デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



とりあえず読了できた本。
・『古代仕事大全』ヴィッキー・レオン  ★★★★★
・『崩御と即位』保阪正康  ★★★★★
・『ヨゼフとその兄弟たち』トーマス・マン  ★★★★★
・『古代ローマ人の24時間』アルベルト・アンジェラ ★★★★★
・『大ピラミッドの秘密』ボブ・ブライアー/ジャン=ピエール・ウーダン ★★★★★
・『ユベール・ロベール~時間の庭~』  ★★★★★
・『ピラネージの黒い脳髄』M・ユルスナール  ★★★★★
・『人間にとって科学とはなにか』湯川 秀樹, 梅棹 忠夫  ★★★★★
・『伝奇集』ボルヘス  ★★★★★
・『エル・アレフ』ボルヘス  ★★★★★
・『砂の本』ボルヘス  ★★★★★
・『ボルヘス、文学を語る―詩的なるものをめぐって』ボルヘス  ★★★★☆
・『汚辱の世界史』ボルヘス  ★★★★★
・『女はなぜ突然怒り出すのか?』姫野友美  ★★★★☆
・『ダークヒストリー3 図説ローマ皇帝史』マイケル・ケリガン ★☆☆☆☆
・『緋文字』N・ホーソーン  ★★★★☆
・『プルーストと絵画』吉川一義  ★★★★★
・『静かなドン』М・ショーロホフ ★★★★★
・『パルムの僧院』スタンダール ★★☆☆☆
・『アンネの日記』アンネ・フランク  ★★★★★
・『日中国交正常化- 田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦』服部龍二 ★☆☆☆☆
・『パリのパサージュ』鹿島茂  ★★★★★

越年読書『ブリキの太鼓』G・グラス


見た映画、
・『戦場のレクイエム』  ★★☆☆☆
・『フルメタル・ジャケット』  ★★★☆☆
・『パピヨン』  ★★★☆☆
・『甘い生活』  ★★★★★
・『スパイダー』  ★☆☆☆☆
・『ノックは無用』  ★★★★★
・『サラエボの花』  ★★★★★
・『テルマエ・ロマエ』   ★★★☆☆

各々の作品に一言ずつ付すつもりであったが、面倒くさくなったので★の数で評価。何かの折に感想を書いてなかった作品について触れるかもしれない。それにしても、ここ数年、映画を見る量がガクンと減ったなぁ。

来年もいい本、いい映画に出会えますように。

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年末というのもあって、これまで書こうと思ったものの「草稿」のまま放置している記事が数年前のも含めていくつかあるのを整理した。それらの記事は、バンドで地域の祭りに出演したものや、川岸で一期一会の楽器の練習をしたこと、いきなりプロポーズすることになった原因は手荷物検査という珍ニュースに関するもの、地方の映画館の画像を紹介しようとしたもの、映画「バージニア・ウルフなんかこわくない」の感想の書きかけ、ほかなどだったのだが、そのなかに、

13日の金曜日に世界の終末を思う 2012年でおしまいって本当?(gooニュース・ひまだね英語) - goo ニュース

について自分なりに書こうと思っていたものがあった。この記事自体は2009年11月13日(金)にアップされたものだが、先週のあの騒ぎよりも三年以上も前に「終末論」のことについて触れている(笑)。幸いこの記事は今も読むことができるので、当時の映画のことを思い出される方もいるのでは?と思う。
日本では今年の12月に入ってから9割以上ネタで「終末」さわぎを見ていた人だと思う。しかし、先週にはセルビアのベオグラード東250kmの山のホテルに法外な値段で泊まっていた人も世界のどこかにはいるのである。
ミレニアムのときもそうだったが、この種の現象は人間が終末論を信じたり、リセットをしたい願望を持っている限り定期的に起こるようである。それにしても、「終末」をそのホテルで過ごした人はどうしているのであろうか。中には新たな宗教に目覚めた人もいるかもしれない。

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「バーソロミューさん、助けて!」のイメージで…

パレ・ロワイヤルと聞いて映画「シャレード」(1963)のクライマックス場面を思い浮かべる人もいるだろう。パレ・ロワイヤルにある回廊は撮影のロケ地でもある。
私が行ったときにはたぶんここで撮影したであろうと思われる柱廊のあたりが全体にわたって改修工事中で、柱と柱の間に工事のための板が立てられていた。


遠めに見ても工事のための板があるのがわかる…。



中庭は町の憩いの場である










映画のロケ地を見たいという気持ちもあったが、奇しくもそのロケ地、工事用の板で回廊でなくなっていた場所、パリのパサージュのプロトタイプとなった場所が私の目的の場所でもあった。

では、パレ・ロワイヤルについて前回のつづきを書いていこう。
ルイ14世の弟フィリップ1世(オルレアン公)が住んで以降、パレ・ロワイヤルは代々オルレアン家の当主が住むようになった。
そのオルレアン家の五代目のフィリップ・ドルレアンが当主のとき、彼の極端な浪費癖で五代目フィリップは借金で首が回らなくなってしまう。彼はパレ・ロワイヤルを手放すか破産かの瀬戸際に立たされるが、そのとき彼に妙案が浮かんだ。
彼はパレ・ロワイヤルの中庭を改装し、そこに回廊式ショッピング・センターと分譲住宅を建設し、区画ごとに売り出したのである。

(つづく予定)

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パレ・ロワイヤルの北側の入口(右上にコレットのプレートがある)

ルーヴル宮の北側にパレ・ロワイヤル(王宮)がある。
ガイドブックにある内容にさらに付け加えるならば、かつてシャルル5世の所領であった土地を、ルイ13世の宰相リシュリュー枢機卿が購入し、1624年から1629年にかけて広大な庭園を含む邸宅を建築家ルメルシエに建てさせたことが、パレ・ロワイヤルの前身である。その頃はパレ・カルディナル(枢機卿の宮殿)と呼ばれていた。リシュリューが1642年の死に際し、邸宅を王家に遺贈してから、パレ・ロワイヤルと呼ばれるようになった。


遠足で訪れていた子供たちが整列している横で鳥が飛び立った。



前進



作家のコレットがこの庭の端で最後の年を過ごした、所でもある。

以後、宮殿は王妃アンヌ・ドートリッシュとその二人の息子(ルイ14世とフィリップ・ドルレアン)の所有となる。ルイ14世がヴェルサイユ宮殿を建設し、完成と同時に首都も移したことで、パレ・ロワイヤルは弟のフィリップ1世(オルレアン公)が住むことになったが、この後のパレ・ロワイヤルについてはまた次回。

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ベルニーニ作「トリトーネの噴水」

昨日、ローマのことを思い出したこともあって、今回も少しだがローマのことを書きたくなった。
ローマ教皇を輩出した家の一つにバルベリーニ家があるが、そのバルベリーニの名の付いた広場にトリトーネの噴水があって、そこは有名観光スポットの一つである。
作者のジャン・ロレンツォ・ベルニーニと教皇との関係は深いがそのことは別の機会に触れるとして、私のなかでのトリトーネの噴水は、アンデルセンの『即興詩人』で主人公アントニオが夜この噴水の前で即興詩人の芸に心打たれて、いつかは自分も即興詩人として身を立てたいと思う場面に登場した噴水である印象が強かった。
実際にバルベリーニ広場に立って、トリトーネの噴水を見たとき、アンデルセンの願望が投影された小説の舞台に立てたことに感動した。そして19世紀前半のバルベリーニ広場はどんなに暗く、もしそこで即興詩人が演じていたりしたのなら、一つの(火の?)照明でどんな姿の映えかたをしたのだろう、しかし今のバルベリーニ広場は複数の通りがさしていて車が絶えないし、また噴水の音もけっこう大きくて、この前で楽器を奏でながらのパフォーマンスは厳しいだろうとも思った(笑)。


ホテルの名前までベルニーニ(笑)


***

後日ネットで調べると、トリトーネとは半人半魚の姿をした海神で、ウソつきは噛まれるという言い伝えがあるとのことだ。ちなみにあの真実の口も海神トリトーネだそうだ。

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ローマのバス停。ボルゲーゼ公園、とある。


ローマの教会には、一旦13時で閉まり、16時からまた開く、というものもある。行きたい教会が閉まっている時間帯は町のあちこちにある遺跡を丁寧に見てもいいし、近くに美術館があるなら入るのもいい。
私はその時間帯に予約の必要なボルゲーゼ美術館に行くため、パンテオンの南の通りからバスの116番に乗ってボルゲーゼ美術館に向かった。
このバスはローマの町の隘路を縫うように走ってくれて、町の生活臭のするに光景が飛び込んでくるので好きなのだ。



ずっと行けばボルゲーゼ美術館

 



ボルゲーゼ美術館前のバス停

 



ボルゲーゼ公園は緑豊かで運動する人も多い

 



ボルゲーゼ美術館


美術館のカウンターの髭をたくわえた男性は入場料8.5ユーロのチケットに私が50ユーロ札を出したので、「細かいのは無いのか? クレジットカードは無いのか?」とか散々たずねてきた。私は正直なところ細かいお金がほしいためもあって、あえて50ユーロ札をぶっぱなしたわけで、こっちも「これしかないのだ!」と言い張った。カウンターの男性は半分呆れ顔で仕方ねえなぁといったようなイタリア語でぶつぶつ言いながら、41.5ユーロのお釣りとチケットをくれた。互いにグラッツェの一言すらないまま、予約日時の確認を終えた(笑)。
その帰り、美術館前のバス停から再び116番に乗った。一旦バルベリーニ広場の手前で時間調整?のためにバスはしばらく止まった。そこで男女の日本人観光客と隣り合わせに座った。
町の中の道を聞かれたことがきっかけで言葉を交わした。なんでも新婚旅行を兼ねたイタリアを北から南(ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマ)へ列車とバス?で横断するツアーに参加し、最後の都市がローマで自由時間とのことだった。
この時の旅も一人旅で、私はバスの中で聞く日本語にとても安堵感を覚えたのだった。新婚さんの二人は外国旅行自体初めてで、そのエキサイティングな気持ちになっている様子がとてもよく伝わってきたものだ。ヴェネツィアは意外と移動に苦労したこと、ゴンドラに乗って運河を航行したときに感じる風を切る音まで、そのお二人の言葉からは感じられるかのようだった。ヴェネツィアに比べるとローマは便利だが、いかんせん町の方向感覚がつかみづらいとも(笑)。
お二人が感じているその気持ちは本当に大事で、できることならその気持ちに戻って私も旅をしたいと不可能なことだが思った。116番に乗ったが当初行きたい方向と逆に行ってしまったとおっしゃっていたが、バスは合っているし循環するのでそのまま乗っていれば大丈夫であることが分かれば安心された様子だった。そしてお二人からローマに来た目的を訊ねられ、私は「ローマ人の物語」の内容とバスの中から見れる遺跡を関連付け、熱く語りだしてしまった。お二人はナヴォーナ広場まで、私はサンティニャツィオ教会までと、行きたい場所は別々だったが、私はお二人との話に夢中になりマルクス・アウレリウスの記念柱の傍を通ってもなお下車せず、ナヴォーナ広場のすぐ傍まで一緒に乗っていってしまった。



ナヴォーナ広場の傍でお二人と別れるとき、たった数十分の邂逅であったにもかかわらず、非常に名残惜しい気持ちになった。ナヴォーナ広場からサンティニャツィオ教会まで歩いて10分程度しか掛からないこと、またパンテオンともさほど離れていないことを伝え「最後までよい旅を」とお二人とがっちり握手して別れた。私という存在は、お二人にとって短い自由時間がより充実するための一要素であったろうか。私にとっては最良の思い出の一つでありつづけているお二人との邂逅であった。



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レンブラント「イサクとリベカに扮した夫婦の肖像」(1663-1665年頃)


ゴッホがその前に座り込んでしまい、「これは私の心からの気持だが、食事はパン一切れだけでいいから二週間この絵の前に坐り続けていられるものなら、私は自分の寿命が十年縮んでもいい。」と友人に語ったというレンブラントの絵画、通称「ユダヤの花嫁」(「イサクとリベカに扮した夫婦の肖像」)。
アムステルダム国立美術館所蔵のこの絵は通称「ユダヤの花嫁」で知られているが、これは19世紀末になってから、17世紀オランダ人と違う衣裳を着た男女の姿を、娘を嫁がせるユダヤ人の父と誤解されたことからきている。また「イサクとリベカに扮した夫婦の肖像」と紹介している本もあれば単に「イサクとリベカ」としている本もある。
イサクとリベカは、旧約聖書に出てくるヤコブとエサウの両親である。聖書に出てくる人物たちの享年や結婚の時の夫婦年齢差については、つっこみだすときりがないので控えるが、少なくともレンブラントの描くイサクの年の取りようは納得できるように思った。
しかしそういったことよりもこの絵のすばらしいところは夫婦が鑑賞者(画家の視線)を意識することなく、夫が妻の身体を気遣っている保護の状態を描いているところから感じられる愛情だろう。夫の右手は妻の左胸部を支え、妻の方も夫の保護の身振りに手を沿わせて応じている。また互いに見つめあわずとも、身を寄せ合っているポーズも、言葉による会話でなく、動作でもって二人は通じ合っていることを印象づけているように思った。
解説本の表現を借りれば「はっきりした輪郭線や明確な肉付けを欠いた曖昧な目鼻立ちの描写が深い人間味を与えている.顔に用いられた,絵の具層の重なりや縁を揃えぬ筆触がゆらめくような効果を生み出しつつ、表情描写の可能性の豊かさを教えてくれる.」(マリエット・ヴェステルマン著/高橋達史訳『レンブラント』(岩波書店))とあるのだが、これは19世紀後半の近代絵画の特徴であるように思う。顔だけを見るとマネの初期の肖像画のように見えないこともない?(笑)。
夫妻の顔の部分の絵の具層はそこまで気づかなかったが、この「イサクとリベカに扮した夫婦の肖像」で、厚いなぁと思ったのは夫の右袖の部分の色使い(加えて光の当て方)と絵の具の層だった。



妻が赤い衣服を着ているのにもかかわらず、夫の右腕のこの立体感である。妻を護ろうとする夫の腕が頼りがいがあるように見えるのは、この絵具の厚みによるものじゃないかな、と思った。これによって夫妻の体が画面の奥に位置して見えるし、画面全体の三次元効果を演出しているのは間違いないだろう。
ゴッホがこの絵の前に座り込んで目にしたものにこの絵具の層もあったろう。ゴッホが受けた影響は絵の美しさだけではなかったのかもしれないと、にわか学習ながら絵をいろんな角度から見て思ったものだった。



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ラムセス三世の石棺(ルーヴル博物館)

http://www.cnn.co.jp/fringe/35025965.html
http://www.47news.jp/CN/201212/CN2012121901000837.html
先日、いくつかのサイトで紀元前12世紀のエジプトのファラオ・ラムセス三世が暗殺された可能性が高いと、CTを使って行なわれた調査によって明らかにされたことが載っていた。
ルーヴルでの思い出には、ラムセス三世の石棺の重さが18トンであることに驚いたこともある。石棺には死後の世界に旅立つ者のための「門の書」と「秘密の家の書」から文章が刻まれているのだが、もうちょっと横の角度からも撮っておけばよかった(笑)。



ギザのピラミッドのクフ王の間に用いられている石もとんでもない重量だが、古代エジプト人の石を手なずける技術力には本当に脱帽するしかないと思ったものだった。

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ユベール・ロベール「ニームのメゾン・ガレ、円形闘技場、マーニュ塔」(1787)、ルーヴル美術館

一昨日のファン・デル・ヘイデン「アムステルダムのヘレンフラハト」の記事を書いたこともあってか、"カプリッチョ"という言葉を思い出した。
カプリッチョってなんかお菓子みたいな響きだが、アルファベットではCapriceと書き、意味は奇想画、自由に創案された画題(虚構の場景の中の建築の廃墟や風景)のことを言う。より具体的には現実の建物・廃墟・場所と想像上の建物・廃墟・場所を巧みに混成させた絵がカプリッチョである。


ニームの「メゾン・ガレ」

フランス南部のニームの「メゾン・ガレ」の画像を見れば、ロベールの絵がカプリッチョであることは一目瞭然である。どう見ても背景に円形闘技場やマーニュ塔は見ることができない(笑)。ちなみに現地ではマーニュ塔は絵とは反対の方向に立っている。
カプリッチョをたくさん描いたのはジョヴァンニ・パオロ・パンニーニ(1691-1765)である。彼のカプリッチョはイタリアの廃墟を背景にした作品が多いが、ユベール・ロベールもパンニーニから教えを受けた一人であった。ロベールもカプリッチョの作品を多く残していて、冒頭の画像の「ニームのメゾン・ガレ、円形闘技場、マーニュ塔」もその一つである。(メゾン・ガレというのは、紀元5年頃に建てられた古代ローマ時代の遺跡である。)
古代ローマの遺跡が三つも一つの画面に描かれていると、古代ローマのすごさを表現したかったんだなぁと分かるのだが、冒頭の絵に関しては円形闘技場も個性の強い主役級の遺跡ゆえか、ちょっとこってりしているように感じる。ロベールも、作品によっては遺跡の配置に頭を悩ませたままの状態で、カンバス上で混成させてしまったものもあるのではないかと思った。

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パリのアレクサンドル・ネフスキー寺院(ロシア正教会)

短い滞在期間しかない旅行では、ほとんどの人が自分の行きたい所の優先順位をある程度つけていることと思うが、最優先にしていた所が幻滅に終わることもあれば、当初「行ければ足を運んでみてもいいか」というような優先順位では2位としていた所が旅で最も印象に残る場所になることがある。


十字架(八端十字架)を見ると正教のもの、と分かる

凱旋門から地下鉄M2のテルヌ駅からほど近いダリュー通り(Rue Daru)にパリのロシア正教会がある。名称は、Cathédrale Saint-Alexandre-Nevsky(聖アレクサンドル・ネフスキー寺院、リンク先はロシア語)というが、現地では「ロシアン・オーソドクス・チャーチ」と英語で訊ねてもたどり着けるだろう。
この聖堂を訪ねたかった理由は、こちらで少し触れているアンドレイ・タルコフスキー監督の葬儀が営まれたロシア正教会だからである。しかし、現地では行けたら行きたい教会、という程度の気持ちしか私は持っていなかった。その主な理由として、美術館や博物館などをハシゴして体力的にどうなってるか分からないこともあるし、また行ったところで信者以外お断りということも可能性としては残るし、そもそも開いているかも分からないことなどを挙げられるように思う。
この日はパリの郊外に足を運び、雨の中、オートゥイユ墓地、モンマルトル墓地、オランジュリー美術館、チュイルリー公園、ルーヴル美術館、オルセー美術館、ギャルリ・ヴェロ=ドダ、と歩き回り、その後19:00になってなお凱旋門を見たあとにロシア正教会に歩いて行ったのだった。地下鉄に乗って行ってもよかったが、もしそうするとホテルに帰ってしまいそうになるかもしれなかったら、あえて歩いて行ったように思う。歩きながらのテンションもやばかった。


寺院の中の様子(絵葉書より)










ロシア正教会までくると、聖堂をバックにして写真を撮る人がいて、有名な教会なのか?と少し思った。入れるかどうか不安なまま扉に手をかけ、入った瞬間、来てよかったと思った。中から男女混声の歌声が聞こえてきたからであった。
その日は土曜日だった。聖堂では夕方から始まる祈祷が荘厳に営まれていた。茶色をベースに黄金で照らされたような壁面やドームに描かれた絢爛たる天使や預言者たち、捧げられたロウソクの火に照らされるイコン、聖障(イコノスタス)の開かれた王門の奥の聖所(内陣)に描かれた肘から上の両手を開けているイエス、祈祷の訪れた信者に満遍なく与えられる振り香炉の煙、祈祷の間中、あたかも間断がないかのような調和と崇高さを感じさせる美しすぎる歌の旋律(歌うこと自体が祈祷)と心の琴線に触れる歌声、奉神礼で行なわれているすべてのことが私の涙腺をガタガタにし崩壊させた。言葉は分からないものの、これが法悦、今この瞬間にこの宗教儀式に立ち会うことが、この旅行最大の収穫・喜び、なんという貴重な瞬間の連続、この美しさを身体いっぱいに体感できているこの瞬間に死にたいとさえ思った。疲労困憊時に起こりがちな一種の恍惚状態とはいえ不謹慎といわれればそうなのだが。
聖堂に着いたときの精神的興奮が少し冷めて、香炉の煙にお辞儀をしながら司祭や聖職者たち、歌っている教会関係者や信者たち、一心に祈る信者の様子をうかがった。ロシア正教会の聖堂内では男性は脱帽し、女性はプラトークやフードなどで頭部を覆わねばならないとされているが、ここでの女性信者のなかには頭部を覆わない人もいてなんかお国柄を感じさせた。頭部を覆ってないからといって怒り出したりする人もいなかったし、覆ってなくとも神秘的な儀式の妨げにはならない、と泰然としているように思った。その雰囲気には好感が持てた。
当時はソ連だったが、故郷に帰れなかったタルコフスキーは、政治に翻弄された結果とはいえこのロシア正教会で葬儀をしてもらってよかったのではないか、と勝手ながら思いつつ、ただただ聖堂内に響く歌声に聞き入っていた。
聖堂内には1時間以上いたような感覚になったが、実際には40分程度儀式にいた。私以外に観光客らしき人はいなかったが、遠慮がちにロウソクや絵葉書を買おうとしている私の姿を見た、体の大きい立派な髭を蓄えた信者の男性が、厚い表情でスペースを空けてくれて、「Welcome」といったような言葉をかけてくれたりした。観光客を目にしただけで迷惑そうな表情をする人はいなかったように思う。いろいろな、ささやかなことがうれしかった。


聖堂を出たあとに

体の疲労のことなど忘れて聖堂を出、地下鉄M2のテルヌ駅に向かった。その途中にあった花屋を見て、改めて聖堂に行ってよかったと思ったのを覚えている。冒頭と同じことをくりかえすが、旅行計画では二の次、間に合わねば諦めのつく場所、しかしそういった所が旅で最も思い出深くなる体験をしたり、印象に残る光景を目にすることができる貴重な場所になることがあるものだ。あの時、あの場所に足を運んで本当によかったと思う。

 ***

「ロシア正教会」で歌われる曲は動画サイトでも見ることができるが、幸いにもパリのロシア正教会の祈祷を録画した動画もあったりするのである。こちらはパリのロシア正教会そのものである。また私が現地で聞いた祈祷の歌に最も近いのではないか、と思えたものがこちら。よかったらご視聴ください。

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