デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



飛鳥寺境内

左の方に飛鳥寺形石燈篭(南北朝時代)が見える。

瓦の文様は百済のものと同じ構成とある


大仏光背の破片が残されているとは。





塔心礎中心。いまは碑が残るのみ。



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閻連科 作(谷川毅 訳)『愉楽』(河出書房新社)、読了。

閻連科の作品は『炸裂志』以来だが、作者への敬意としては訳者によるあとがきに

着想の奇抜さもさることながら、それを起伏に富んだストーリーに組み上げる才能には脱帽します。

とあるこの一文に尽きる。
作者もよく触れているガルシア・マルケスの作品の雰囲気に加え、『愉楽』にはトーマス・マンの『ヨゼフとその兄弟たち』の雰囲気が強いように思った。
作品の中で起こることは荒唐無稽な出来事ばかりだが、「まるで本当にあったことのようですね」と思わず読了後につぶやいてしまいそうになるし、いかにも中国で実際に起こっている出来事であり、人間の欲望の際限の無さは確かにこんな風だという感じを今回も受けた。
どうしてこうもリアリティを感じてしまうのか、「くどい話」を用いてあったこともあるだろう。河の流れに例えるなら大河がストーリーの中心をなし、読者はその流れを追うだけで十分なはずなのに、大河に注ぐ数々の上流からの支流が「くどい話」なのだ。支流は受活村の生活に割り込み、また村としても良かれと思って受け入れた社会思想や社会システムに他ならず、支流は村に何をもたらしたか目を背けたくなる歴史的背景そのものである。この否応無しのまさに「くどい話」の反復に、近世から現代にかけての中国の過去の辛い仕打ちを決して忘れないぞ、記憶の忘却を許さないぞという信念と凄みが感じられた。


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飛鳥大仏

奈良市から南へ、天理市と桜井市の西側を縦断するかたちで明日香村を訪ねた。数年前は石舞台古墳しか見学できなかったが、今回は時間的余裕もあって飛鳥寺やいくつかの遺跡めぐりを楽しめた。
飛鳥寺は仏教の寺としては創設が日本最古である。法隆寺や興福寺のような五重塔やいくつかのお堂が建っているようなものを期待していたが、目立った建物は江戸時代後期に建てられた本堂だけだった。
とはいえ、火災や雷火に遭う前の鎌倉時代まで残っていたとされる頃の飛鳥寺の姿が、研究によって明らかになり復元図となって本堂の中に展示されているのを見ると、その規模たるやかなりのものだったことが分かる。

聖徳太子孝養像

阿弥陀如来坐像

堂内で説明を担当しているおじさんいわく、聖徳太子孝養像は聖徳太子が生まれた場所の方角に向いているのだという。
本尊の飛鳥大仏の造立や当時の伽藍の建立には推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子、百済からの渡来系の僧や技術者といった飛鳥時代の重要人物たちが関わっている。


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興福寺(東金堂と五重塔)


五重塔


東金堂

国宝館でこの日の目的の阿修羅像ほかを鑑賞した。旅先でありがちな、目的のものが他の都道府県や外国で展示されている可能性をつい考えてしまい、入館の前に訊ねてしまった。
館内には阿修羅像のほかにも仏教縁の神さまの像や仏像や釈尊の弟子たちの像もあり、像の造形の見事さを堪能したのみならず、弟子たちの名前の当て字としてどのような漢字が用いられているか、改めて勉強になった。





中金堂

今の中金堂は復元されたものとはいえ、藤原不比等が創建した当初の姿に、よくぞここまでやったなと脱帽物だった。
それしても藤原不比等の「不比等(他に比べようもない優秀な者)」って天皇よりも権力があるかのような実質上の支配者だったことを言わんとしているようなすごい名前だなと改めて思う。
 
南円堂


白鳳時代に起源をもち、天平時代(奈良時代)に寺勢を誇った興福寺は後世に南都六宗の一つの寺としても挙げられた。興福寺の歴史および建物についての詳細はこちら
南都六宗についていつも思うのは今でも葬式仏教とは無縁な、つまりは墓地も檀家も持たないところ、葬式仏教臭くないところの良さだ。実際、寺院の住職が亡くなるとそれぞれの寺で葬儀が行われず、葬儀は別の宗派の僧侶が担当するほどなのだ。
これは飛鳥時代から奈良時代にかけての仏教組織が死者を葬ら為の宗教組織でなく、高度な学問体系をもつアカデミックな組織だったことに由来する。

奈良県庁

ちなみにここから西に3km弱の所にある奈良市庁舎のデザインは座禅を組んでいる形を表現しているとのことだ。


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奈良公園 登大路園地


興福寺の五重塔が見える




興福寺の近くなので人が良く通る。
鹿も鹿せんべい目当てにやってくる。


数人の外国人観光客が鹿せんべいを
与えたので鹿が一気に群がってきた。










興福寺へ


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奈良公園付近の公道では日常風景だ

奈良公園周辺の標識には「鹿のとびだし注意」を促すものもあるし、路面の「動物とびだし注意」の標示も鹿の絵が用いられていたりする。


奈良国立博物館の傍の売店


鹿が敷居を跨ごうとするのも日常風景


県庁や興福寺へも繋がる登大路(のぼりおおじ)地下歩道


地下歩道がいつ作られたのか詳細は調べられなかったが、昭和44年(1969)に近鉄奈良駅が地下駅になるにあたり、登大路の拡張も進められていた同時期もしくはそれ以降のことだろう。
横断歩道による交通渋滞の緩和、および道路の横断による観光客の事故防止に大いに機能している。

ここにも鹿が普通に入ってきたりする。
初夏から真夏にかけての急な雨のとき
地下歩道で雨宿りする多くの観光客で
ワイワイにぎやかになるのも風物詩かも。


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奈良公園や東大寺参道には鹿が一カ所に
集まっているイメージが強いかもしれないが

参道の横にふと目をやると小さい川が
流れていてそこに鹿が点在していたりする









でも、参道に戻ればこの通り。


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大仏殿まで戻ってきた


日が気持ちよさそう


南大門を内側から見上げた


再び参道











よく見る光景だが露店の人はしっかりチェックしている


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正倉院・正倉



画像では伝わりづらいかもだが、本当に床が高かった。























正倉院については画像にもあるとおり説明があるのでここでは詳しく触れない。また外構からの見学時間や曜日についてはこちらで知ることができる。
東大寺に来るたび、いつかは正倉を見てみたいと思っていたが、今回ようやく、それも開門直後の一人での見学というありがたい形で叶った。
子どもの頃に見た図鑑に載っていた写真のイメージでもすごそうな建物だなと思っていたが、実際に見る正倉は「ただの倉庫(蔵)じゃないか」と切って捨てたようにいうにはあまりにももったいなく、本当に大きく決して自らを飾ることの無い威厳と風格が漂っているように感じた。


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若草山が目と鼻の先に


春日野園地から正倉院に向かった。途中に講堂跡があるようなので寄ることにした。


東大寺 講堂跡へ


正倉院の外構への入口はまだ開いていなかった





東大寺 講堂跡よりも人に鹿が集っているほうに目が行った


餌を与えたから鹿がついて行っているんだろうなぁ







正倉院外構には一番乗りだった。


目の前に現れただけで胸が熱くなった。


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