デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



先日、中国映画を支えた日本人~“満映”映画人 秘められた戦後~という2006年に放送された番組の再放送を見、戦前「満州映画協会(満映)」に勤めていた日本人の映画人が中国映画「白毛女」(1950)に深く関わっていたことを知った。
作品の制作は東北電影制片廠という会社だが、そこには戦後日本人スタッフが中国に残って働いていた。残った日本人映画人たちは第二次大戦後の中国映画の技術発展にも大いに尽力したが、そのことが公に知られるようになったのは今から十数年ほど前だったという。その事実を知り俄然作品を観てみたくなった。
「白毛女」は中国共産党の意図やプロパガンダが反映されるようなものになっているので内容は想像通りだった。とはいえ全てのセリフが分かったわけじゃない。私が観たバージョンは中国語字幕のみの中国語版だったからだ。けれども内容が沪剧(上海オペラ)のような音楽映画なので何が描かれているのかはよく分かった。
正直なところこのストーリーで100分以上の長編に仕上がっているというのは観ていて辛いところもあった。しかし、監督の王濱が制作に向けて並々ならぬ意欲を持って臨んだ事や製作スタッフのテロップに日本人スタッフの名前を日本名で出せなかったこと、日本人スタッフの苦労談のことなどを思いつつ観ていたら、形ある物を残す映画人たちの堅忍不抜とひたむきさを感じ取れたような気になった。
おそらく「時代背景」や「苦労談」の予備知識なしに作品だけを観て率直に感じたことを書いたならば、こんな風に思わなかったろう。ただ例え予備知識なしに観ても、作品のつくり込みの丁寧さだけはきっと印象深く残ったことと思う。

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少しでもタイ美術について勉強して行けばよかったなぁと思った…。

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インドや中国の陶器と共通点がありそうだ














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ナヴォーナ広場

マリオ・プラーツ著(伊藤博明・上村清雄・白崎容子 訳)『ローマ百景Ⅰ・Ⅱ』(ありな書房)
読了。
読み終えたのは2週間ほど前なのだが、なかなか感想というか、この論文集についての考えがまとめられずにいる。
それにしても読了までに長い時間がかかった。同じような読書体験としてはゲーテの『イタリア紀行』の時のようだったといえるかもしれない。『イタリア紀行』も『ローマ百景Ⅰ・Ⅱ』も長い時間をかけなければ読めなかった。(分量的にはるかに多い『チボー家の人々』の方がペースが断然早い(笑))
『イタリア紀行』と『ローマ百景Ⅰ・Ⅱ』はともにイタリアについて書いている本で、ゲーテはドイツからの来訪者の立場から、プラーツはローマに居を構えた立場という違いこそあれど、どこか読みづらさを覚えさせるような臭味を読者に感じさせるようなものを感じた。
しかし『ローマ百景Ⅰ・Ⅱ』は、ドイツから訪れたゲーテとは異なり、ずっとローマにあった人が書いた文だ。旅行先でバスや地下鉄でさっさと移動してしまう私には決して味わえないものが詰まっていた。その内容は常に辛らつであろうと思っていたわけではないのだろうが、読者や一旅行者からすれば、偏屈な懐古趣味にも映るし、かつて汚くて雑然としていたものでも楽しく感じたことを称揚するようなものでもない内容に辟易するかもしれない。実際、他人にとってみればなんら面白いところがない単なる学者や評論家の嘆きに映るかもしれない。
ただ、都市の姿が変貌を遂げていく様を昔の文献を紐解いて研究するのみならず、日常の生活でもそれをつぶさに目にした人であるがゆえの辛らつさに対しては、どこか同情する余地があるように思う。老人にかつて少年期があったことなど想像がつかないように、都市にも昔の絵画や写真で写された時代のことを想像することは難しいと分かってはいつつも。


ナヴォーナ広場



ナヴォーナ広場のサンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会



エマヌエーレ2世橋

『ローマ百景Ⅰ・Ⅱ』を読み終えてから、本に出てくる場所の画像を探してみた。プラーツ氏が若かりし頃の雰囲気とはまるで違うことであろう。一旅行者では本にあることのわずかな要素すら知ることはできなく、今はこんな風です、としかいうことができないのが関の山だ。今はこんな風です、という行為は相手にとって時に悲痛なものをもたらすが、そんな私でもヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂が21世紀に入った現在でも俄然存在感を放っていることに軽々しく言及したくはないと思っている。

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こちらのパート2になるようなことが起こるとはねぇ…。

昨日のお昼時、車の定期点検の予約にディーラーに行ったら、新しい担当者に名刺渡されて挨拶された。明るい感じの担当者で好感が持てた。

夜、奇しくも↑のページで触れている同じファストフード店で『チボー家の人々』のエピローグ2(最終巻)を読み進めていた。主人公アントワーヌとフィリップ博士の長年の付き合いであるが故の残酷な運命が判明してしまう切ない場面を読み終えた。それが夜の8:20過ぎ。
『チボー家の人々』を閉じて、中国語の旅行会話の例が載った紙を見ていたら、左隣に着物を着た白髪の混じったおばさんと黒のタンクトップと黒のズボンを履いた50代ぐらいのおばさんが座った。黒のタンクトップのほうは足を組んで座り、ジュースのストローがついていなかったのをゴミ袋を入れ換えていた店員さんに訴えた。店員さんがストローをレジから持ってきてお詫びをした。
おばさん二人の会話は30cm程度しか離れていない私の耳にも否応なく聞こえてきた。平尾昌晃氏死去のニュースからその息子たちの話題になり、話題がころころ変わりながら、最近よくある遺産目当てに旦那を殺害するニュースや、ひきこもりや精神疾患のある息子が老いた父親の小言に逆上し父親を殺害するニュースや、いたって普通の健常者が父親や母親と口論になり逆上して殺害するニュースのことをなどを話題にしている。
着物の年上のほうのおばさんが黒のタンクトップの相手に向かって「あなたは大丈夫?」と訊いた。黒のタンクトップは「私は喧嘩してもどこか冷静なところあるし大丈夫。ただ、もしやるんなら徹底してやるし、毒を混ぜる。砒素とかを食事に」と答えた。
私は思わず足を組んでいる斜め前に座っている黒のタンクトップの顔を見た。目が笑っていなかった。私は黒のタンクトップの顔と痩せ型の体格と痩せている右腕の上腕に小指の先ほどの大きさの痣があるのを嫌でも記憶に刻み込まざるを得なかった。そして店内の壁にかかってある時計を見た。8:35を指していた。
5分ぐらいして店長が「ただいま満席ですが後に来られたお客様の席がありませんので、長時間おられる方はどうか席をお譲りくださいませ」と店内に大きな声でアナウンスした。着物の方が「私ら来て15分ぐらいやな」と言った。

『チボー家の人々』は小説としてあまりにも冷徹でリアリスティックで内容的に身につまされる読み手にとって厳しい作品だが、それに勝るとも劣らない、というか小説に勝っているリアルそのもののおぞましいものを耳にした。店を出るときに交番に行くこともチラと頭に浮かんだ。憂さ晴らしの可能性が高いとはいえ、潜在意識にあることがつい口から出たかもしれないのだから。黒のタンクトップの両親(義父・義母も含む)になにごとも起こりませんように…。

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チャイナ・タウンからバスに乗る






丁度下校時間のようだ






下校の生徒さんたちも乗ってきた




サナーム・ルアンでスイカを買ってデザートにした。食べながら国立博物館に向かう途中のワット・マハタートの前で一昨日私に話しかけてきたユニークな髭の男性が立っていたので今度は私から話しかけた。彼は一日の間に多くの人と出会うのだろうが、私のことはきちんと覚えてくれていた。

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熱あつの饅頭を買って食べた。美味かった。






豊富な食材の屋台があちこちに。



チャイナ・タウンの活気はまた独特なものだった



本場の中国の屋台でお目にかかれそうな
たくさんの美味しそうな揚げ物の料理だ。

この辺りだったように思うのだが、日本の某コンビニの店のロゴが入ったTシャツを着た若い娘が歩道の向こうから歩いてきて、正直目を疑った。そのコンビニでバイトをしていてその序で、というのなら分かるんだが、そういう風には見えなかった。所かわればそのロゴがファッションになることがあるのかもしれないと思った。

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華やかなタイ式マッサージの呼び込みが多かった通りから路地に入ってみた。屋台が並ぶ小路地だ。


砕氷機か。氷がまるで雪みたいになっていた



写真によるメニューが貼られていたので屋台の男性に指で
しめし注文したら、その男性は斜め向かいの屋台の人だった。
一昨日の失敗を繰り返してしまい頭を抱えたくなったが、
ありがたいことに私の代わりにタイ語で注文を伝えてくれた。
お礼を言ったら即「マイ・ペン・ライ」と返事してくれた。



とても美味しいご飯に留まらず、
うれしいことにサービスで氷水も。



おばちゃんや年配の婦人たちの声がよく響いていた。お昼時、この
界隈の人たちが食事しながらおしゃべりを楽しむような空間だった。


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この二週間、山でユニークな人との出会いが続き、話し込んでいるとついつい陽が沈む直前まで長居してしまうことが多くなった。









過去に日本に留学し、一度台湾に戻ってから再び日本に住むようになった台南出身の男性とのマニアックな台湾の話題を繰り広げたあとに、イタリア出身で現在アメリカ在住の日本語も片言ながら話せるイタリア人男性のアート作品を拝見した日は最近ではもっとも印象に残った日の一つになった。
数日前には火床で座禅を組むフランス人青年と出会った。座禅について少し訪問先の寺で習ったと言っていたが、充分さまになっているのみならず「すべてを捨て去り、心を静けさで満たす」「仏教の包容力と日本人が持つやさしさの一面との関係・共通点」みたいなことを分かりやすい英語で言っていたのに脱帽した。
座禅の青年の翌々日にワーキングホリデーで日本語学校にも通っているフランス人男性と出会った。私が仏文学作品の影響からプルーストの墓に詣でたことや、ロベールの絵画作品について話すと、彼は平安期の名残が市内に存在することや日本の街のつくられかたに見られる西洋とは異なる興味深い独自性を語り、ワーキングホリデーの一年じゃ足りんと言ってくれたりした。
見方や感じ方はさまざまでその都度とてもいい刺激になる。自分はまだまだ知らないことが多いと実感する。

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日本で初めてラーメンを食べたのは「水戸黄門」ではなかった…歴史書き換える大発見

人間は食物を摂らないと生きられないから、ある意味料理のルーツや逸話といったものはまだまだ発見されていない驚きの事実があるのではという気がする。
ラーメンに限っていえば高麗から依頼されて倭寇勢力と戦った大内義弘や明朝との交易を独占した大内義隆、ひょっとすると松永久秀あたりも作らせて食べてたかもしれないし(笑)。

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