デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



川合康三『杜甫』 ★★★★★  
…学校で漢詩を習っても日本の奈良時代の頃に唐で活躍した詩人の一人が杜甫であることは覚えられないし、「春望」や「絶句」は知っていても、他にさまざまな詩を詠んでいることは知らずに過ごしていることを改めて感じた。

ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史(上・下)』 ★★★★★

ユヴァル・ノア・ハラリ 『ホモ・デウス(下)』 ★★★★★

グリンメルスハウゼン『阿呆物語』 ★★★★★

カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』 ★★★★★

興膳 宏 『杜甫のユーモア ずっこけ孔子』 ★★★★★

ハヴェル『力なき者たちの力』 ★★★★★

井上章一『京都ぎらい』 ★★★★★

石澤良昭『アンコール・ワットと私』 ★★★★★
…著者のアンコール・ワットへのひたむきな思いのみならず、アジア人や西洋人の研究者が遺跡の管理や修復を独占することのないようカンボジア人の手による遺跡の修復と管理を目指したプロジェクトに深く関わった話はとても心を打つものがあった。

井上章一『京都ぎらい-官能篇』 ★★★★★
…いつの時代も複数人の男を同時に魅了する女性はいることがよく分かる内容で、話のネタに困ったらついその内容に頼りたくなる(笑)。

若松英輔『本を読めなくなった人のための読書論』 ★★☆☆☆
…旅行が中止になり、旅行先に関する本へのテンションが下がったときに手に取ったが、むしろ齟齬をきたす結果になった。

柳田国男『口語訳 遠野物語』 ★★★★★

石井正己『NHK「100分de名著」ブックス 遠野物語』 ★★★★★

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン(上・下)』 ★★★★★
…読んでいて、自分はこんな残酷な世界に生きているのか!?と唖然としたが事実をきちんと調べた上で書かれているので内容を直視する価値は大いにある。「危機」に便乗し緊急措置や弾圧を正当化しやりたい放題する強大な権力や企業勢力が、ショック状態におかれた国民になにをもたらしてきたのか、これからの未来を考える上でぜひ頭に入れておきたいことばかりだった。

マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』 ★★★★★

***

越年読書
『「私」は脳ではない』、『ペストの記憶』、『坂の上の雲』、『燃えあがる緑の木』、どの作品も読了まで2021年一杯かかるかもしれない。

来年もよい本と出会えますように。
そして画像の割合が多くなった弊ブログですが、来年もよろしくお願いいたします。


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泉屋博古館で開催された「開館60周年記念名品展 モネからはじまる住友洋画物語」
京都文化博物館で開催された「特別展 舞妓モダン」
京都国立近代美術館「森口邦彦 友禅/デザイン」

今年は以上の4つの特別展を鑑賞した。このご時世からして4つも行けただけいいのかもしれない。


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・「ナバロンの要塞」(1961)★★★★★

・「ユリシーズ」(1954)★★★★★

・「海外特派員」(1940)★★★★★

・「コクーン」★★★★★

・「最強のふたり」(2011)★★★★★

・「終電車」(1980)★★★★★

・「コクーン2」(1988)★★★★★

・「必死剣鳥刺し」(2010)★★★★★

・アラン・ドロンの「仁義」(1970)★★★★★

・「アメリカン・グラフティ」(1973)★★★★★

・「ダーティハリー3」(1976)★★★★★

・「クォ・ヴァディス」(1951)★★★★★

・「ジャッキー・ブラウン」(1997)★★★★★

・「天地創造」(1966)★★★★★

・「心の旅路」(1942)★★★★★

・「アルゲリッチ 私こそ、音楽!」(2012)★★★★★

・「舞踏会の手帖」(1937)★★★★★

・「スターリンの葬送狂騒曲」(2017)★★★★★

・「運び屋」(2018)★★★★★

・「聖衣」(1953)★★★★★

作品毎に感想を書こうと思っていたが、結局「コクーン」しか短い感想を書けなかった。
どの作品も制作された時代のことを考えればがんばって作られた作品ばかりだと思う。それにいっちゃなんだが、「心の旅路」が作られた頃、日本はどんな映画を作ってたか調べると、なんとも言い難いがっくりくる気持ちに襲われたりしたものだ。
今年鑑賞した作品のなかで最もインパクトがあったのは、「ジャッキー・ブラウン」「アルゲリッチ 私こそ、音楽!」「スターリンの葬送狂騒曲」「運び屋」の四作品だと思う。なかでもピアニストのアルゲリッチのドキュメンタリー映画はリアルな「オールアバウト・マイ・マザー」を見ている気になって、人様の人生に対して普段からいかに自分基準で軽く考えがちになってしまっているのか痛烈に反省させられるものがあった。


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北の方角。古墳群があるそうだ。


第一次大極殿



大極殿は第一次大極殿院の中心をなす建物という。


第一次大極殿院は復原工事中


遺構展示館にあった屋根の部分復原も投影されているのだろうか。

大極殿入殿の前には手指消毒と検温


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遺構展示館












































素人目にはただの柱穴跡を見たところで何が分かるんだろう、現代になって描かれる復原図は本来のものより誇張や華美な面があるのではないかなどと、つい自分でよく調べないまま斜に構えたような疑いをもってしまったりしたものだが、ここに来ると過去の自分の言動はあまりにも適当で慎むべきものだったなぁと反省してしまう。


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東院庭園から北へ




いまも発掘が続けられている個所がある

推定宮内省を南東から

南の方に目をむけると小さくではあるが朱雀門が見える










推定宮内省





紙は貴重品だったこともあり行政文書の
媒体には主に木簡が用いられた時代だ。




木簡は表面を削り直せば再利用できるとあるが削られた内容というのは膨大な量なのだろうな、特に時代の変わり目の木簡の削られた内容がすべて伝わっていればなぁ、などと考えてしまう。
また中国の公牘(こうとく)のことも思い出したりした。




日が照ってきた


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東院庭園



平城宮の東に張り出した部分が『続日本紀』に見える「東院」にあたり、その南東隅に大きな庭園の遺跡が発見されたのは1967年という。比較的最近のことのように思ってしまった。


























奈良時代に用いられていたであろう石をそのまま用いているという。割れていた石も接着して復原したものもあるとか。





まさか曲水流觴(曲水の宴)も催された?(笑)

あえて曲水にしていたのであれば、上流から竹筒等に入れたお酒を流して下流に流れ着くまでの間に歌を仕上げて詠むような宴も催したかもしれない。
とはいえ東院は迎賓館に相当する建物であり、その庭ではさすがに可能性は低いか(笑)。




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マルクス・ガブリエル著(清水一浩訳)『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書メチエ)、読了。

新しい考え方が頭の中に入って来たと思うと同時に、著者のいうことは至極まっとうすぎて当たり前の事じゃないかと思ったりしたのが読了直後の感想だった。これは当たり前のことに今さら気づいた自分に対して残念な気持ちを覚えるといえるだろうし、おそらく本の内容は理解できていないことになるのだろう。が、非常に有意義な読書だったように思う。
著者の唱える新実在論の始まりのきっかけは、ひょっとするとグローバリズムが地球を席巻しようとする流れの根底にあるのが、著者のいうところのフェティシズムだとするなら、まさに、およそ崇拝される対象が存在していることそれ自体に批判を向けたところからも、あったのかもしれない、などと勝手な事を考えてしまった。
新実在論が当たり前のようで新しいのは、ある意味、自分の精神と精神自身、人と人、人と集団、集団と集団、国と国との間にはフェティシズムの共有と強要が当然の如くまかりとおっている現実にあって、フェティシズム的自己完結な「統一性のある世界」を、とりわけ西欧は自分たちの考え方を伝道という名に変えて世界中に強要し推し進めてきた歴史をもつがゆえに、著者の新実在論はヨーロッパにおいて脚光を浴びたのではないかと思ったりする。
こんなことを書くとまるで西欧の人々が物ごとにたいしてさまざまな見方をしてこなかったみたいな言い方になってしまうが、それはそっくりそのままアジアの歴史や哲学にも同じことがいえるだろう。
おそらく誤用だろうが、日本に国民性として掬うおよそ崇拝される対象が存在していることそれ自体の一例として「(不当な状況下にもかかわらず)空気読め」と互いに強要しあう同調圧力的なものが挙げられるように思う。漠然としたかつ矮小化したようないいかたでなんだが、この不必要な統一性を促す同調圧力的なものに従属し、結果的に自らの首を絞めることのないようにするには、同調圧力的なものの本質を見極めることが大事で、その見極めにはこの著書で挙げられている、間違いもひとつの意味の場であることを認識することから、見極めの一歩が始まるのだろうと私は考える。思考することは大事なことだと改めて気付かされる本だった。


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建部門(東院南門)


























建物復原の考え方の説明内容で興味深かったのは最初の数行に平安時代の絵図も視野に入れながらとあることだった。
遷都の際、単に棄都するのではなくこれまで使っていた主要施設(すべてではないにしろ)を解体しその資材を遷都する所に持って行って再建したことも知られているし、造都の事業についてはそのノウハウを持っている設計者が朝廷に官人として存在していた可能性は高い。
よって平安時代の絵図は平城京の復原の設計図を作成するうえで欠かすことのできない資料なのだろう。その意味では平城京と平安京は決して別物ではなく地続きといえるのだ。


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