デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



與那覇潤『中国化する日本―日中「文明の衝突」一千年史』(文藝春秋)、読了。

読了直後は学校で私の受けてきたアジア史と日本史とヨーロッパ史の授業内容などクイズ用のただの暗記であったこと、中国の宋の時代について深く考えたことがなかったこと、個人的な江戸時代懐古趣味に対してガツンとやられてショックだったのは事実だ。その割には著者の表現が読者が目を逸らしがちな苦々しいところを容赦なく衝いて来る毒にも薬にもなる笑えるものであったことに、溜飲が下がった気にもなった。もちろん普段から新聞も本もきちんと読んでいないことを自覚させられた面もあるので腹が立ったことも確かだ。
国の財政・屋台骨を支える日本にやってくる移民の人々の割合が格段に増えることを指摘した章などは、極端な話「今から学校であらゆる国の言語や文化に対して抵抗のない意識を育て、移民の人々と付き合っていく心構えの有無」を問うものだと感じた。
この本を通じておもしろい出来事があった。某カフェにて、本を読み終え感想を頭の中でああでもないこうでもないと練っている時に、店に入って来た初対面の大学院生から声をかけられるという僥倖があった。この本と與那覇氏のその後の著書や與那覇氏ご本人のことについて教えてくれた。会話が弾み、その中でこの本の私なりの感想がおもしろい方向に変わっていくのは稀有な体験だった。私は與那覇氏のその後の著書を読んでから、もう一度『中国化する日本』について考えることになるだろう。


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藤井省三『魯迅と紹興酒―お酒で読み解く現代中国文化史』(東方選書)、読了。

偶然、書棚で見かけて手にとった本だったが、この本と出会えて非常に幸運だったように思う。いまやネットやスマホの発達で、良質かつ読んでいてこちらがドキドキするような旅行記を目にすることは容易になったが、かつての旅先で現地で体験したことに触れている小説や本、既に旅の経験がおありの方と直に出会えることはまれなことではないか、と、特に最近そういう気がしているのだ。
そういう気分の時に酒をテーマにしている本となれば、より一層味わい深い本だなぁ、と読了してしみじみした気分になるものだ。実際、小説に出てくる酒の話のみならず、いくつかの中国文学作品で見られるすさまじいまでの酒宴の場面の紹介は読者を作品へといざなう魅力に満ちている。
また研究を通じて外国の研究者と交流しその酒宴のエピソードもとてもおもしろい。酒宴の形式や様相が時代によってうつろいゆくさまは藤井氏でなければ書けないだろう。長年の蓄積、醸成されたものの格別な味わいの漂っている感じが読んでいてたまらないものがある。
これからは旅先でしか味わえない缶ビールや特産の酒にもその土地や生産者ならではの歴史が詰まっていることに思いを馳せつつ、お酒を楽しみたく思った。


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菩薩交脚像(クシャーン朝2世紀、ガンダーラ)

個人的な考えだが、仏教は仏像が作られ始めた頃から自力本願から他力本願の信者が増えだしたのではと思っている。ゴータマ・ブッダが入滅し400年近く経てば信者の増加し社会も変化してくる。ゴータマ・ブッダの教えを実践する修行僧や修行僧を直接援助する居士や優婆夷はともかく、在家信者としては目に見える形のものに祈ったり拝んだりする方に信仰のかたちが変化せざるを得ない時期が2世紀ごろだったのかもしれない。

仏像が作られる前は仏舎利信仰が盛んであった。仏舎利を収めた仏舎利塔の形がのちの仏像へと変化していく過程をダイジェストではあるが、東京国立博物館でも学べたと思う。またいつかこちらの本を読み返してみたく思う。



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楔形文字粘土板文書

 

楔形文字の文書(もんじょ)なんて外国の博物館の所蔵品が日本で展示される特別展くらいでしか目にできる機会などないだろう。子どもの頃なら遠足で古代の博物品を見せられても何もおもしろくなく寧ろ早く遠足終わって遊びたいと思っていた。しかし今となってはこういった博物品が旧約聖書が形になってくるはるか前の時代から存在し、メソポタミアの地で人々の営みがあったことを示すものであること、それが日本でも(決して多くの場所ではないにしろ)見れるということがこんなに貴重なことであるとは思わなかった。



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3万年前の航海徹底再現プロジェクトの丸木舟が台湾から出発し与那国島に到着した。

私は、人類誕生・未来編 第3集「ついにヒトは海を越えた」を見て以来、この実験考古学でどういった成果が上がるのか気になっていた。

人類がサヘラントロプス・チャデンシスやアウディピテクス・ラミダスといった進化の過程を経てきたことが分かり、ホモ・エレクトスの後塵を拝した形になったホモ・サピエンスが地球上に大拡散し得れた証拠が次々と発見される今日、昔学校で習った人類学はもう古いと言わざるを得ないだろう。



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「イパネマの娘」の録音をめぐる逸話はあの曲調からは想像もできないほど鮮烈だった記憶がある。
ボサノバは大昔から存在していたジャンルではないのに、リオデジャネイロを表現する音楽と言えばこれしかないというくらいお馴染みのものになっていると思う。
そしてブラジルとポルトガルの人々の情緒に通底するサウターデを表現するにもボサノバは欠かせない。
これからも聴き続けるだろう。


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野球の応援で選手に呼びかける言葉の件で知ったこと。敬意をあらわす丁寧な言葉は長い時間使われ続けていると丁寧に聞こえなくなってくる、または丁寧な意味合いを失ってくることを敬意逓減の法則というそうだ。貴様や御前などの聞こえ方が「時代とともに変わる」というだけでは物足りなかった。初めて敬意逓減という言葉を知った。

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オルテガ(桑名一博訳)『オルテガ著作集2「大衆の反逆」』(白水社)読了。

この本の内容で論じられている現代の大衆は、単なるバーナム効果だと斬って捨てられるようなものではあるまい。
読んでいてこんなに身につまされる思いになる本はひさしぶりだ。過去の時代にもオルテガのいう凡俗な人間は存在していたろうが、現代の人間の特徴をよく言い当てているな、と思うし、何事にも怠惰な私にとっては本のどの箇所を読んでも非常に厳しく感じられる内容だった。

 思想とは、真理に対する王手である。

とは記述の中でも有名な言葉であるが、「この本の言葉は君の精神にとって詰めろである」といわんばかりだ。
とくに歴史的理性を軽んじ自分たちの時代が最高の時代であると信じきっている感覚や、凡俗な人間が他人を考慮しない習慣に染まってしまっていることや、注意してさえいれば分かるであろう物を創造したすぐれた天才的な努力を己に科した人について思いを馳せることなく文明の利器を使いこなすことだけは一丁前な大衆の姿、自分の自覚していないところで自分のエゴばかり強調し共存への意志をおくびにも出さない人、そういった凡俗な人間が現代に多くなっていることを自覚・自認するのは辛い。
もちろん共感することもある。「貴族」という称号だけで自ら努力することのない2世や2代目は凡俗な人間であり精神的に「貴族」ではなく、オルテガのいう自分自身に多くを科して権利を勝ち取った「貴族」の概念は納得したし、この考え方は現代だからこそ貴重だと思う。
本の内容に関して、ピリッとしたことを書きたい衝動が失せることはない。読了から数ヶ月、その間、感想をまとめようとする度に、あれにも触れたいこれにも触れたいとメモばかり多くなり結局何もまとまらない。でも本文の付箋をした箇所だけは読み返しそれが癖になる、いい意味で始末に負えない本だ。


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