デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



先日の夕陽

T・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』 ★★★★★

呉座勇一『応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱』 ★★★★★

西 周成『タルコフスキーとその時代 秘められた人生の真実』 ★★★★★
…タルコフスキーをソビエト時代の悲劇の映像詩人として聖人視することなく、監督の生涯を客観的な資料(史料)から冷静な視点で記述している。監督の実像を知る上で必読の書だろう。

塩野七生『ルネサンスとは何であったのか』 ★★★★★

バルガス=リョサ『楽園への道』 ★★★★★

春名 徹『北京』 ★★★★☆
…地名って昔の名残から採られていることが多いものだが、北京市の地名となると歴史的な由来の無い所を見つけ出すことの方が難しいのではと思わされた。旅先で宿泊のために降り立った町の名前の由来も紹介されていてうれしくなった。

下定雅弘『白居易と柳宗元』 ★★★★★
…『源氏物語』を読んでいると白居易(白楽天)の名前と「長恨歌」のことがよく出てくるので気になっていた。白居易は唐の時代の人だが、あちこちに左遷させられていたことは初めて知った。浅学ながら、中国で印象的な史書や詩を残す人は道理に背かなかったことが仇となり失意のうちに過ごさざるを得ない境遇に陥った人が多いと思う。

А・タルコフスキー『ホフマニアーナ』 ★★★★☆
…タルコフスキー監督が、幻想的・怪奇的な作品で知られるE.T.A.ホフマンを主人公に映画化しようと構想を抱いていたことは知っていたが、その構想の内容がテキスト化されていて手に取ることができるとは思わなかった。登場人物たちのセリフはいかにも監督が語らせたがるようなものでぜんぜんブレていないなと思った。

ヴィクトル・ユゴー『ノートル=ダム・ド・パリ』 ★★★★★

九鬼周造『「いき」の構造』 ★★★★★
…気質の説明って簡単なようで、しかしよくよく考えてみると実際どういった表象と内面をもっているのか説明するには難しい。そういったことを改めて感じさせる内容だったが、読んでよかった。

余華『中国では書けない中国の話』 ★★★★★

井波律子 訳『完訳論語』 ★★★★★

松本健一『「孟子」の革命思想と日本-天皇家にはなぜ姓がないのか』 ★★★★★
日本では天皇家が関わった乙巳の変や、壬申の乱による簒奪、承久の乱が起こったが、結果的に天皇家は滅ばなかった。これらの乱は天皇の権威さえ葬ってしまうような結果にならなかった。すなわち日本では中国でいうところの易姓革命は起こっていない。その理由について「孟子」を学ぶことで天皇の名字を無くしてしまえば良いじゃん、天皇は臣下に姓を与えたり身分を保証するだけにしよう、といったシステムで朝廷の権威を維持しつづけようとしたという大いなる仮説が述べられているわけだが、とても説得力のある内容だった。日本の統治システムの構築の歴史について考えさせられたことで、王政復古のことがでてくる『明治維新』を手がけるきっかけにもなったし、中国の古典にも関心を向けてくれた本。

旗手啓介『告白 あるPKO隊員の死・23年目の真実』 ★★★★★
…今では文民警察官としてカンボジアへ派遣されていた日本の警察官が、1993年現地で殉職したことを覚えている人など少ないのではないかと思う。正直、この事件については私もほとんど覚えていなかった。この本に綴られている内容は読者にとってとても辛いものだろう。紛争地域なのかそうでないのか解釈をめぐって海の向こうのことなど眼中になく、安全な場所で繰り広げられれた政治ゲームは体面ばかりを気にした軽薄なものであり、それは日本の政治の他国への見栄やあいまいさのせいで現場にしわ寄せが行き、悲劇へとつながってしまった。それでもなお起こってしまったことを、未だきちんと検証し反省できていないことを痛感させられる内容だった。国際支援のあり方を真剣に考えている人や、人の命を預かる立場で現場に足を運ぶようなことのない人にはぜひ読んで欲しい本だ。

余華『ほんとうの中国の話をしよう』 ★★★★★

塩野七生『ギリシア人の物語Ⅲ』 ★★★★★

ドストエフスキー『ステパンチコヴォ村とその住人』 ★★★☆☆

カズオ・イシグロ『日の名残り』 ★★★★★

NHKスペシャル「人類誕生」制作班編『NHKスペシャル 人類誕生』 ★★★★★

カズオ・イシグロ 『わたしを離さないで』 ★★★★★

福岡伸一『生物と無生物のあいだ』 ★★★★★

今年は自分の頭というか意識にガツンとくる本をたくさん読めたように思う。
越年読書は遠山茂樹『明治維新』、グリンメルスハウゼン『阿呆物語』、『入門 秦の始皇帝と兵馬俑』、三友量順『玄奘』、バルガス=リョサ『ラ・カテドラルでの対話』

来年も良い本と出会えますように。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「君の名は。」(2016) ★★★★★

「鳥」(1963) ★★★★★
…ヒッチコック監督の代表作の一つ。TVの放送で鑑賞したが、MeToo運動が盛り上がっている時期だった。バツイチの男の住所のみならず男の娘の名前まで周到に調べて男の気を惹こうとするヒロインの姿を見て、こんな時期に放送していいの!?とTV局が苦情処理に追われているのではないかと心配になり余計なお世話なことまで考えてしまった(笑)。
この作品の示唆するところのものはたくさんあるだろう。私は天災に見舞われ被害を抑えることができず、対処の方法が見出せないその原因を「たまたま港町にやってきただけの女(ヒロイン)」を魔女呼ばわりすることで問題をすり替えよう目を背けようとする絶望した婦人役の演技にゾッとしつつ上手いなと感心した。

「ノスタルジア」(1983) ★★★★★

「ビューティフル・マインド」(2001) ★★★★★

「誘う女」(1995) ★★★★★
…ニコール・キッドマン主演の作品のなかでは私はこれが一番お気に入りだ。成り上がるためには手段をいとわない女の因果応報を描いた物語だが、ブラックユーモアとして現実というものを上手く描いているのではないか。これもMeToo運動が盛り上がっている時期にTVで見たのでTV局に苦情が行っていないか心配になった(笑)。

「ワーテルロー」(1970) ★★★★★
…監督のセルゲイ・ボンダルチュクは、大スペクトルな「戦争と平和」も撮っている。描き方が似ているなと思った。

「バラバ」(1961) ★★★★★
…「道」や「その男ゾルバ」に主演しているアンソニー・クインが、キリストの代わりに放免されたバラバを演じているとは知らなかった。丁寧に見ていけば紀元1世紀の時代をリアルに描こうとした制作陣のすごさがよくわかった。

「ロシュフォールの恋人たち」(1967) ★★★★☆
…ふと見た映画に用いられているメインテーマ(BGM)が、以前聞いたことのある曲で詳細を知りたかった曲でもあった、という体験ってけっこうあるものだが、この作品のメインテーマは目から鱗な気になった。作品は昔一世を風靡した感じでおもしろかったことはおもしろかったが、時代を否応無く感じさせられたのも事実だ。

「アメリカン・スナイパー」(2014) ★★★★★
…二度目の鑑賞。ショッキングな内容ではあるが、リアリズムに徹した名作である。

「大統領の陰謀」(1976) ★★★★☆
…ウォーターゲート事件のスクープを新聞記者が記事にするまでの物語。裏を取る取材って大変なのだと改めて思ったし、紙面に載せるゴーサインを出すまでに生じる社内のさまざまな事情の存在は今も昔も変わらないのだ。「インサイダー」もひさしぶりに見たくなった。

「傷だらけの栄光」(1956) ★★★★★
…ポール・ニューマンがボクサーに扮した作品。ロッキー・グラジアノとロッキー・マルシアノの違いすら分かっていない私ではあるが、スタローンの「ロッキー」を髣髴とさせる「傷だらけの栄光」は楽しめた。ポール・ニューマンはいろいろな役をやっているが本当に多才だと思った。

「カルテット!人生のオペラハウス」(2012) ★★★★☆
…ダスティン・ホフマンがメガホンを取った作品ということで興味を抱いた。舞台がミラノにあるヴェルディの音楽家のための憩いの家っぽいなと思ったらやっぱりそうだった。

「鏡」(1975) ★★★★★
…タルコフスキー作品のなかでも最も難解な作品だが、時を経て再鑑賞し、辻邦生のエッセイや、馬場広信著『タルコフスキー映画』、西周成著『タルコフスキーとその時代 秘められた人生の真実』を参照して、作品を鑑賞するにあたり監督の自伝的要素をきちっと知っておいたほうがいいことをようやく素直に受け入れられるようになった気がする。

「ベニスに死す」(1971) ★★★★★
…再鑑賞。昔見た時ほどには衝撃を感じなかったのは仕方がないか。ただヴィスコンティはトーマス・マンの原作に相当共感したであろうことは、原作に肉薄するための演出を見るだけで感じ取れた。また登場人物のちょっとしたしぐさや衣裳が主人公にとってはタブーでありつつも抑えるに抑えきれない衝動を抱かせる世界のメタファーとして分かりやすいものにしている点は巧妙だなと改めて思った。

「ミッション」(1986) ★★★★★
…再鑑賞。主人公の神父は司馬遷の「史記」に出てきそうな人物だなとも捉えられた。以前は見逃していたが、神父やグァラニー族を虐殺したことへの良心の呵責や自責の念が、政治的葛藤を抱えるアルタミラーノ枢機卿や総督らにも見られる場面があったとは…。

「山猫(完全復元版)」(1963) ★★★★★

「華麗なる激情」(1965) ★★★★★
…ミケランジェロと教皇ユリウス2世の奇妙な関係というか奇妙な友情の描き方がとても面白かった。ミケランジェロが作業していた時期のシスティーナ礼拝堂の天井と、ボッティチェリやギルランダイオらが描いた壁画との合成も上手く凝っているなと感心した。

「カプリコン1」(1977) ★★★★★

「スワンの恋」(1984) ★★★★★
…『失われた時を求めて』のなかの一篇を映画化するのは難しいのだろうけど、がんばったなぁと素直に思った。スワンが晩年に訪れたサロンに作家のそっくりさんみたいな人物をエキストラとして登場させているのは監督の遊び心だろうか(笑)。そっくりさんといえばゲルマント公爵夫人を演じた女優が小説のモデルになった人とそっくりだったのはこだわりを感じた。

今年は映画を鑑た本数が増えた。ずっと気になってはいたが、鑑賞の機会を逃していた作品を中心に鑑賞でき良かったと思う。来年もいい映画と出会いたいものだ。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




福岡伸一 著『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)読了。

医学・分子生物学の見地から生命とはどういった状態であるのか、説明した本を読むのは初めてかもしれない。とても新鮮に感じたし、おもしろい本だった。
本では生命とはなにかを細胞よりも小さい世界から説明するとりかかりとして、野口英世の実際の業績や生涯にも触れているが、偉人化神格化された野口英世像を信じている人にはかなり辛い内容となっている。しかし私もやはり野口英世はお札の肖像にはふさわしくないと思う。
もちろんこの本は医学界の過去の「偉人たち」の業績が時代に耐え得なかったことを知らしめ、神格化された学者のイメージ像を粉砕することを目的にして書かれているわけではない。本の最大のテーマは野口英世の時代には見ることのできなかったウイルスやタンパク質やDNAの働きを紹介し、生命活動とはどういったものかを示すことが最大のテーマである。自分の細胞やタンパク質は絶え間なく働いていて、そういった世界では「人は絶えず変化している」のだけれども、それを意識することはないといっていい。昨日の自分と今日の自分とでは分子レベルでは変わってしまっているはずなのに、さも自分は自分であり続けることを疑わない状態ともいえる。
人間の生命活動は常に動的平衡状態にあるわけだが、考えてみれば不思議なものだと改めて思った。そして過去に放送された福岡氏とカズオ・イシグロ氏との対談で語っていた内容がじわりと心にしみた。私は化学や生物学に関してはちゃらんぽらんで、学校での授業も適当に聞いていたし、テストで点さえ取れればいいと思っていた子どもだったが、医学や化学の視点からでも人間を人間足らしめているものは何かを考えることは難しいことでも何でもないことを今さらではあるが教えられた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





宮殿は見学を終えると、入館のボディチェックを受ける所まで戻ってくる形になっていた。入る際、日本語で挨拶してくれた女性職員が明るい笑顔で再び声をかけてくれた。「おつかれさまでした」とか「いかがでしたか」といった感じだったように思う。宮殿の印象がさらに良くなった。すばらしかったと素直に伝えた。








空が少し明るくなってきた。



ラーマ5世の騎馬像まで戻ってきた。
頭の上の鳥はいなくなっていた。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




羽生、27年ぶり無冠 広瀬が初の竜王奪取

やっぱり羽生さんは、負けて騒がれる棋士だ。
とはいえ、まだA級順位戦でも上位だから、名人戦出場のチャンスもあるのでぜひとも奮起していただきたい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




カズオ・イシグロ(土屋政雄 訳) 『わたしを離さないで』 (ハヤカワepi文庫)、読了。

作者自身の経歴が作品に反映されていない、いや、作者が作品に自身の経歴を反映させていない作品というのは私にとっては性質が悪いなぁと思うことがある。「この作家ならこのパターンだな、経歴から察せられる名言は作品内のみならず後世に名言集に収録される形で残り続けるな」といった作家の個性を見つけ、それを引用して所感を述べれば記事は手堅くも大した内容にはならないとはいえブログの記事の一丁上がりというお手軽さを享受できないからである。
そういった読み方の間違いが少ないであろうと安心できる既定のパターンを木っ端微塵に打ち砕く作品が、作者が作品に自身の経歴を反映させていない作品である。今の私にとってはカズオ・イシグロ作品がそれで、作品の中の穿った言葉や金言や定石めいたアフォリズムも作品を構成するための一要素にすぎなく、否応にも作品そのものと向き合わざるを得なくなり、大概自分の読みの能力が進歩していないことや読みの自信の無さを自覚させられるのだ。同時に、小説は言葉や文の芸術だから文芸作品というのだろうけど、作者の文芸職人としての器用さを見せつけられることである種のフラストレーションも溜まってしまうというかなんというか...(笑)。
作品に描かれるエピソードは、みずみずしいまでの自己顕示欲やプライド、よかれと思ってやったことが結果的に周囲に誤解を与えてしまった体験、やましくも打算的行動ともくろみが上手く行き過ぎて良心の咎めを覚えた体験、抑えがたい性的な衝動、保身に走ってしまいたいがための苦しい弁解やとりつくろう思考やしぐさ、はじめて外の世界と対峙して得られる戸惑い、残酷なまでの覆水盆に返らずな別れの際の告白など、決して特別なものではなく、ありきたりなものだ。
決して特別な存在ではない普通の人々の営みをいとおしくかけがえの無いものという意味で読者に登場人物たちが唯一無二なものであり、個々人の思い出をその他大勢なチープなものとシニカルに捨て置けない気持ちにさせる効果を実感できたことに素直に驚けた。
それは最後の急転直下な展開でなおさら際立ったように思う。作者に問題提起の意図の有無はともかくとして、作品自体がいろいろな問題を提起してしまう凄みに充ちている。
また今回は作品と真っ向から向き合うというよりは、作家が文学賞を受賞したことで再放送された特集をじっくり視聴して予め刷り込まれたあらすじや結末のみならずいろいろな人の作品感想も見聞きした上での読書だった。しかしそういった先入観も今回の読書には邪魔にならなかった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

























近づいてくると宮殿の威容の誇らしいさまが分かる



入口の傍

ワット・プラケオでもそうだったように、この宮殿でも襟付きシャツと長ズボンの着用でないと入らせてもらえない。私のすぐあとからチケットブースにやってきた観光客はTシャツに短パンの格好だったので職員から更衣室に案内されていたくらいだ。
また宮殿では手荷物(カバン類)だけでなくカメラ、携帯電話などのモバイル類や筆記用具も無料の見学者用ロッカーに預ける。服装規定もあり、撮影もメモも禁止で、手ぶらのみで入館という厳格な宮殿だ。宮殿の入口には職員がいて入場券の確認ののち、金属探知機をくぐってからボディチェックを経、オーディオガイドを貸し出されてようやく入れたように記憶している。ただ、私の検札とボディチェックを担当した女性職員が私のタイ語でのあいさつに日本語で返事してくれて素敵な笑顔で接してくれたので明るい気持ちになれたのはよかった。宮殿内に入る時もオーディオガイドの日本語設定を教えてくれて「いってらっしゃい」と見送ってくれたことを覚えている。
宮殿内は別世界だった。二階へ上がる階段が最初なのだが、階段を上っているだけで天井画を仰ぎ見ざるを得なくなったことに圧倒された。ルネサンス様式の宮殿は外観だけじゃなかった。国立博物館でも玉座や輿や山車を見ていたものの、宮殿内に展示されているものは筆舌に尽くしがたい「特注品」ばかりで、金や銀や青や緑の宝石のような輝きを放っていない物がないくらいだ。オーディオガイドから聞こえる「~即位何年を記念して作られ、制作には数年を要しました」という説明はざらだ。玉虫で覆われた屏風だったか物入れもあり、玉虫厨子の現代豪華版みたいなものがあったことも覚えている。また「特注品」などに「SK」とサインがあり、それは国王のイニシャルで国王直筆サインであることも記憶している。
二階のフロアで圧倒された気持ちで展示物を見ていると、眼鏡を掛けたスーツの男性が私の方に歩いてきて、その男性には警備員がこぞって両手を合わせて挨拶をしている。宮殿内の管理者で警備員にとっては上司にあたる人なのだろう。するとスーツの男性が、You're the first person today.と私に話しかけてきた。たまたま最初の来館者を出迎えるようなタイミングになったのかも。Where are you from? と訊かれたので、手を合わせてタイ語でマ・サーク・プラテート・イープン(日本から来ました)と答えたら、「こんにちは。ようこそ」と日本語での返事だ(笑)。入館時といい二階のフロアでのことといい、旅の最後に訪れる宮殿で胸のすくような気持になれるとは嬉しいものだ。こういったこともあって、時間の許す限りじっくり見学した。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




カズオ・イシグロ(土屋政雄 訳) 『日の名残り』 (ハヤカワepi文庫)、読了。

カズオ・イシグロ氏がノーベル文学賞を受賞したニュースが世界を駆け巡ってから書店で品薄になった作品の一つ。読む前にTVの特集でさまざまな作品評を聞いたが、それらは読んでみなければ分からない内容もあったし、読み終えてから思い返すに的外れなものもあったように思う。
それはそれとして、私はブームが沈静化してようやく作品を手にしたわけだが、不思議と一気に読めてしまった。
正直、文章力のある執事の回想録かと思ったし、作者は執事の経験があるのではないかと錯覚したくらいだ。そして決して難しい言葉を使っているわけじゃないのに、人や物に仕える立場の普通の人々、仕事にプライドを持っている生真面目な一般の人間のささやかな喜怒哀楽や会心の仕事の成果に誇りと優越感を抱く冥利などが凝縮されていることに舌を巻いた。イギリスを舞台にした物語かもしれないが、朴訥でひたむきに人に対する気遣いで精神をすり減らす人間なら、これは私の物語じゃないかと作品に自己投影したくなるように思う。巻末にあった解説にちょっと腹が立ったくらいだ、余計な茶々を入れやがって、と(笑)。
読了したのは数ヶ月前だが、作品は私に思わぬ効果ももたらした。一言で表せば、この作家のものすごい力量に圧倒されて、この作品のすごさの何を私などが伝えられるのだろうとけっこう真剣に悩んだり、私の書く記事がくだらないものに思え、弊ブログを更新するのが億劫になってしまったりしたのだ。作品と私の文章は本質的に何の関係も無いにもかかわらず、だ(笑)。
おそらく、こんな風に自分の思い出や生きた証を残せれば良いのにと真剣に思ってしまったのだろう。この辺りのことは引いてはイシグロ氏の作品の大きなポイントにもなる記憶や思い出が人間を人間たらしめているもの、といった話になるのだが、今回の読書はその辺りのことを考える大いなるきっかけになるだろうことを読了直後に思ったりしたのは否定しようが無い。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





没後50年 藤田嗣治展に行ってきた。藤田嗣治作品の大きな展示会に足を運んだのは幸運にも二度目である。前回は10年近く前だったように思う。

あたかも悟った風に、渡る世間に鬼はないとかこの世に生きている人の中に英雄はいないとか、思ったりすることもたまにあるのだが、日本の現代美術の分野で個人的に英雄視したくなるのは藤田嗣治(レオナール藤田)かなぁと思う。二度の大戦の時期を生き抜いたのみならず、生前故国から誤解され冷静な評価を受けることが多くなかったものの、自分のやりたいことをやり自分のスタイルを確立し、孤独にしかし自由人としてその生涯を駆け抜けていったのが藤田嗣治であるというイメージを私は抱いてしまう。私のレベルに引きずりおろしていうならば、周囲に迎合せず同調圧力に屈しないチャラ男であっても出過ぎた杭は打ちようのないくらいの才能と努力で、やることはきちんとやっている人であり、日本に埋もれている有象無象が抱く自由への希望の星が、私にとっての藤田嗣治という人なのだ。
もちろん画家の人生は波乱万丈で毀誉褒貶がついてまわるし、画家自身も晩年に至って自身の人生を嘆くこともあったことが近年の新資料から分かっているので、自由に生きる人生のありようというのは一鑑賞者の思い描く勝手なイメージにしか過ぎないことも分かっている。
ただ、今回の大規模な回顧展の作品は画家の生涯を予習して鑑賞したところで、そこまで沈鬱な気持ちにならない内容だったことに正直ホッとした。自画像の中で存在感を放つドヤ顔の猫には愛くるしいものを覚えたし、画家本人が好んだ風景や室内を描いた作品にパリでの生活のエッセンスが凝縮されていると思えた。私個人は画家の部屋やフルール河岸から描かれたノートルダム寺院がとても気に入った。
意外だったのは藤田嗣治の旅をする画家としての一面だ。今回の展ではそこにも目を見張った。ヨーロッパ、南米、中米、日本と本当にいろいろな時代と土地の人々や風俗を垣間見せてくれるぜいたくな気分を味わえたように思う。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )