報告書のなかに、ふっと盛り込まれていたりする。これらの金言は、現代でも大いに参考にされて生きていると感じた。
ちなみに私が手にした『ガリア戦記』は近山金次訳の岩波文庫版で、私自身戦記というものをほとんど読んだことがないことに加え、訳文が古め?なこともあって、熱狂してむさぼるように読めたとは百歩譲ってもいえない。睡魔に襲われつつもなんとか最後まで目を通せた、という一面もあるかもしれないが、この翻訳はかなりの労作だというのは分かった。それにいわゆるピー音が入るような「言葉狩り」の影響をほとんど受けてないだろうし、戦役時の他部族に対するカエサルの見方の"実際の泥臭さ"がうまく表現されているかもしれないと思う。実際、慣れてくればおもしろく読める本だった。

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ジャン・フランソワ・ミレー「落穂拾い」(1857)

前回少しだけ触れたバルビゾン派であるが、その発生についてもう少し書こう。
画家たちがバルビゾン村にやってくるのは1820年代に入ってからである。1824年にはバルビゾン村に一軒しかない宿屋兼居酒屋のガンヌ親父の店ができ、行商人や芸術家たちがガンヌの店に滞在した。以降、ガンヌ親父の店だけではなく、村に居を構えて創作に励む芸術家たちも出てくる。
1860~1870年代になると、バルビゾンは名声と栄光の場所になっていたのだが、その名声と栄光を得るにあたり大いに貢献したのがミレーの作品である。

ミレー(1814-1875)はグリュシーという寒村に生まれた。生まれた家は、代々農家をやっていたが、ミレーはデッサンの才を発揮する。農家を継がせることを諦めた父親は、シェルブールの画家の下に弟子入りさせ、ミレーは1836年にはポール・ドラロッシュのアトリエに入った。ドラロッシュはミレーの才能を見抜き、ローマ賞に挑戦させるが失敗する。その後、ミレーはルーヴルでの模写で独学する。
1840年には初めてサロンに入選し、シェルブール市議会が購入するが、作品が当時の評価基準であった理想化された作風ではなかったので、ミレーの作品は市議会からの受け取りを拒否される。
翌年には結婚するが、病弱だった妻はその3年後に他界する。1844年末ごろに生涯の伴侶となるカトリーヌ・ルメールと知り合うが、誇り高いミレーの実家は宿屋の下働きだったカトリーヌとの結婚を認めず、二人は駆け落ち同然でパリに出てきたのだった。それからの生活は子供も生まれたこともあり、困窮したものになった。
1848年の二月革命がミレーの作品を世間が注目するきっかけを与えた。共和制政府がミレーの筆による道路工事をする人たちや、農村の労働者を描いた作品を購入するようになり、ミレーは本人の自覚はともかく、まわりから強烈な共和制主義者と見なされるようになる。尤も、ミレーの作品を理解したのはフランス以外のアングロ=サクソンの人々という一面もあった。外国でミレーの作品が購入され始めると、その後の作品の値段も上がっていった。当然、保守的な体制を支持する人々からは睨まれることになった。
1849年、ミレーは妻と子供とともにバルビゾン村にやってきた。コレラを避けてのことだったが、その後ミレーは村に住み着くようになり、村に滞在していた自然への讃美と反アカデミーの姿勢をもつ芸術家たちと親交をむすんでいく。(もっともバルビゾン派の画家たちとは、1849年よりも前に交流があった)
「落穂拾い」が描かれるまでのミレーの略歴を、大雑把ではあるが紹介した。ミレーは結婚した妻ともども、けっこうというか、かなり苦労している。しかし、生まれた場所や、移り住んだことのある場所の風景を讃美していたのか、ミレーは彼の特徴である空の開けた、明るい風景画を数多く残している。
開けた風景画ともいえる「落穂拾い」は、畑の所有者から許可を得て自分たちの食べる麦を拾っている女性たちが前面に描かれている。下を向き懸命に作業をしている彼女たちは、もちろん畑の所有者でなく、また所有者に雇われている身でもない、最下層の人々である。遠くには積み藁や収穫人、畑の所有者?らしき人物が馬に乗って、こちら側に目をやっている姿が描かれているが、それらは広大な畑とともに薄っすらとしか見えないので、彼女たち姿が前景に取り残された形になっているのだ。だから、絵を見るものにとってはなおさら、この絵から受け取るメッセージが強調されるのだ。
このテーマは形こそ変われど、現代にも通じている。いつだったか、TVCMにこの絵が用いられていたことがあった。それは彼女らが作業している畑の手前に立派なアスファルトの道路があり、そこをスポーツカーが高速で通り過ぎていく車のCMだった。CM制作の表現にもいろいろある、という意見もあるだろうが、私は正直寒々としたものを、感じざるを得なかったことを覚えている。

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