デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



上田正昭『帰化人―古代国家の成立をめぐって』
…韓国旅行を振り返って聖王のことを調べる手掛かりになった本。短い分量ながら新羅や高句麗や百済から日本にやってきた渡来人が、古代日本にいかなる影響を与えたかよく分かる本だった。

バルガス=リョサ 『ラ・カテドラルでの対話

一青妙 『わたしの台湾・東海岸―「もう一つの台湾」をめぐる旅―』
…台湾の東海岸には日本統治時代の名残や、また太魯閣渓谷などの人々を圧倒する自然があることは知っていたが、東海岸には他にもたくさんの魅力が詰まっていることがよく分かった。また一青妙の家族が昔の台湾と日本に深いつながりがあるとは知らなかった。

水野俊平 『朝鮮王朝を生きた人々』
…韓流ドラマにすぐになりそうな話しばかりで、おもしろかった。いたるところに忠孝という言葉を感じさせる。

砂本文彦 『ソウルの歴史-漢城・京城・ソウル 都市と建築の六〇〇年 』
…弊ブログの韓国旅行の記事を書くにあたり、特に韓屋についての記事を書く上で大いに参考にさせていただいた本。

司馬遷『史記

コリイ・ドクトロウ 『マジックキングダムで落ちぶれて』
…人生のバックアップを若いころの肉体に反映できる事実上の不死の世界において、人間は何を生きがいにするのか?というテーマを扱ったSF作品。不死が当たり前の世界でも人間の性はちっぽけなもので変わらないことを考えさせてくれる傑作だった。

原田マハ『楽園のカンヴァス』
…絵画をめぐるミステリーを読んだのは初めてだったが、ページを繰るのをやめられなくなった。アンリ・ルソーの絵や画家の生涯について少しでも関心のある人にぜひおすすめしたい。

ロバート・A・ハインライン 『月は無慈悲な夜の女王』
…機動戦士ガンダムの世界はこのSF作品を発展させたものだが、月世界と地球との間で起こる出来事はフランス革命やロシア革命のみならずアメリカの西部開拓時代の社会やアメリカの独立戦争を彷彿とさせる。また、すぐれたSFは人類の未来をも予言するものだが、それは作中でも随所にみられて舌を巻いた。

見た映画
「アラベスク」

足を運んだ特別展
「石本正 展」

今年は読書をあまりできませんでしたが、来年もいろいろな作品をぼちぼち手掛けていければと思います。
来年も弊ブログをよろしくお願いいたします。


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バルガス=リョサ(旦 敬介 訳)『ラ・カテドラルでの対話』(上・下、岩波文庫)読了。

読み終えたのは4ヶ月前である。

人はそれぞれに可能な方法で、ペルーから身を守るしかないのだから。

出だし17ページ目の語りかけからガツンときた。なんという絶望だろう。読んでいるうちに、読み終える頃には暗澹たる気持ちになっていそうな予感があったが、読むのをやめられなかった。腐敗した社会の現実を容赦なく描いた作品は読んでいてきついが、下巻の解説で紹介されている、リョサのノーベル文学賞受賞理由の

「権力の諸構造の地図を作成し、個人の抵抗と反乱と敗北を鮮烈な映像で描き出したことによる」

の言葉通りだった。
文芸って読み手の頭にどれほどの映像を「もよおさせる」かで、作品がその読者にとっての衝撃度や評価が決まっていくように最近思う。「もよおす」とは変かもしれないが脳内で生理的に湧き起こってくる映像が豊かで真に迫るものという意味でそう書いたが、読んでいる間に覚える臨場感といっても良いだろう。
『楽園への道』の時にも感じたが、リョサの作品にはアフォリズムや安っぽい現状批判を作中に入れ込んだら傑作小説っぽくなっているじゃないか?などという、あまりにも安易な読者への侮りや作家の自慰は微塵もない。
つまり有名な場面の名台詞やアフォリズムを読者が引用して、作品の全体像として代替させるようなことはできないし、たぶんリョサはそんなことは許さない。
なぜならすべてのエピソードが映像的ゆえ改まった金言や警句の入り込む余地など無いのだ。すべての優れた小説はそうだ、といわれればそれまでだが、この作品も読んだ者しか作品の凄みを感じることはできないだろう。
とはいえ、作品の凄みってどういったもの?と問われると、正直答えに窮する。たぶん、作品の語りの方法が複雑で読者を面食らわせるつくりになっているが、その語りの方法の複雑なところを駆使して、作品が採り上げた時代のペルーを多面的な映像として読者に「もよおさせる」ところが凄みの一つかなと思った。
実は、読んでいて、「この人物の唐突な話題転換がどうしてここで?」みたいなことがしょっちゅうあって、作者のミスかいな?編集者のミスか?などと思った。でもそれは読者に、登場人物たちの過去と現在進行形の現状を映像として反復して捉えるさせるテクニックが用いられているからであって、個人的には時にL・スターンの『トリストラム・シャンディ』や20世紀以降の「意識の流れ」文学の手法もふんだんに取り入れた感じがしていた。
リョサは作品の緒言で

「これまでに書いたすべての作品の中から一冊だけ、火事場から救い出せるのだとしたら、私はこの作品を救い出すだろう」

といっているが、この言葉には実験的な意欲作として作品に心血を注いだ思い出と自負も伴っている気がする。



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大晦日にアップするつもりだった「今年読んだ本(2022)」である。

養老孟司『唯脳論』 ★★★★★
…1989年の時点で「われわれはいまでは脳の中に住んでいる」と、すごいことを言ったものだ。ここ数年、マルクス・ガブリエルの著書を読んでいろいろ難しいことを考えたが、ガブリエルの本の前に『唯脳論』を読んでおいたほうがいい気がする。

延恩株『韓国 近景・遠景』 ★★★★★
…コロナ禍であろうがなかろうが外国に行ける可能性を考えつつ手にした。陰暦での七夕こそが二つの星を見れる本来の季節であることを指摘している点などに、うならされた。

新城道彦,浅羽祐樹,金香男『知りたくなる韓国』 ★★★★★
…メディアが流したりネット上に溢れている韓国の情報だけで、隣国のことを知った気になって紋切り型の韓国観を繰り返してしまいがちな私のような人間にとっては必読だったのかもしれない。著者によって歴史の見方や文にクセがあるが、日韓関係はそう単純に一言では片付けられないこと、私は韓国のことを概観すらしてなかったことを痛感した。

中条省平『NHK「100分de名著」ブックス アルベール・カミュ ペスト: 果てしなき不条理との闘い』 ★★★★★

安部公房『砂の女』 ★★★★★
…NHKの「100分de名著」で採り上げられていたのを見て、すぐに読みたくなった。理屈や建前ばかりが先にきて、社会的評価に興味がない振りをしつつ、自分にとって全くの別世界に放り込まれてなお俗物であることを自覚できない「引き込まれる男」は私そのものではないか(笑)。
それにしても、目を背けたくなる人間の本質を短い分量でこれほどうまく表現している本は決して多くないだろう。

R・サーヴィス『トロツキー(上・下)』 ★★★☆☆
…読了まで結構長い時間を要した。巻末の解説にあるとおり、スターリンの国家運営がソ連にとって良かった面があることを強調する再評価をする研究者ゆえか、たしかに意地悪な書きっぷりに正直辟易した。ただ、トロツキーが自伝から省いたり隠したい面までつっこんで書いていることで、トロツキーも聖人ではなく普通にエゴを持つ人間だったことを浮き彫りにしている点はよいと思う。また、革命以前から革命以後のソ連にとってのユダヤ人問題とはいかなるものであったのかを論じたものを読んだことがなかったので、腫れ物に触りたがらない穏便な本よりは少しくらいは毒にも薬にもなるのかも。

『水滸伝(1)~(5)』 ★★★★★

佐藤信ほか『古代史講義【氏族篇】』 ★★★★★
…古代日本史は、テストに出る回答を丸暗記するような勉強しかしてこなかった私は、またこのシリーズで頭をガツンとやられたように思う。源氏や平氏ってそもそもいつ頃からどこから出てきたのか、清和源氏や桓武平氏の清和や桓武って何なのか?といったことがごっそり抜け落ちていたレベルで読んだこともあり、「なんだそんなこと、天皇の名前じゃん」、「賜姓って意味知ってる?」とか言われて初めてピンときたような感じというか(笑)。大雑把な言い方でなんだが、この本を読んで、天智天皇以降の賜姓貴族が日本を運営してきた、その影響は現代でも脈々と続いている事がよく分かった。また平安期以前の氏族についてもたくさんページが割かれており、その内容は遺跡めぐりをするうえでとても興味深いもので、かつての遷都先だった土地に行くのがより楽しみになってきた。

いま読んでいる本は上田正昭 『帰化人』。

今年も良い本に出会えますように。


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井波律子 訳『水滸伝(1)~(5)』(講談社学術文庫)、読了。

『水滸伝』は、中国五大小説(『三国志演義』『西遊記』『水滸伝』『金瓶梅』『紅楼夢』)の一つである。2月か3月ごろに読み始めて、読了は今月だ(笑)。読書スピードが速い人ならば3週間もあれば全回読みきるだろうが、私は梁山泊の好漢たちが徽宗帝の官軍となってから急に読書スピードが落ちた。だが、南の方臘を征討しに現地に入って以降、再び読書スピードが上がった。
全体として、文庫本の裏表紙に「善悪が渾然一体となる物語」とあるが、まさにそのような物語で非常におもしろかった。梁山泊の好漢たちを生み出すことになった世の中の状態もひどいが、(宋江らがまとめるまでの)好漢たちも好漢たちで、本当にひどい奴らだ(笑)。酒ばかりあおり、人を殺めたり殺されかけたりしても、それに至った事情の詳細が判明すれば即宴会、トラブルがあれば暴力で解決し、とばっちりを受けて殺された民も顧みず問題がとにかく解決したらまた宴会、不運な出来事に見舞われたら他人の財を強奪して山賊に身をかえ、悪業ゆえに刑務所に当るところに入っても袖の下さえ渡せば高待遇でどこにも出かけたい放題、思わぬことで手を汚した主人公の一人も「財を軽んじ義理を重んじて、天下の好漢と交わりを結び、誰もが敬愛するお方」なら幾度と無く訪れるピンチもものの見事に切り抜けてしまい、あげく悪い所業に対してすら(周囲が)理解を示してくれたり、神様の娘娘までその主人公に肩入れしたり、姦通や不倫の場面はほぼ女のキャラが極悪の如く描かれるなど、ろくでもなく且つひどく呆気にとられる話ばかりだが、おもしろい作品というのはこれぐらいじゃないといけない(笑)。
ひどい話も多いのに、梁山泊の好漢たちにはとても感情移入できたし、巧言令色に騙されつづける徽宗帝みたいなのが国のトップでいいのか!?などと思った時は、李逵の言うことのほうがもっともだとも思った。また、宋江も徳のある人物ではあるのだが、正義感の方向が案外少し斜め上っているところがあるし、衝動的で少しおっちょこちょいで義理や筋を通そうとして逆に自ら災いをもたらし仲間たちに迷惑と苦労をかけたり、こんなのが(梁山泊の)トップでいいのか?と何度思ったことか(笑)。
しかし、不思議とこういった人間臭いところがあるのは憎めなかった。特に宋江と、トラブルばかりもたらす李逵は似た者同士で、ラストの場面はある意味そのことを象徴しているかのようにさえ感じたものだ。
作品はまた裁兵の物語でもある。事実、賊臣の察京、童貫、高俅、楊戩の4人は生き残るし、作品の後半は越や漢の時代の「覇業を支えた者たちへの粛清」の故事が生かされていてとてもリアリスティックだ。この点でも、『水滸伝』は単なる荒唐無稽な物語であることを免れているように思う。
あと、いい出したら限がないが、個人的に最も前のめりになったエピソードが二つある。高俅の養子の高衙台が林冲の妻にちょっかいを出し、林冲に妻だと知らされて一旦引き下がるが、高衙台は林冲の妻が忘れられず、高衙台のとりまきが謀って林冲を陥れようとするエピソードと、武松の兄嫁潘金蓮が西門慶と姦通するエピソードの二つだ。とくに後者の潘金蓮と西門慶の姦通のエピソードは抜きん出て面白かった。たしかにこのエピソードは武松が梁山泊に上るまでの逸話として語られるだけではもったいない。この二人の辿る運命のスピンオフ作品(派生作品)が『金瓶梅』だが、派生作品を生み出す力も『水滸伝』は多大に秘めている。もちろん痴情や性的欲望を描いた作品だけでなく、いわゆる何人もの英雄・豪傑・好漢が登場する戦記物で、梁山泊の108人のキャラのテンプレに当てはまらない作品を見つけるのが難しいという意味も含めても、『水滸伝』は今なおさまざまな作品に影響を与え続けているのは間違いない。


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前回の続きである。
まず触れたいのは、以前の訳の『ペスト』と今回の中条氏訳の新訳の『ペスト』とでは、いい意味で違う話のように感じられたことだ。感染症が襲った町を舞台にしたエピソードは同じ内容なのだが、今回の読書では少なくとも何が書いてあるのかようやく分かった気がするのだ。
そのこともあってか、更にここ数年のコロナ禍もあり、『ペスト』にある罹患していようがいまいが市全体が隔離されるという"追放状態"の記述には身につまされるものがあった。大変な時だからこそ人々が協力し合う連帯が必要なのに、実際は単純な連帯すら不可能になり、他人を見れば病原菌扱いどころか、不運にも感染してしまった人に対して抱いた感情におぞましいものも含まれていることもあるのは少し省みるだけで自覚できるだろうことを考えさせられた。
作品の登場人物の中で一番近い考えや性格をしている、つまり私と似ているなと思ったのはランベールかもしれない。国内のワクチン接種が始まる前の緊急事態宣言中、私は「結局は人類全体が感染症に暴露して抗体をつけなけばならないのだから、周囲はどうあれ少なくとも人類側の制度の都合で外出制限で閉じ込められるはまっぴらごめん。国内・海外問わず私の移動の自由を奪うんじゃない。国民に我慢を強要し五輪関係者だけは特別扱いなんて最低だ」と思っていたし、作中のランベールが恋人に会うために非合法に町を脱出しようとする気持ちは痛いほどわかった。
私は、妻と別離している主人公のリューには到底なれないが、ただ、リューがランベールとの会話で言わんとしていることも分かる。ペスト、つまり天災などの抽象的なものは本当にバカげたことで不条理そのものだが、それは思う以上に長続きし、それに対峙するには具体的な効果としては捉え難いかたちの抽象に似なければならないし、それは天災に対して理解を深め普段の自分の仕事を誠実にこなすことで乗り越えるしかない。自分ができることを誠実にこなす態度は本当に熱いものがあり、パヌルー神父の感染症は人類への神の「御心」といった言説に対しても決してぶれない。作品の中でも最も心を打つ登場人物の一人の主張といえよう。
心を打たれた言葉やシーンはたくさんあり、ここですべてを書きたくも到底書き切れないので、中条氏の解説の一節を借りるが、本当に『ペスト』は「カミュの血の滲み出すような切実な本質や作家の経験と感覚的真実があまりに生々しく投影され」た作品であることは間違いないし、それはもちろん登場人物にもきちんと表れている。観念のために死んでいく連中をたくさん見てきたランベール、理念や観念や大義で正当化される死刑宣告というペストの一切を拒否するタルー、「子供たちが苦しめられるように創造されたこの世界を愛するなんて、私は死んでも拒否します」とパヌルーに答えるリューたちの姿はずっと読み継がれていくように思う。

ほか、町で広がる感染症について、まさに現実より形式的な言葉のほうを大切にする官僚主義的な議論をずるずる続ける行政のさまや、作品の多声性や、リューがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に出てくるイワンの大人バージョン、リューはいわば実践的で誠実なイワンじゃないかと思ったこと、タルーとドストエフスキーの『悪霊』のキリーロフとの共通点など、他にも触れたいことはたくさんあるのだが、今回はここまで。


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アルベール・カミュ(中条省平訳)『ペスト』(光文社古典新訳文庫) 、読了。

10年以上前にも再読したが、今回で三度目。こちらに書いている以前の感想を読むと、これを書いたのは誰だ?本当に自分か?と疑ってしまう。そして、何を書いているのか、何を伝えたいのか良く分からないものが放置状態だったのだなと、苦笑してしまう。それでも今回の記事が簡潔で読みやすく且つ伝えたいことがきちんと伝わるようなものになるかどうかは分からないが(笑)。
今回は中条省平著『果てしなき不条理との闘い アルベール・カミュ ペスト』(NHK100分de名著ブックス)を読んでからの読書だった。中条氏によるカミュの略歴を読んで、カミュがこの作品を構想し書き始めたのはナチス・ドイツに対するレジスタンス活動に身を投じる前であって、「ペストはナチス・ドイツの侵攻の暗喩」といった解釈は倒錯した読み方であるということを前提にした読書、というだけでも新鮮味を覚えた。
やっぱり『ペスト』という作品はカミュの幼少から青年期にかけて彼を襲い続けた貧困、青年時代に発症した結核を生涯にわたって治癒と再発をくりかえす不条理、アルジェ・レピュブリカン(共和派アルジェ)紙の新聞記者、ソワール・レピュブリカン(共和派夕刊)紙の編集長の時代に反戦的な論調の記事によって発禁処分となりアルジェリアでの仕事を失いパリに渡り、ナチス・ドイツの占領からフランスが解放されるまでの2年間妻フランシーヌとの別離を余儀なくされたなどの、生身の自分に降りかかった不条理の実体験に裏打ちされていなければ、『ペスト』という作品は書かれなかったし、作品からあふれ出すリアリティや迫力が読者を震撼させることはなかったであろう。



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内田樹編『街場の日韓論』 ★★★★★
…両国とも自国の近現代史については自国民優越主義的かつ自国民にとって都合の悪いことは省みることなく同じことを声高に主張する現状の問題の根本原因がよく分かる本だった。

D・デフォー『ペストの記憶』 ★★★★★

安正孝『ホワイト・バッジ』 ★★★★★

内田樹『映画の構造分析-ハリウッド映画で学べる現代思想』 ★★★☆☆
…読み始めるとその内容にはまり込んで一気に読めた。著書のなかで出てくる映画から現代思想の要素取り出してくるのはおもしろいが、中には周囲に映画と著書の内容の関連性を声高に語ると、結果的に語っている自分の映画に対する直感とそれを説明する哲学用語との間の違和感だけが残ってしまうものもあるように思う。

馬部隆弘『椿井文書―日本最大級の偽文書』 ★★★★★

養老孟司『無思想の発見』 ★★★★★
…まぁ確かに日本のいい意味での強さは一つの思想に固執しない思想に固執しているところかも。

マルクス・ガブリエル『「私」は脳ではない-21世紀のための精神の哲学』 ★★★★★
…人間の自由と尊厳は絶対侵すことはできないことを主張するのに相当苦労していると感じた。これを書いている現在、養老孟司の『唯脳論』を読んでいるが、M・ガブリエルは『唯脳論』を読んでいたらもうちょっとラクにこの本を書けたかもと思ってしまう。

アガサ・クリスティー『アクロイド殺し』 ★★★★★
…展開も結末も知ってはいたが、実際に読んでみるとまた格別な驚きがあった。ものの二日で一気に読めた。

佐藤信編『古代史講義-邪馬台国から平安時代まで』 ★★★★★
佐藤信編『古代史講義(戦乱篇)』 ★★★★★
佐藤信編『古代史講義(宮都篇)』 ★★★★★
…学校で習った古代史ってほんの一部で、何も覚えていないのに等しいことを痛感させられる。それにいわゆる従来の定説というものが発掘の技術の進歩のおかげで、日本史の重大事件の新たなる解釈がなされようとしていることにも触れているので、凝り固まった頭の中をアップデートするには最適だった。コロナ禍で国内の古代遺跡を巡ることが増えてきていることもあり、行きたい場所のきっかけづくりにもさせてもらっている。

水野俊平『韓国の歴史』 ★★★★★
…『街場の日韓論』を読んでから、そういえば古代の朝鮮の歴史って全く知らないことを自覚して手に取った。島国でなく大陸にあって強国と対峙しつづけて国の運営してきたことによって培われた感覚的なものが少しは分かったかもしれない。

マルクス・ガブリエル他『未来への大分岐』 ★★★★★

レイ・ブラッドベリ『華氏451度』 ★★★★★

五木寛之『さらばモスクワ愚連隊』 ★★★★★

五木寛之『蒼ざめた馬を見よ』 ★★★★★

司馬遼太郎『坂の上の雲』 ★★☆☆☆

五木寛之『青年は荒野をめざす』 ★★★★★

三島由紀夫『金閣寺』 ★★★★★

С・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』 ★★★★★

ヘミングウェイ『移動祝祭日』 ★★★★★
こちらの番組で興味を覚えた回想録。どの章もとても楽しく読めるが、特に「スコット・フィッツジェラルド」の章がおもしろかった。そのおかげで『グレート・ギャツビー』をもう一度読もうと決めた。

S・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』 ★★★★★

R・ホワイティング『メジャーリーグ とても信じられない話』 ★★★★★
…10年以上も前の時点での本なのでメジャーリーグのデータ内容は最新のものとはいえないが、アメリカのベースボールの歴史、東部のチームが西部に移っていく過程や、一度は耳にしたことのあるメジャーリーガーの日本ではほとんど知ることのできない豪快にえげつないエピソード、吝嗇な球団運営が生んだ八百長試合の闇、ベースボールと政治がどう絡んでいるか、など興味深い内容が目白押しだった。

ヘミングウェイ『ヘミングウェイ全短編1』 ★★★★★
…この作品もこちらの番組で興味を覚えた。ヘミングウェイのパリ時代の概要を知ってからだと、より味わい深く読める作品ばかりだ。『敗れざる者』が一番心に突き刺さった。

仲尾宏『朝鮮通信使をよみなおす』 ★★★★★
…コロナ禍での国内旅行先で偶然「朝鮮街道」に出くわし、歴史の教科書の補足程度のつもりで読んだら、豊臣秀吉による朝鮮出兵とその撤退、その戦後処理のため、朝鮮王朝が徳川家康の出方を探ったり、対馬藩の経済復旧のために神経をすり減らして両国の間を奔走した人々や、家光の時代以降に幕府の官僚だけでなく民間の人々が朝鮮通信使の人々とさまざまなやりとりがあったことが分かり、とても驚いた。日本国内にはいくつかの朝鮮通信使ゆかりの場所があるが、いずれ遠い九州や美濃路のゆかりの場所にも足を運びたくなった。

越年読書は、ニーチェ『ツァラトゥストラ』、大江健三郎『燃えあがる緑の木』、佐藤信編『古代史講義(氏族篇)』、ほか。『燃えあがる緑の木』はいつになったら読み進められるのだろうか…。

来年も良い本と出会えますように。


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スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー(村上春樹 翻訳ライブラリー)』(中央公論新社)、読了。

実は再読である。初読は別の翻訳者の分である。
個人的な昔話でなんだが、初読の頃の私は、世界が善と悪でくっきりしていて人生が分かりやすく単純なものであると疑わないような年齢で、小説の名作とされているものはことごとく聖人・聖女のようなキャラクターが酷い目に遭う話しとなっており、心の美しい清廉潔白で一途な男女が決してハッピーエンドを迎えず引き裂かれるか破滅することから、そういう結末を迎えるのは背後に世の中の不条理が横たわっているのが最大の原因だと読者に訴え、多くの読者を獲得したものであると真剣に思い込んでいたのである。
そんな頃に『華麗なるギャツビー』を手掛けたが、その動機やきっかけはアメリカ文学の準古典の名作で「有名作品」であるというふれこみに触発されたもので、「『ギャツビー』くらい読んだことはある」と言いたいだけのものだった。細かいことは映画で補完しておけばいいという心もち(結局映画も鑑賞していない)だったし、読書自体ただストーリーを追うだけ、登場人物すら頭の中で整理しない字を追うだけのひどい「読書」だったので、登場人物たちが我がまま放題やりたい放題して不愉快で退屈な作品だなぁ、なんでこれが名作なんだろう?と思ったものだ。ギャツビーとデイジーが聖人・聖女で両想いであるものの不運にも結ばれなかった可哀想な悲劇の目撃証人となる青年の談の何がおもしろくて名作なんだろう?思ったのが昨日の事のように思い出せる。
若い頃の私にとって『華麗なるギャツビー』は登場人物たちの振る舞いがまったく分からなかった作品であり、ある程度の読書体験や親類縁者の間や社会での人付き合いといった社会体験が無いと内容すら理解できなかった作品ではないかとは思う。(ただ、『グレート・ギャツビー』の訳者も「訳者あとがき」で述べているように作品が「本当に正当には評価されてこなかった」のは、これまでの翻訳が「違う話みたいに思える」せいもあった可能性も僅かにはあるかも(笑))

それはさておき、今月に入ってヘミングウェイの『移動祝祭日』所収の「スコット・フィッツジェラルド」の章を読んでからは、俄然フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』に興味を覚え、次に読む予定の本を後回しにして作品を手に取った。
今回は、数日で一気に読めた。私の勝手な印象だが短い形に洗練された『モンテ・クリスト伯』『アンナ・カレーニナ』『カラマーゾフの兄弟』や『失われた時を求めて』みたいだと思った。なんというか完全無欠で隙がないにもかかわらず登場人物や話しの展開に中性的なものがなく、話しが取り繕ったような飾る事もなければ理屈っぽくない、創作上の無理やり感をうまくそぎ落としたように思ったのだ。
これだけ完璧な作品を見せ付けられると、どこかしら穴が無いのか?と粗探しをしたくなったほどだ。個人的に誤植か脱字ではないのか?と思った個所に付箋を貼ったが、後で調べると私が言葉の読み方や語句の意味を知らなかったり、通常なら漢字で表されるものをひらがなにしてあるだけだったので、そのような悪あがきも何の意味もなさなかった。逆に穴を探そうとしたことで、最初から第3章まで読み返すことになり、作品の隙のなさや緻密さがより一層分かるようになったので、かえって舌を巻くことになった。それが昂じて、登場人物たちの過去を整理するうえで代表として以下のようなデイジーの年表まで作ってしまったほどだ。

5年前(1917年)の秋デイジーは18歳になったばかりで、ジョーダン・ベイカーは16歳。デイジーがジェイと関係を持った年でもあり、彼女がこの年の冬に出征するジェイを見送るためNYに出奔しようとする騒ぎを起す。
1918年、ジョーダンにもとりまきが現れ、ゴルフでプレーするようになる。この年の秋はまた、デイジーがもう「傷心」も癒えたかのように明るく振舞うようになった時期で、協定後(第一次世界大戦の休戦協定は同年11月11日)にデイジーが社交界デビュー。
1919年6月にトム・ブキャナンと結婚。いろいろな意味で彼女は大泣きする。3ヶ月の新婚旅行(初夜は6月であろう)に出発する。(8月末までに)帰ってきたら、トムにぞっこんになっている。
1920年4月娘を出産。それから翌年4月までフランスで過ごす。
1921年の4月中か5月?に帰国してシカゴで過ごす。デイジーはシカゴで若い金持ちの若者と付き合い遊びまわるちやほやされることに充実感?を覚える性格は変わらない。
1922年にイースト・エッグにトムと住む。デイジーは(秋に)23歳になる。同時に2歳児の母でもある。同年、ウェスト・エッグにニックが移って来る。ひと夏の(物語の)始まり。

作品で描かれる内容はやっぱり正直不愉快なものであって、読んでいて気持ちのいいものではない。だが、ひと夏の間に起こったこと、出来事を引き起こす登場人物たちの性格や感情の動きや衝動・行動は、あまりにもリアルで活き活きとしていると思ったし、不愉快にもかかわらず唸らされるというか続きが気になって仕方が無くなる力が作品に満ちている。また、語り手ニックが関わった事や当時のことを想起しての思いなしというか感懐は、アメリカのなかに存在する社会構造や階級意識や現代史の表面からは見えづらい面を浮き彫りにしているようにも思えた。
具体的に登場人物たち一人ひとりについて考察すると限がないので、年表を作ってしまったデイジーとジェイについて少し書くと、デイジーの気持ちの移り変わりは目まぐるしいものがあると思った。男女関係において彼女にも「その時だけは本気」という時期こそあるが社交界の自分の立場を捨て去るほどの決断力はもっていなく、一途とはいえないなかにある意味現状維持という名の美徳への身の振り方に落ち着くような現実主義的面がある。それでいて純なところと不実なようでそうではないギリギリのところを併せ持っている。そんな彼女に惹かれるのはジェイだけではなかったろう。多くの男を群がらせイチコロにしてしまうタイプの女の像を、本当に巧く描いているように思う。物語の冒頭で、「つらい目に遭った」だの「世の中ひどいことばかり」だのとのたまうデイジーのことを語り手でもあるニックは不誠実と断じるが、無自覚に男からの愛情を無碍にあつかってきたことを棚に上げてどの口が言うかと思えど、当人の前では決して言えない雰囲気が感じ取れそうだ。
結局のところ、決して一途とはいえなくも相手が誰であれ自然な振る舞いとして優しく魅力的な声を掛けることのできる八方美人女に男は惹かれるという典型例で、ジェイが5年前の感情を延々と引き摺り続け、数年掛けて胡散臭い教養や財を蓄えてなお過去を取り戻そう、彼女を振り向かせようと純情がいきすぎて痛々しい振る舞いに至ってしまったことについて少しくらいは共感できる人もいるのではないか。
あと、感心したのは設定としてデイジーの夫トムをミセス・ウィルソンとの不倫関係に置いたことだ。フィッツジェラルドの妻の浮気相手のパイロットに該当するようなジェイを創作しただけでなく、この不倫関係を組み込んだのは作家にとってみれば会心のひらめきだったように思えてならない。ドストエフスキーもジョイスもプルーストも私生活において辛すぎたり他人に迷惑を掛け倒したことを作品に昇華することが巧いが、フィッツジェラルドもまさにこの並大抵のメンタルではできないことをやってのけた点で、アメリカ文学の金字塔を打ち立てたといっても過言ではあるまい。


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三島由紀夫『金閣寺』(新潮社、決定版三島由紀夫全集6)読了。

8月と9月、お盆その他でいろいろとあったのもあるが、弊ブログの更新頻度が著しく低下したのは『金閣寺』とС・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』をこの二か月の間に読んで自分なりの沈思黙考状態に陥ってしまったというのも大きい。
両作品とも扱われている時代が第二次大戦の時期であり、内容について考えれば考える程、時代の異なる小谷城跡やその他の古戦場跡にまつわる、いわゆる「戦」について触れることにも億劫になったり二の足を踏むようになってしまった。
さて三島由紀夫の『金閣寺』だが、金閣を燃やすまでの主人公の内面の動きの描写の見事さに目を見張るが、主人公に直接的にも間接的にも影響を与える登場人物の中に軍の関係者がいることにどうしても目が行った。海軍を逃げ出して女と山中にこもり射殺される軍人、南禅寺の傍で女と今生の別れの儀式を行う軍人、戦争が終わり(新しい時代が邪(よこし)まな心の人々で始まると主人公が考えるうえでの象徴的な)工場の物資をトラック一杯に積み込んで闇でさばこうとする士官、この3人の軍関係者を登場させた作者の冷徹なまなざしを意外に思ったのだ。
というのは私はほとんど三島作品を読んだことが無く、三島由紀夫といえば陸上自衛隊市ケ谷駐屯地に乱入しクーデターを呼びかけて自刃して果てた三島事件の映像の印象が余りに強かったのだ。戦中と戦後に見られた闇の部分について短い作品の中できちんと触れていることへの純粋な驚きとともに、三島事件だけで作家のことを断定する形で論じるなどもってのほかだと反省した次第だ。
『金閣寺』で描かれる「短い単純な生涯の中」にはさまざまなことが盛り込まれていることは言うに及ばずだが、なんらかの決意をするまでの物語という点で私はプルーストの『失われた時を求めて』と似ているように思った。人の生涯を勝ち負けやそれこそ断定したレッテルで短く評してしまいがちな世の中にあって、人の内面を見つめるのに最適な作品の一つとして『金閣寺』を読む価値は十分にある。


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スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(三浦みどり訳)『戦争は女の顔をしていない』(岩波現代文庫)、読了。

傷痍軍人が帰国後に受けた仕打ちを描いた映画で子どもの頃に衝撃を受けた作品としてS・スタローン主演「ランボー」がある。また最近、紛争地域や戦地での凄惨な体験を綴った本で印象深いのは旗手啓介『告白 あるPKO隊員の死・23年目の真実』、安正孝(アン・ジョンヒョ)『ホワイト・バッジ』があるのだが、アレクシエーヴィチが"小さき人々"から聞き取った第二次大戦の証言文学『戦争は女の顔をしていない』に収録された内容は、上に挙げた映画や本と共通するところも少なくないものの、それでいてまるで異なるような、誤解を恐れずに書けば多くの人にとって新たな衝撃を与えるものだろう。
第二次大戦中の独ソ戦ではソ連から100万人以上の女性兵士が従軍していたこと、看護や食事を供給する後方部隊の役割の兵士だけでなく、最前線で実際に戦闘行為を行った女性兵士たちの証言が収められているのが『戦争は女の顔をしていない』であることにまず驚いた。ソビエト時代、この本の内容が戦勝国の物語としてふさわしくないとしてペレストロイカが進むまで出版はされなかった。それは戦争について男の英雄譚的な視点からしか語られてこなかったことを意味しているといえるが、作品に出てくる女性兵士や女性レジスタンス、女性パルチザンの目を通して見ると、やっぱりこれまで戦争が男視点からしか、つまりは女性視点からのもう半分の戦争は語られてこなかったともいえる。
具体的内容についての感想を書くことは正直厳しい。何を書いても私の書く物は薄っぺらい内容になってしまうように思う。私がいうのもなんだが、証言には戦時中の日本と酷似している内容も多く、16~20歳の年齢で前線に志願して行った女性兵士の心情であり信条として「国と私は一心同体」であったこと「自分は不死身だと思っていた」こと、戦地で負った傷だけでなく、帰郷してから負う傷のあらゆる生々しいエピソード、それらを、およそこの現代に情報が溢れているなか却って戦争のことを軽んじロマンティックにさえ描くような夢想にしか接しない人々にぜひ読んでいただきたいものだ。


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