デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



バスを降りたらサナーム・ルアンに近い所だった



サナーム・ルアン(王宮前広場)



日が暮れてからの広場はカップルが多かった



昨日入ったワット・プラケオがライトアップされていた


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




W・シェイクスピア『ハムレット(シェイクスピア全集)』(白水Uブックス)小田島雄志訳、読了。

彼(ギリシア語をこよなく愛する学者)はギリシア語の学位をとるため試験を受けにきた学生に、「真実と美との関係についてソクラテスがどう考えていたか?」とたずねてみた。ところが学生は答えられなかった。そこで今度は、「饗宴の第三部で、ソクラテスはプラトンに何と言ったか?」ときいたら、学生は急に元気になって、べラべラべラべラべラ一語一句まちがえずに、すばらしいギリシア語で全部暗誦してみせた。
 ところがその饗宴の第三部で、ソクラテスがプラトンに話したことこそ、真実と美の関係だったのだ!
 (…略…)彼らはソクラテスの言ったことを一語一句まちがえずに全部暗誦することは出来たが、そのギリシア語の言葉が実際に何か意味を持っているのだ、と言うことには気がついていなかったのだ。学生にとってはそれは、ただの人工的な音に過ぎなかった。学生が本当にわかるような言葉で、それを解説してくれる者は誰もいなかったのだ。
R・P・ファインマン『ご冗談でしょう、ファインマンさん(下巻)』(岩波現代文庫)p50~51

物理学者のファインマンのエッセイにある非常に耳の痛い例えだと感じたものだが、今もってしても私の心にグサリと突き刺さる。
実際、『ハムレット』は私にとってファインマンの言うところのただの人工的な音にすぎないままであった。これまでどんな捉え方をしてきたのか、正直なところ劇中の名言を仕入れて、ものごとに対して上手くいいたくなるときのアウトプットのためのストックであったという以外無いような気がする。名言集の言葉を知っていれば手軽に知的になれるといった若気の至りと、名作だの深いだの言う人がいたらその人に話を合わせるためというのもあったろうか(笑)。
『ハムレット』への読解を阻んでいたものは私の精神が子供状態であることに加え、他にもあったような気もする。たくさんの登場人物が出てくる割には表情という行間が記されていない戯曲を読書で味わうという方法が苦手であることもあるだろう。また、国内・海外の名作とされる作品を読める段階になっても(手にする本のめぐり合わせで)手にする機会が無かったのは不思議といえば不思議だ。
三度目の読書にして漸(ようや)く、意味のある生きた戯曲になり、年を食ってみて初めてシェイクスピア劇の名言の意味が心にしみてくる。言い回しの巧みさは見事だし、短い分量に込められた濃密な情報量は観劇者にあらゆる解釈を許す余地を与えてくれる。展開力もすばらしい。文芸や舞台芸術の世界でのテキストという範疇を超え心理学のテキストとしても秀逸なものになっているのも理解できる。
ドストエフスキーやトーマス・マンが書くような長編小説の分量でもって丁寧に描かれた豊かな世界とはまた別に、戯曲もまたいいものだと思った。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




カラフルなトゥクトゥクを撮ろうとしたら
その手前をバイクが追い抜き残像になった



仏様に捧げる花の市場の横でバスがしばらく停まって
いたこともあって、いろいろな乗り物が通り過ぎていく。



もちろん食べ物の屋台もある






まさに花であふれんばかりだった


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




W・シェイクスピア『ジュリアス・シーザー(シェイクスピア全集)』(白水Uブックス)小田島雄志訳、読了。

塩野七生や辻邦生の作品を読んではいたが、シェイクスピア劇の『ジュリアス・シーザー』(以下『シーザー』と記)をきちんと読み通したり、ましてや観劇したことはなかった。
『シーザー』が作家や歴史家・学者が描くローマ史ではないと分かっていても、正直なところどうしても私の知っている史実と異なる箇所に目が行ってしまった。登場人物たちの台詞を読みながら、マーカス・ブルータスがキャシアスの死を知るのはキャシアスの死から日が経っていた、M・ブルータスは案外とるに足らない人物であった可能性もある、シーザーの死の間際の言葉にある「ブルータス」はディーシャスを指す可能性が高い、その他、などのことを頭の片隅で考えながらの読書だった。
ただそんなどこか斜に構えた気持ちで読んでいたとはいえ、劇中の登場人物の言や行動の動機に対しては、なおも心を打つものがあった。史実とかけ離れた演出がほどこされていようが、当時の彼らが劇の台詞のような言い回しを用いていたとは思えないと分かっていようが、何故だか実在の人物たちの言やふるまいのそれと当らずとも遠からずのように感じられてしまったのは不思議である。
後世が抱く歴史上の人物たちに対して抱くイメージを定着させた点で、この劇はとてつもない影響力を及ぼしていたことは確かだろう。私も古代ローマに関してさまざまな視点から描かれたいくつかの本を読むまで、シェイクスピア劇を基にしたカエサルとその後の内乱のドラマを見たり学校で英語等の教材として習ったりしていたわけだから、おのずとすり込まれていたのだなと素直に思える。今回の読書は過去の刷り込みがあったがゆえに楽しめたのだろう。また、強大すぎる存在の野心に対して謀反者が大義名分を抱いたり、ちっぽけな存在なりに一大決心をして葛藤を抱えながら行動を起こすものの悲劇的結末に至ってしまうさまに、学校に通っていた頃には感じなかったある種の同情と諦観めいた感情を同時に抱いた。劇中のM・ブルータスや『ハムレット』のハムレットは若い頃に一度、年を食ってからもう一度接するべき登場人物のように思う。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




クルンテープ駅からバスに乗りカオサン通りへ向かった



一番リーズナブルな赤バスで



中華街を通る












夜になって涼しくなると街に人がくりだしてくるようだ



寺院で捧げる花を扱うマーケットか。すごい活気だった。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




特別展 古代ギリシャ-時空を超えた旅-に行ってきた。古代ギリシャ文明の黎明期から古代ローマ時代の網羅した展示は充実したものだった。
スペドス型女性像には以前と同じことを思ってしまった。
日本でまさかアレクサンドロス大王頭部やアリストテレス像を見ることができるとは望外の喜びだった。映像による解説にはアレクサンドロスの父フィリッポス2世がマケドニアに一流の芸術家や学者を招いたこと、息子のアレクサンドロスの家庭教師にアリストテレスを招いたこと、アレクサンドロスは征服した土地にギリシャ風の都市を多く築かせそこにギリシャ人を移住させコイネ(ギリシャ語共通言語)の使用を奨励したことなどが紹介されていた。これらの事項は、習ったり読んだ本のどこかで目にしたことがあったにしても、実感として湧いてこなかったものだが、古今東西の帝国がやろうとしてきた改革のことを考えると、どうしてもマケドニア帝国の功績の展示に目が行ってしまった。
最近、塩野七生著の『ギリシア人の物語1』を読んだり、ギリシャ語には宝石の質量を量る単位のカラットの語源となるものがあるとか、二年前のギリシャがEUによる緊縮財政案を受け入れるか否かの国民投票の際に解説でよく出てきたギリシャの旧貨幣ドラクマとか、思わぬところでなにかとギリシャにルーツを見出せる言葉をよく耳にしたものだが、今回の展示に、紀元前700年頃の「1ドラクマ」の価格に相当する串型オボロス貨6本の展示があり、非常に興味深かった。ドラクマはギリシャ語で「ひとつかみ」という意味だそうで、オボロス貨6本は確かにひとつかみできそうな分量だった。
「テミストクレスの名が刻まれた陶片(オストラコン)」には思わず苦笑した。ギリシャの民主制を象徴する陶片追放の制度で憂き目に遭った指導者でも捲土重来を果たしたというか影響力を保ち続けた人は少なくないが、塩野氏の著書を読んですごい人だなぁと感じたテミストクレスの名を陶片に刻んだ人たちも存在することを思うと、決して英雄一人だけで世界がまわっていたのではないことがわかって、ちょっとホッとした。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




クルンテープ駅(フアラムポーン駅)

クルンテープ駅(7)という記事をアップしたのは昨年の三月とは(笑)








線路側にも下りれるようだが
プラットホーム側で下りた。



到着したのは夕方の6時半前だった。
大きく遅れはしなかったようである。












車内で水を飲みすぎたこともあってトイレに駆け込んだ


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






クラーナハ作品は、画家が絵画工房を立てたこともあり親子でたくさんの作品が残していることもあってか、欧米の大きな有名美術館ではよく見ることができる。
しかし日本でまとまった形で見るとなればそう機会はないのでに足を運んできた。
クラーナハの絵を見ていると同じドイツの画家のホルバインやデューラーの作品の色使いに見えてしまうところがあるけれども、やっぱりクラーナハはクラーナハの作品だなという特徴はあるなと思った。
堂々たるファムファタールぶりでこちらを見据えたサロメとユディトには、くらくらっときそうになった。
「ヘラクレスとオンファレ」は昔愛読したギリシャ神話の解説本に載っていたこともあり、まさか本物を見れるとはと感無量だった。あの腑抜けたヘラクレスの表情に思わず苦笑した。
ほかにもおもしろかったものとしては、クラーナハのともすれば目のやり場に困るアンビバレント(二律背反)な作品や画家としての運命の帰路を思わせる展示の仕方だった。なかでもクラーナハ(父)が宗教改革で有名なマルティン・ルターの肖像を描けたのに対し、ルターの肖像を描くことを熱望していたデューラーはルターの肖像を描くことが叶わず、ルターと対立関係にあった枢機卿アルブレヒト・フォン・ブランデブルク(小)を残すことになったというのは実に興味深い。
展ではクラーナハの影響を受けた現代絵画もいくつか展示されていてそれがなかなかの存在感を放っていたのもよかった。
非常にマニアックな雰囲気の漂う展示でとても充実した時間が過ごせた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




信号待ちの間、ボーッと月を眺める









やっとバンコクの市街地だ



と思ったら、また信号待ち(笑)









クルンテープ駅に到着、長かった(笑)


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




日が完全に沈んだ



信号待ちの間、時間をもてあましたので



やってくる列車を撮ってみたりする

ゆっくりと列車が動き出した。



また信号待ちだ。


線路内に下りて歩く人もいる



クルンテープ駅に着いてしまうより
手前で降りる方が早い人々なのだろう


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ