デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 





ソロギターによる「ルージュの伝言」

ひさしぶりにYouTubeに演奏動画をアップした。
4月から練習を始めた曲だが、私にとってこの曲は映画「魔女の宅急便」のオープニングを飾る曲として印象深いものである。演奏はお聞きの通りまだ完璧とはいえないけれども、公開することによってまたアドバイスをいただけたりなどの改善のポイントも得ることができる可能性が高いので、置いておこうと思う。
ちなみに楽譜が載っている本の中でのこの曲の難易度は、難易度A~CのうちのCである。しかし、Cの他の曲を見ていると、この曲はBのように思える。まだまだ未経験の旋律や演奏方法が控えているから、めんどうくさいけど楽しみではある。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





「行きつけの喫茶」とは到底いえないグリル喫茶 池という店だったのだが、普段から前を通り過ぎ、一度は入ってゆっくりしたいと思っていた店が今月末で休業されるという話しを耳にした。






地方の鉄道が廃線になる直前、その列車が満員になるあの心理が私にもはたらき、たとえ閉店時間間際でも行くようにした。



読書や旅の記憶で思い出したことを整理したりして、閉店時間5分前まで長居させてもらってる。




















マスターは「もう年だし体力がねぇ…」とおっしゃってた。

しかし、しっかりあかるい感じで「ありがとうございます」とマスターの声を聞くと、しめっぽい気持ちにはならない。



























日付変わってしまったので、今日が営業日のラスト日かもしれない。31日はどうなんだろうか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




オートゥイユ墓地へ。

多くの旅行者は日本を発つ前に、現地で行きたい名所、食べに行きたいレストラン、ブランド品を買うにあたってのお目当ての店などを調べ心に秘めて、それらを必ずしたいこと、旅程では絶対に外せないこととしてモチベーションを上げていると思う。
当然私もそうなのだが、パリでぜひとも訪ねたいと思っていた所に、画家ユベール・ロベールの墓がある。あの「廃墟のロベール」の墓だ。(弊サイトではこちらこちら
1990年代後半以降、インターネットで多くの情報を得られ、それによって旅行もずいぶんスムーズに旅程をこなせるようになったように思うが、しかしマイナーなものはネットでも知ることが難しい場合もある。ちなみに私はロベールの墓がパリのオートゥイユ墓地にあることについては、ロベールの画集で知った。


オートゥイユ墓地入口

ヴィジェ=ルブランの墓に詣でてからとんぼ返りでパリのオートゥイユ墓地を訪ねた。墓地の入口はオートゥイユ競馬場に近く、地下鉄M9線のエグゼルマン駅を降りて、ミッシェル=アンジュ通りを左に曲がったクロード・ロラン通りに面している。
墓地のマップを墓の事務所でもらってさっそく探した。すぐに見つかった。


ユベール・ロベールの墓

見つけた途端、正直「えっ!?」って感じだった。墓のさらに引いたショットを撮らなかったのは、これがあのユベール・ロベールの墓かよ!と嘆きたい気持ちになったからかもしれない。うまく表現できないが、場所にあぶれたので仕方無しに壁にしつらえました、壁の向こうはすぐミッシェル=アンジュ通りでござい、という感じがし、がっかりしてしまった。


遺骨(遺灰)?は上の壷に???



お墓を見つけられただけ、いいか。

この時の旅は、ロベールが描いた遺跡やその遺跡が描かれた作品、ロベールの良友であったヴィジェ=ルブランの墓を訪ねることにも重点を置いたが、実のところロベールの墓については旅を締めくくる飛行機に乗る4時間前に詣でようかと思っていたのだ。
しかし朝7時台から移動し、平日ならば多くが8時には開いている墓地に開園とともに訪ねるのが時間の節約、行きたいところは優先的にさっさと行ってしまう旅のスタイルをもつ私には、ある種の幻滅が早めに訪れてくれてよかったかのかもしれない。飛行機に乗る前に飛行場に向かうRERのB線から離れたところまで行くリスクを冒し、そこで苦笑いするよりは旅の中途で「がっかり」が起こるほうがはるかにましであるように思う。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




モンマルトルの街角にある、とあるカフェ

1900年10月、バルセロナからパリに出てきた画家がいた。20歳になっていないパブロ・ピカソと彼の親友カルレス・カサヘマスである。
彼らはモンマルトルのアトリエに住むが、まもなくしてジュルメーヌという女性と知り合い、彼女の妹や女友達とその仲を深めていった。彼女たちをモデルにして創作に励み、無一文になることもあったが、自由の気風が漂うパリで、彼らは彼女らとともに一見享楽的な生活を送る。
その頃ピカソは万博に出した自分の作品をめぐって、芸術家として悩みを深める時期にきていたが、カサヘマスはジュルメーヌに熱を上げていく。ジュルメーヌは男をとりこにする方法をよく知っていた女で、多くの男たちに色目を使っていた。カサヘマスは彼女への不安と嫉妬で次第に心を病んでいく。
親友の心の病を心配したピカソは1900年12月末、彼をジュルメーヌから強引に引き離し、二人でスペインのマラガ(ピカソの生れ故郷)の安宿に身を寄せた。しかしカサヘマスはジュルメーヌのことを忘れられず、酒びたりになる生活を一ヶ月近くつづけてしまう。
そしてピカソはマドリードでの展覧会に誘われ、マラガを留守にしてしまう。しかし、この時のカサヘマスとの別れが、生涯ピカソを苦しめることになる。



ピカソがマドリードに向かって20日後、カサヘマスは一人パリに姿を現す。1901年2月17日、カサヘマスは仲間たちとジュルメーヌを行きつけのカフェに誘い、その場で銃のリボルバーを彼女に向けて発砲した。彼女は床に倒れ、その直後カサヘマスは自分のこめかみに銃弾を撃ちこみ自殺を遂げた。
警察の調書に彼女は、銃弾は彼女に命中せず、倒れたのはとっさに死んだふりをした、ジュルメーヌの本名はフロロンタン、旧姓ガルガロはカサヘマスの愛人でなかったと証言。しかも彼女は既に結婚し夫がいた。これはピカソもカサヘマスも知らないことだった。









ここに紹介したカフェの画像が、カサヘマスが非業の死を遂げたモンマルトルのカフェである。お昼時、昼食を兼ねて入りしばらく居させてもらった。店員さんにカサヘマスのことを知ってるか訊ねたが、知らないとのことだった。他のスタッフの人には知っている人もいたかもしれない。ちなみに事件があったことを示す記念プレート等はなかった。
カフェの中で、ピカソと出会って2年の親友がたった三ヶ月の間に気も狂わんばかりとなっていたことに、ある意味小説的な感じを覚えた。『カラマーゾフの兄弟』のドミートリーもグルーシェンカと出会って三ヶ月も経っていないのにあの猪突猛進振りを発揮したわけだから。
カサヘマス自殺の報せを受け取ったピカソは次第に自分の絵で青を多用していく。これ以降、あの青の時代が始まるわけだが、悲報からまもなくして描かれた「カサヘマスの死」を扱った三枚の絵を、ピカソは生涯自ら公表しようとはしなかった。ピカソ最晩年までの20年間親交のあったジャーナリストにピカソは初めてその絵の存在のことを(個人的に)明らかにした。



パリのモンマルトルを舞台にした一人ひとりの芸術家の物語は、それこそ調べだしたらきりが無いだろう。しかし、ガイドブックになかなか載ることのない、現在も残る貴重な場所は町のいたるところにあって、調べればきっと芸術家縁の場所を見つけることが叶うだろう。それもまたパリの醍醐味の一つなのだと思う。


カフェが売り出しているオリジナル・バーガー。美味かった。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ルーヴシエンヌ駅舎



サン=ラザール行はすぐに来そう



郊外へ向かうter(都市間を結ぶ快速列車)は大体こんなタイプ






再びサン=ラザール駅

モネが描いた頃の駅とは違い、今はプラットホームがしっかりしている。





駅の手作りジュース屋

ジュース屋だとは思わないままバナナを買いに店員の女性に声をかけたが、目の前でジュースを作るんだよ、と言われて苦笑した。バナナ一本だけ売ってくれない?と頼んだら、「バナナ一本ならおごるわ。お金は要らない」と言われ、遠慮なくもらっておいた(笑)。もちろんお礼は言った。


サン=ラザール駅前


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




マダム・デュバリー城の入口(城は非公開)

再びルーヴシエンヌ駅に向かうまでに行けそうな、シスレーとピサロの絵の場所に足を運んだ。ルイ15世の愛人となり権力を振るったマダム・デュバリーの城のあるマシーヌ通りにその場所はある。


ピサロ「ヴォワザン村」(個人蔵)






シスレー「セーヴルへの道,マシーン通り、ルヴシエンヌ」(1873)(オルセー美術館蔵)




時間の許す限りで、見つけられたのはこれだけ。あとシスレーが住んだ家も探してみたが、住んだ番地の近くをぶらぶらした程度にとどまった。
しかし、ルーヴシエンヌは19世紀後半の印象派の画家が描きそうな家々が本当に少なくないなぁと思った。








ここの通り名は「ヴィジェ=ルブラン通り」

パリに戻るため、再び駅へ。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




アルシュ(Arches)通りと水道橋跡



ジェネラル・ルクレール通りから見る市役所と教会

ルーヴシエンヌという町は印象派の画家たちと深い縁がある。町のあちこちに作品が描かれた場所があり、絵画の場所を示す紹介板があるのだ。
ヴィジェ=ルブランの墓に詣でたら即パリに戻って次なる目的地に足を運んでもよかったのだが、せっかくルーヴシエンヌに来たわけだから、帰りの駅までにある町に住んでいたアルフレッド・シスレーやカミーユ・ピサロ縁の場所を探してみようと思った。(タイトルにある番外編あつかいでなく、こっちをメインに私ならするけどなぁと言う人もおられる方が多いかもと、これを書いていて思う(笑))
で、真っ先に探してみたかったのが


シスレー「ルーヴシエンヌの雪」(1878)(オルセー美術館蔵)

が描かれた場所であった。
手がかりとしては、小学館の「世界美術大全集・西洋編 22」p422~423にある解説しか調べていかなかった。





道を間違えたところにいた猫



右にグランド・フォンテーヌ通り



グランド・フォンテーヌ通り

解説では作品が描かれた場所について特定していない。しかし、実際に行ってみると、あぁなるほどねぇと思える感じではあった。(以下の画像のいずれかの場所が描かれた場所であると断言はしないし、門外漢の私に責任は持てないことをお断りしておく。)











ひょっとして、ここではないか?と思った、その①



ひょっとして、ここではないか?と思った、その②




個人的には「その②」の場所がそうかも?と思う。
当然、シスレーが居た頃とは建っている家やその壁が異なっている可能性は十分にあるし、そもそもルーヴシエンヌ内の別の場所である可能性もある。
しかし、短い時間ではあったが探索を楽しむことができた。別の絵で場所が判明しているところにも行ったが、それは後日。

つづく

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ヴィジェ=ルブランの墓

行ってみて感無量であったことは確かだが、墓に着くまでの自分で調べたプロセスとそれを終えたことの達成感を覚えたことが何割か混ざっていることは否定できない。
正直に書くが、私はヴィジェ=ルブランについてはネット上の情報や世界美術全集の一部に載っている程度の情報しか知らない。
ただ、青春真っ盛りの頃に覚えた、日本でもよく紹介されるダヴィッド以降のフランスの革命期美術やロマン主義の作品たちの傍らで、ひっそりとだが優美さと繊細さを感じさせかつ存在感を放つヴィジェ=ルブランの作品には、小説を読み始めた頃からずっと憧れていた。そして行動できる範囲で作品をみた。
ユベール・ロベールの絵が廃墟のロベールというぐらい一定の型をつくったが如く、ヴィジェ=ルブランの絵は、ロココ期の美術の肖像画の美の型として完成の域に達したと私個人は思っていて、またそこには次の動乱の時代を知る者にとっての理想郷や郷愁を感じさせるように思うのだ。


墓碑銘は“Ici, enfin, je repose…”(ここで、ついに、私は休みます…)



墓地はそこまで広くないし案内板もあるので大丈夫とは思うが…

墓そのものについては古い写真のもののイメージが私の中では強く、墓碑がきれいに塗られ、故人の名と墓碑銘がくっきりと黒塗料でなぞられたものに「リニューアル」されたものであったのがちょっと残念だった。ちなみに前ヴァージョンでは墓碑の天辺は十字架になっていたが、見ての通り今は十字の下の柱部分の一部しか残っていない。


墓から見える光景はこんな感じ。



ヴィジェ=ルブランの「自画像」(1790)

ウィキペディアのヴィジェ=ルブランの項

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ジェネラル・ルクレール(General Leclerc)通り
(文字化け防止のためアルファベットのアクセント記号アクサンテギュ等は省略しています)

ルーヴシエンヌにヴィジェ=ルブランの墓があることは分かっていたが、具体的にどこにあるのかはいくつかの情報があったとはいえ確信が持てなかった。外国のサイトでは墓の画像に加え、墓のある位置(墓地の位置)をネット上のマップで示してくれているページもあるが、本当にここにあるの?と思わざるを得ないものだった。
よって墓地の場所を候補として二つに絞り、自分で地図を作成し、どちらが正しいかはルーヴシエンヌ市役所で訪ねることにした。


ルーヴシエンヌ市役所(地図ではMairie(市役所)とある)

市役所受付の若い女性は私の発する「ヴィジェ=ルブランの墓はどこですか?」のフランス語はまったく聞き取れなかったらしい(笑)。で、英語でセメタリーを連呼してしまったが、その発音もまずかったらしく、どんどん困った顔になっていく。
しかし、私たちのやりとりを聞いていたおばちゃんの職員の方が「墓地のことだ」みたいなことを言ったら、受付の女性がフランス語で(市役所の前の道を右に)「Continuez tout droit jusqua ce carrefour.(十字路までまっすぐ)と言うのはかろうじてわかった。お礼を言い口癖のようになった「よい一日を」と告げ、「あなたもね、ムッシュー」と返事をもらった。雨なのに気分がよくなった。


ヴェルサイユ街道



たしかに十字路だ。目印の水道橋跡が見える



cimetiere(英cemetery)とある



水道橋跡

ルーヴシエンヌ市の歴史は意外とかなり古い。なんとガロ・ロマン時代(ガリア人のローマ化が進行した前1世紀半から5世紀)にさかのぼるらしく、12世紀から13世紀にかけては町の中心に聖堂が建立された。
本当に町が栄え始めたのは17世紀にルイ14世が、セーヌ川からマルリー城とヴェルサイユ宮殿に給水工事を始めてからである。
この水道橋を流れていた水はマルリー城とヴェルサイユ宮殿で使われていたのだ。


墓地の入口

一瞬閉まってるのかなぁと思ったが、左の「犬禁止」のマークのある黒い扉から入れた。





墓地には案内板もある。かなり助かる。




墓地への地図はこちら


つづく。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




駅に着いた




駅前のジェネラル・ド・ゴール通りを西に歩いていけば、ヴォワザン(Voisins)通りとクロワ・ルージュ(Croix Rouge)通りの分岐になる。私はクロワ・ルージュ通りの方に入り、町のシンボルの教会へ向かった。


ヴォワザン(Voisins)通り



クロワ・ルージュ(Croix Rouge)通り



クロワ・ルージュ通りをひたすら進み公園に突き当たったら右折

クロワ・ルージュ通りを右折してジェネラル・ルクレール(General Leclerc)通りに入ったら教会が見えてきた。


町のシンボルの教会までは結構上り坂がつづく

あまり東洋系の人が住んでいないのか。すれ違う人は私の顔をじっと見つめる人がけっこういた(笑)。


パリではあまり見かけない口が一つのポスト



町のシンボル教会



開いているかなと思ったが閉まっていた



情報を集めるために検索したサイトでは「のだめ」の撮影に使われた場所らしい






市(いち)の準備が黙々と行なわれていた

空に少し青空が見えたとき、朝9時を告げる鐘の音が鳴り響いた。その後、道に迷ったりしているうちに雨が降ってきて、正直ついてないな、と思った。

つづく。

 ***

ルーヴシエンヌへのアクセスのために参考にさせていただいたサイトは

 ★ルーヴシエンヌへ、ヴィジェ・ルブランを探して(ノーテンキ漫画家のブログ 様)
 ★のだめツアーin Paris:10.パリ郊外(たまごのひび 様)

です。この場を借りて、厚く御礼申し上げます。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ