デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



映画が始まって数分で、主演の二人が『芙蓉鎮』や『さらば、わが愛/覇王別姫』に出てる俳優であることがわかった。

作品は『芙蓉鎮』の時にも書いたように1980~1990年代に現れた中国の「傷痕ドラマ」の1つといえるだろう。ただ、先に『芙蓉鎮』を鑑賞しそのつくり込みに感心した事もあって、私は『紅いコーリャン』は佳作の域を出ないと思った。
風景や紅を用いた映像美がいいのだという意見は分からなくは無い。しかし、作品が「神話的」と評される割には語り手の祖母と祖父の主人公二人の結ばれ方(九児の懐妊?)が(変わってはいるが)とても珍しいという程ではないし、その境遇で語り手の父や語り手自身がそれこそ神話のような運命をたどったわけではないので、「結ばれ方」は別に無くてもいいエピソードだと思った。ようするに二人の出会いが、子や孫の成長に影を落とすストーリーになっていないのが残念だった。(神話といえどいろいろなものがあるので、作品を日本軍に対する勝利までの混沌の現代中国神話として解釈するという意見があるとしたら、強引であろうと思うが分からんではない)
また、私はこの手の映画にリアリズムを求めがちなので、正直、匪賊の頭の禿三包(トゥーサンパオ)の扱われ方には不満であった。禿三包のキャラクターは、単に匪賊としての(横暴な搾取の)利権を守るためだけに、戦ったところで勝てそうにない日本軍と刀を交えようとするキャラだろうか? 作品内の時事系列からすると、日本軍が村にやってきた時に、禿三包はたとえ腹に一物抱えるものがあったとしても一旦は日本軍の手先となって、村人たちから食料や金品を奪う役として描いてあれば、もっと映画に深みが出たように思う。そして日本軍が劣勢となった頃合を見計らって、手のひらを返したように村人とともに日本軍を駆逐するほうがよりリアルだし、それこそ神話(宗教の経典)に出てきそうなエピソードとなるんじゃなかろうか。

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映画『芙蓉鎮(ふようちん)』(1987)を見た。

『芙蓉鎮』を見始めて20分ぐらい経つと、イタリア映画の『マレーナ』のことを思い出した。この連想について、なんとなくでもいいので言わんとしていることが少し分かるよ、という方がおられれば幸いである(笑)。

作品は文化大革命直前から革命が終わるまでの時代を扱っている。作品はまた、1980~1990年代に現れた中国の「傷痕ドラマ」の1つといわれるそうだが、たしかにその説明で納得できる。作中の働き者の胡玉音の歩んだ人生だけでなく、彼女のまわりの人たちの人物像に苦々しくも共感を覚えた中国人は多いのではないだろうかと思う。登場人物の一人ひとりにスポットを当てれば、本当に記事がいくつも書けそうなくらいである。
さて、映画を見て私は、時代のうねりが胡玉音を飲み込んでゆく描き方のほかに、どうしても人の感情がいびつな時代のうねりを作ってしまったように思える描写に目が行ってしまうのであった。
私の記憶が間違っていたらご指摘いただきたいが、後に党の「偉い人」となる独身の李国香の営む食堂は「国営食堂」で、谷燕山から公平にいい米を回してもらっていたが、李国香の営む食堂のメシは不味くて客が入らず、片や胡玉音は米カスから美味しい豆腐を作ってよく働き商売を繁盛させていたように思う。李国香はいい米を回してもらっているはずなのに、料理の味や器量で胡玉音に勝てず、国営食堂であることや身内に地方の書記がいてその権力にすがり付くことで、胡玉音に一発お見舞いしようとしている。つまり李国香の「運動」の力を支える動機はただの羨望や嫉妬心なのだ。(頭に花咲いたような感想だが、冒頭の集会の場面の前に、私は「李国香さん、さっさと豆腐の作り方や味付けを主人公に習いに行け」と思ったほどだ(笑))。
李国香が居ろうが居るまいが文革は止まらなかった、だから動機うんぬんは流行らない見方だと思う人もいるかもしれない。ただ、自分に実力が無く、自分一人では何もできないこと、自分が弱い人間であることを自覚しようとしない者はいつの時代でも存在するが、その劣等コンプレックスを自分の腕を磨いて跳ね返すのでなく、他の政治的権力の首にぶらさがって嫉妬の対象を粉砕しようとするという哀れな人間がどう生きてそして生き残っていくのか、その生きる過程で胸に巣くったろう自己韜晦もこの映画の大いなるテーマのように思うのである。
李国香は頭でっかちではあるが、根っからの悪人ではない。しかし、出世して結婚が決まった後の彼女が、美味しい料理を自らの手で作っていくのかどうか、そこはやはり気になるところであった。

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ここからも石が切り出された



見えてきた










今更だが、ここ数回つづけている「昔の採石場へ」というタイトルの記事の二回目の分を上げた時に、昔の採石場が現在「太閤岩」と呼ばれていることをインターネット上で知ったのだ。


太閤岩







太閤岩という名称はベテラン登山者の方々から聞いてはいたものの、私個人がいつも通る道で見る石を切り出した跡がそれであると「石切り場=太閤岩」というふうには自分の中で一致していなかった。
だが、「昔の採石場へ」というタイトルの記事の二回目の分を上げた時に、「大文字山」「太閤岩」のキーワードで検索にかけてみれば、自分の知りたいことがたくさん検索結果に表示された。どうやら登山ルートや山の歴史のキーワードで検索するより、「地学」のキーワードで検索すべきだったようだ。(なんとまぁ回りくどい話であったことだろう(笑)。)
太閤岩についての詳しい内容は良質な他のサイトに任すとして、私としては山で知り合った方々から石切り場の石が安土桃山時代に建てられた豊臣秀吉縁の神社仏閣・屋敷の土台に用いられていることを直に聞き、それが正しかったことの方がうれしかった。つまり親しくなった方々から伝え聞いたことが、歴史的根拠のある話であることの重みを実感できたことがよかったと思うのである。
ところで、幻の滝の記事で私は室町時代にスポットを当てた根拠無き想像を膨らませたようなことを書いたわけだが、太閤岩の場所の岩壁から石が切り出されたのが秀吉の時代と分かった今、幻の滝の奇岩は秀吉の時代に切り出されたものの、採れそうな石の量が少ないとか、運ぶにはちょっと骨が折れる距離だった、もしくは運搬ルートの目処が立たなかった、秀吉が没したことで新たに建物をつくる計画が水泡に帰したとか、ようするに安土桃山時代に石を切り出しそこで生じた問題とか諸事情で石が放置されたと想像するほうが、より現実味を帯びるように思う。それに、石を切り出すにも膨大な費用がかかるし、そんな費用を統治や経済政策の失敗で資産を売り払っていた足利家やその家臣が出せたとは思えないから、それこそ時代が下った秀吉もしくは前田利家ぐらいの大名じゃないと費用を出せないと考えるほうが自然だろう。

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形が似かより大きさが掌二つ分以上ある石が増えてきた



画像ではわかりづらいが切ったような断面になっている












人工的な石垣がある



かつて、ここからも岩が切り出された


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画像の左上に道が















判りづらいがリフトの支柱が見える






道にある石が大きくなってきた


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砂防ダムの上



画像の上のほうに人為的な赤い印が



ここから下りれる









踏み跡のある昔の道がある



水の流れる音がしてくる



大文字山のベテラン登山者いわく「上の水飲み場」。
ペットボトルに水を足すのもいいかもしれない


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通常のルートは右の橋を渡るが真っ直ぐ行く

ここから3月の分の画像も混じるがルートは同じ。


ここをあえて直進



送り火のための護摩木などを運ぶリフト



この標示板の左のところを跨いで川を渡る



荷台



丁度砂防ダムの下になる。渡ると道や踏み跡があるのでそこを登る。



わかりづらいかもしれないが、、、



登れる道になっている。



砂防ダムの上へ


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日差しが強くなり、影も濃くなったなぁ…。


虫やトカゲが多くなってくる季節でもあるが、



同時に新緑が一番きれいな時期かもしれない





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日照時間が長くなったが19:00以降となるとやっぱりライト無しで登るのは危ない。

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タークシン王の騎馬像

3番のバスで向かったのは(バンコクの)巨大ロータリーのあるウォンウィエン・ヤイという地区。ロータリーの全体図はこちらの歩道橋の画像で大体分かると思う。






タークシンと聞けば、今混乱のタイの渦中の人物ともいえる元首相をイメージしてしまうが、騎馬像のタークシン王は18世紀後半の人物である。タークシン王については次回

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