いつ誰がつくったものか分からないマニュアルに沿って行った葬式やのちの法要の意義について疑問をもっている私は、香典やお花代や御供(ごくう)とかいって何万円ものお金を渡されると正直困る。
どうして、そんなにお金を渡したがるのか、送りたがるのか、そんなに対面や世間体って大事なのか。お金を渡す人は大抵このように言う。
「以前の私どもの家の葬儀のときに、いただいてますから、受け取っていただかないと」
金は天下のまわりものというが、この場合、単に行き来してるだけじゃないか(笑)。ひどく愚かしい喜劇に見えるのは私だけか?
受取ってもらわねば困るという感情が働くのはわかる。しかし、あらかじめ香典は謝絶しているし、無理矢理渡された香典のお返しをするために、頭を捻るこっちの身にもなってくれ。それに49日が済んだあとに御供とかいってお金を郵送してもらってもなぁ。
もちろん葬式に来ていただいたり、遺族への哀悼の意を記したお見舞いの葉書・手紙を送ってくれることはうれしいしありがたい。
ただ、脅迫的な「慣例や礼儀やマナー」という「常識」に従って、形だけの香典やお返しを送り送られる行為に、亡くなった祖母への思いは、意外なほど付随していないと思うのだ。
つまり私は、香典とか御供とか送ったりする時間があったら、そのお金を使って祖母の気に入っていた番組のDVDを借りて見たり、観光ついでに祖母が好きだった場所に少し立ち寄ったり、祖母の好物だった料理の食材を買ってつくったり食べに行ったりなどして、そのことを手紙やビデオレターなんかで綴ったり、次にお会いしたときに話題に出すなりしてほしいのだ。供養ってそういったものじゃないのか。
また言われるだろうなぁ。若造のセンチメンタルな意固地かつ常識知らずって(笑)。
| Trackback ( 0 )
|