デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



市の商業施設?の屋上から












このあと姫路城のとなりの好古園に向かった


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昼から好天になり、午後もう一度見学したくなったが時間的なものもあり、また別の機会にすることにした。次は今回いけなかった西の丸にも入ろうと思う。

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画像のとおり、宿のシャワーの給湯器は日本製だった。なので使い方も分かりやすかった。
この給湯器を見たときに思ったのは日本はタイ向け円借款がけっこう多く、タイの都市開発やインフラには円借款が大きな役割を果たしていることだった。

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今回の再鑑賞では、どういうわけかいろいろなことを考えてしまい、知らぬ間に時間が経ってしまう。なので考えたことの備忘録のようなものを書いておこう。

この作品は、あくまで身体が病気で蝕まれているロシア人の作家がイタリアの地にて、ロシアへのノスタルジーと記憶の断片の想起に苦しむ物語である、ということ。

映画は神秘主義的なものを鑑賞者に与えることがあるかもだが、いくつかの場面を除いて神秘的なものは鑑賞者が自身の中でつくりだしてしまう一印象にすぎないのかもしれない。

廃屋の雨漏りや水たまり、廃墟の中で白い彫刻の上を澄んだ水が流れたりする場面は、たぶん美術的効果を追求したものに過ぎないのだろうが、しかしそういったモチーフによってつくりだされたものが鑑賞者をさまざまな解釈を試みようとさせるものになってしまうのは不思議だ。

ホテルにチェックインして部屋に入ったアンドレイがベッドに腰を掛けたら画面が暗くなり、ロシアにいる妻が妊娠している頃の姿が映し出されるが、あの場面はフランチェスカの「出産の聖母」を見なかったこととは関係なく、ベッドに腰を下ろした動作によってアンドレイに記憶の間歇が起こったことの表現ではないかと思う。つまりアンドレイのイタリアの片田舎のベッドに腰を掛ける動作は、彼がロシアにいる頃、妊娠している妻が仰向けに寝ているベッドの淵に彼が何げなく腰を掛けた動作を彷彿とさせ、無意識下に沈んでいた記憶を呼び起こさせるものだったと解釈したくなった。まるでプルーストの小説のように。さらに想像を膨らませるなら、ひょっとするとロシアでのベッドに腰を下ろした日には雨が降っていたのかもしれない。

多くの人にとって頭がおかしいを感じられる行為や言動を宗教生み出すことになった人々は臆面無く行った。釈尊は苦行を自ら行い餓死しかけたし、キリストは40日間岩穴に籠って試す者と対峙してから新たな真理を説く活動家になったがその教えは周囲との摩擦を生み出し混乱をもたらした。ドン・キホーテやムイシュキン公爵も混乱をもたらした。
彼らのやることなすことはある意味頭がおかしく無様である。しかし彼らのやることなすこと、なんだあれ?と首をかしげるようなことこそが強烈な印象を与え、それには人を動かす変な力があるのは間違いない。それは映画の中のドメニコの狂人でもあり聖人でもある姿にも当てはまる。

ドメニコの壮絶な最期はなんであれ皆を救うための殉教であろう。アンドレイにとって約束を果たす行為は贖罪と救いを求めるものだろう。

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А・タルコフスキー監督「ノスタルジア」(1983)は何度も再鑑賞した映画である。とはいうものの前回の鑑賞は5・6年前ぐらいで昔の解像度のテレビ画面でしか見てこなかった。今回は一昨日にBSで放送された分を最高画質で録画し、初めて解像度の高い近年の液晶テレビ画面での鑑賞だった。
そのこともあって今回は異常に美しく感じた。また、これまで気に留めなかったセリフに気付けたりと今回は今回で鑑賞した価値があったと思う。とはいえ私などに手に負えるような映画であり続けていることは間違いないのだが。
今回新たに印象に残ったのは、アンドレイ・ゴルチャコフとエウジェニアが滞在するホテルには犬を連れた婦人だけでなく、他の宿泊客から「将軍」と呼ばれている場違い?といっていいような珍妙な音楽(中国仏教もしくは道教の経を唱える)を奏でる2Fに滞在している中国人の男性とその孫とおぼしき男の子だ。アンドレイと風呂上りのエウジェニアが口喧嘩して彼女がローマへさっさと発とうとする場面に「お経」の途切れない「か細い」声と鐘の音が聞こえ続け、そこでエウジェニアは作曲家サスノフスキーの苦悩の手紙に一通り目を通しつつも気に留めることなくローマへ発つ。この映画は劇的な効果音やBGMを極力排しているゆえ、いい大人の男女が口げんかする声が廊下に響いているにもかかわらず淡々とお経が唱えられるのが聞こえてくる様は却って印象に残るのだ。他人の喧嘩に対してある種の文化的国境があれば無関心でいられることが嫌でも分かるという意味だろうか(笑)。
アンドレイとドメニコが言葉を交わす場面で、アンドレイには二人の子供がおり一人は大きくなった娘、もう一人はまだ小さい男児がいるという点は今回非常に大きなポイントのように思えた。
というのはドメニコは彼なりの世界の終わりという観念から家族を救おうとして7年間妻と息子を家に幽閉した。ドメニコは家族に犠牲を強いた過去を持つ。アンドレイはロシアからサスノフスキーの研究や多くの名画を見るためにイタリアに滞在しているが、ロシアに置いてきている家族と過去にどのようなことがあったのかははっきりと描かれないものの、家族への気持ちに後悔や自己批判、煩悶・苦悶する様子が今回の鑑賞でより分かった気がした。つまりドメニコもアンドレイも家族に犠牲を強いている点で同じなのだ。温泉の周辺住民からは狂人扱いされているドメニコにアンドレイが初対面にもかかわらず口に出さずとも気持ちの根源的なところで「共感」し、アンドレイはロウソクを託されて承諾するであろうオーラを自身の悲しい過去で織り込まれたものから発しているといっていいのかもしれない。
私が思うに、そのあたりのことがアンドレイのことを偽善者と罵って癇癪を起こすローマへ発つ直前までのエウジェニアにはまだ理解できていなかったのだ。信仰に篤い古風な女性像に反感をもつエウジェニアは昔の女性の義務や価値観から自立して幸せになりたいだけでなく、作家や詩人ひいては芸術家のもつ創作の資質や霊感に憧れているフシが窺える。しかし、ドメニコに話しかけても適当にあしらわれることに見られるように、自分にその霊感が訪れなかったり自分が芸術家としての聖人ではないことをどこかで自覚しているものの整理がついていない。作家と付き合っても聖人が得るような霊感を得られない彼女には別のアプローチが必要だった。ゆえに彼女がローマで付き合い始めた口髭の男性はスピリチュアル系の魅力をもっている人物で、彼女はインドに連れて行ってもらえれば自分の中で何かが起こることを心待ちにしているのかもしれない。
そんな逡巡のさなかにいる彼女が、ローマで大きいことをすると言っていたドメニコの言を電話でアンドレイに伝えるという仲介役を演じるのはおもしろい。ローマにいたって彼女はドメニコのことを狂人ではないと言い切り、単なるアンドレイの雇われ通訳者兼愛人でなくなるのだ。
未だに腑に落ちない点もある。電話がかかってきた時点でロウソクの約束はまだ果たされてなかったが、アンドレイは「(方便で)約束を果たした」と受話器越しにエウジェニアに言った。彼女は騎馬像の上で演説するドメニコにアンドレイが約束を果たしたと伝えにカンピドーリオ広場への階段を駆け上がろうとするが、時すでに遅かったという一連の場面である。ドメニコもアンドレイも、場所こそ離れていても、どちらかの行為の結果を受けて自分の行動に移したわけじゃないのだ。
ドメニコはパフォーマンスに邁進してアンドレイが約束を果たしたかどうかを知りようが無い、が、それを指摘するのは野暮というものか。ドメニコにとっては約束は果たされたことになっているのかもしれない。
奇しくもその点でいえばドメニコの壮絶な最期をアンドレイは知らなかった。にもかかわらずアンドレイは最後の命を燃やし約束を果たす。彼女からの電話がある前に、終末のような荒れた石畳の道の端に置かれた鏡に自分の姿を映しているはずがドメニコの姿に映る夢に戸惑いつつも、それはアンドレイにはドメニコと"同化"したことを意味し、また気持ち上での約束への無意識の覚悟が出来たことを意味するのかもしれず、そうなれば行動をおこすきっかけとしては彼女からの電話だけで十分だったのかもしれない。
もちろん完全に腑に落ちたわけじゃない。ただ、未だに私にとっては不思議な展開・めぐり合わせであるにもかかわらず言い知れぬ崇高なものを感じるのは今も変わらない。

映画「ノスタルジア」の一場面ついて、こちらにも記事があります。

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お菊井






ここで酒を飲みながらお菊さんを待っていた?(笑)

お菊さんと聞いて歌舞伎・怪談の播州皿屋敷の話を思い出す人も多いだろう。私は姫路城に行くまでお菊さんの井戸が姫路城にあるとは知らなかったのだが、案内図を見てすぐに職員さんに尋ねたらあのお菊さんの井戸と聞かされたのでぜひとも立ち寄りたくなった。
私にとってのお菊さんは怪談の内容よりも、上方落語の「皿屋敷」のほうが印象深い。落語での皿屋敷では皿を数えるお菊さんを興味本位で見に行く男衆が登場する。なんでも夜に井戸に現れるお菊さんが皿を数え始め、「9枚」と口にするのを聞いてしまうと死んでしまうものの、その直前の「8枚」で逃げたら助かるという。夏に肝試しのつもりで「9枚」の手前で逃げることでスリルを味わう男衆の遊びは続き、お菊さんと男衆たちは顔見知りになり挨拶を交わすほどの間柄になってしまう。お菊さんも毎晩観客がいることがうれしくなってきて皿を数える際の声の抑揚を変えたりするなど色気づいてくるのだった。
次第にうわさが広まり、いつしか井戸の周りにはお菊さん見たさに人が押しかけ、ツアーを組んでやってくる人たちまで現れた。井戸の周りが人であふれんばかりになった日、いつもなら定刻に出てくるはずのお菊さんがなかなか現れず、観衆はしびれを切らしぼやくのみならず中には罵声や怒号を発する者も出る始末。やがて遅刻?しながらもお菊さんが現れると、観衆たちはやんややんやの大歓声で彼女を迎えるのだったが、皿を数え始めたお菊さんが「7枚」「8枚」とカウントしたところで押しかけた大観衆のせいで井戸の周りには逃げるに逃げきれない男衆たちも少なくなかった・・・で、どうなるか?という演目である。
私はこの話を桂米朝の洒脱な語り口で何度も聴いたので、井戸そのものよりは井戸の周囲に押しかける観衆や、実際のところどれほどの人で埋め尽くすことができるのかが最大の関心ごとであった。私が見た限りでは、まぁバス10台の観衆でもスペースに余裕はあるかも、、、もっとも最前列に陣取った場合、「8枚」の直後に逃げ切れるかどうかは分からないが(笑)。

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真昼ちかくになると晴れだしてきたのでもう一度朝の場所から撮りたくなった。









スパイ小説・映画の007シリーズが好きな人はご存知だと思うが、「007は二度死ぬ」に登場する日本の忍者養成所には姫路城がロケ地として用いられている。先日たまたまTVで映画本編を見てみたら本当に姫路城が武道や剣術、手裏剣を投げる訓練などを天守閣や土塀を背景にして行なっていた。世界遺産となった今ではそんな撮影、許可が下りないだろうなぁと思った。

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人気の食堂のラーン・カイトーン・プラトゥーナームは以前も二日目の夕食で紹介した。この旅行では四日目の夕飯にもついつい足を運んでしまった。














再びカオ・マン・カイ。空腹と名残惜し
さもあってか、二杯注文してしまった。



店先に据えられた席だと車道がすぐ横に(笑)



お客が多いので相席が当たり前




店を後にしバスを乗り継ぐときに少し道に迷った。なんとか帰りのバスが分かったものの、バスを待っていたら長めのスコールに見舞われしばらく雨宿りをせざるを得なかった。


宿に帰ってせっせと絵葉書を書いた。左にビールの缶が
映っているが、いつの間にやら空き缶が溜まっている(笑)


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十字紋瓦




十字紋瓦はキリシタンだった黒田官兵衛にゆかりがある瓦ともいわれているそうだ。

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それがはじめられたそもそもの動機は善意によるものであった」なのかぁ・・・。

MeToo受け、女性の裸が描かれた油絵を一時撤去。イギリスの美術館に批判が殺到「検閲だ」(HUFFPOST)

先日には、F1レースのグリッドガール廃止で職を失った女性たちまで出た。
まるで禁酒活動や禁煙活動の様子を呈してきたのでは・・・。本当、最終的な形としてどうなりゃいいのよ・・・。

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