デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



「受胎告知」の修復

美術館や教会で、長い時間がかかるであろう絵画の修復過程を見ることができたなら、それはかなり幸運であるといえよう。
世界にはデリケートな色を扱うことを仕事にしている専門家がいる。専門家は決してひとくくりにできるはずはなく、自分の得意分野を持っているわけだが、地道に積み重ねた研究・経験、磨き上げられた技術でもって仕事に取り掛かる修復家の姿には、ただただ感動を覚えたのである。

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家庭用仏壇の燈篭の構造

昨日の修理作業で、12V・2Wの電球では明るさが足りないことがわかったので、もともとあったソケットに記されていた125V・1A以下を参考にし高い電圧OKの電球で点けてみようと思った。そして、168円で売ってる100V・5Wの電球を使うことに決め、長年の付き合いの電器店へ100V用の電気コードとソケットを買いに行き、ついでに線の加工作業について助言をもらってきた。助言自体は10分で済む内容なのだが、仏壇業者による昭和の荒い配線の話を面白おかしくしたら話好きの店主にスイッチが入って、1時間以上も談笑、すっかり長居してしまった。
で、やってみた結果が上の画像。家庭用仏壇の燈篭は上下に分解できて、電気コードを燈篭の下部から上へと、つまりは吊り下げる筒の中を下から上へと電気コードを通すわけである。電気コードとソケットのコードをハンダ付けしたとき、下手ゆえにハンダを盛りすぎて、コードが筒の中に入らなかったりするという御馬鹿な失敗もあり、何度かやりなおしたことで、どえらい時間をかけてしまった。電気屋さんに頼んだら、燈篭の構造を見るか、燈篭を一時的にあずかるかして、上のように電気コードとソケットを通してから、再度客の家を訪れ、さっさと配線を終えて帰るという手際のよさで仕事を仕上げることだろう。
でも、電気屋に頼んだ場合、部品代は高めに設定され、出張費、技術料で6000~8000円の請求がくるかもしれない。その点、自分でやれば、時間と手間がかかるものの、
・ハンダゴテ680円
・電球2個336円
・1m単位売りの電気コード5m分で500円
・交換用コンセントプラグ2個176円
・ソケット2個200円
と、2000円以内で済むわけだ。最初の12V・2Wの電球テストのために買った試作の部品類を含めても2700円以内で済んでしまうのである。それもハンダゴテは家の工具として残り続けるわけである(ちなみにスイッチは家にあるON/OFF可能な電源タップを代用するので0円)。
何はともあれ、休日の作業は面倒くさかったがうまくいった。しかし燈篭が灯る時は、あの寺の坊さんが、強制的になにかとかこつけて有難くないお経あげに来る日以外、ないのである。でもまぁ、古い配線を家族が誤って触って人命にかかわるなんてことは、これからは避けられるから、それでよし。

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12V・2Wの電球でとりあえずテスト

昭和に購入した仏壇にガタがきて、観音開きの扉を父が自らの手で修理したのが先々月。
で、今回、もう点かなくなって久しい燈篭は機能するか、気になったら止まらない父が燈篭の点検をはじめたわけだが、燈篭は豆電球みたいなものを点灯させる形式なので、コンセントを挿したら点く、もしくは電球が切れてたら交換すれば点くはずである。
コンセントを挿してもなにも反応が無いので、父が配線を確認しようとしたとき、銅線の露出したところが一瞬ショートを起こし火花が飛んだ。煤(すす)も飛んだわけだから、火花を避けようとした父の右手が煤で黒くなった。父は大丈夫だったけど、その場にいた私は本当にバカだった。父が電源を入れるよう言ったり入れてから触ろうとする前に、仏壇の配線がいかなる構造になっていて線の老朽化がどのくらいまで進んでいるのか目視で確認したら、電源をいれるのは危険だと分かるはずだった。今回は不幸中の幸いだったが、なにせ相手は電気なのである。油断したら命に関わる。
仏壇にもともとされてた配線を再利用できないことに何故だか未練を残す父には悪いが、私一人で留守番する時間になった際に、古い配線をすべてとりはずして、次に燈篭を点灯させる為には新しい電線と新しい電球でしか点かないように、つまりは誰の手にも触らせないようにした。何も知らないまま、仏壇触ってお陀仏なんて笑えたものじゃない。
とりはずした古い配線、電球のソケットをじっくり調べてみた。すると、なんたることか、燈篭と点灯式ロウソクの並列接続での配線は、スイッチのついてないタコ足配線でそれも剥き出しの銅線で行っていたという、荒いにも程があるお粗末な配線だった。仏壇を購入した当時、どれ程の期間、燈篭と点灯式ロウソクを使っていたかは不明だが、引っ越す前の家でよく仏壇から火が出なかったものだ。仏壇には炊き立てのご飯を供えるだけでなく、献花もするので湿気があるから漏電を誘発しているようなものだ。その辺のことをわからず、今は亡き祖母は仏壇を触るのが好きだったから、祖母や一緒に暮らしていた我々はまさに知らぬが仏だったことになる。
燈篭は次からまともな配線でスイッチでON/OFFできるようにするよう、必要な部品や工具類を買ってきて、燈篭を点灯させた。もちろん知り合いの電気屋さんに言って、安全が確認されたら使用する。ただ、もし仏壇屋に修理に出したら、2000円以内で済まなかったろう。
余談だが、この際、ついでに振動をひろわなくなったギターのチューナーも、工具を試すつもりで修理したら、買いたてと同じように正常に作動した。
怖い思いもした、仏壇業者の手抜き配線にも憤った、すぐに買い換えちゃいそうになる器具もほんの少しの半田付けで直せた、といろいろなことを考えさせられた日であった。

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ローマの地下鉄
(画像は記事の内容とは無関係です)

外国で軽犯罪に遭いかけたり、目撃したりすると、日本という国は本当にすばらしい国であることを誇りに思える。ローマという都市に古代遺跡や美術品たちへの夢想はあったが、やっぱり先に来るのは都市のもつ現実感の方であった。

町をさんざん歩き回った日の夕方7時前、バルベリーニ広場から地下鉄A線でテルミニ駅へと向かおうとした。この日は歩き疲れたこともあり、ホームのベンチに即腰をかけたのだが、横四列の端に私、一つ間を置いて二人の女性親子?連れが座った。まもなくして空いている私の横に若い女性が座ったのであるが、男が隣ゆえか中途半端な腰のかけ方で列車を待っていた。
列車が到着したので乗車した。車内は少し混んではいたが右手で手すりをつかんで立っていても体が接触するほどの窮屈さではなかった。
次のレプッブリカ駅で列車が止まった。ドアが開いて降りる人は少なく乗ってくる人の方が多かった。その時だった。
ジーンズを履いたリュックを背負った中年の男性が、イタリア語で必至に「財布が無い!財布が無い!」みたいなことを言い出した。言葉は解せなくとも男性のアクションで、右のポケットに入れていた財布をスラれた!といったことは私でも分かった。周りは少しどよめき、被害に遭った男性がまず疑ったのは同じ駅から乗ってきた初老の恰幅のいい男性だった。スラれたおじさんは、初老の男性に身体検査をさせろといって、本当にやりはじめた。初老の男性は「なんのことだ?」と声を荒げることも無く身体検査をさせるままにしていたが、なにも出てこなかった。私は初老の男性があまりにも落ち着いているから、この人がスッた可能性があると思ってしまったが、彼は身体検査を受けながらも乗車時にすぐ傍にいたのはこの女性もだ、というようなことも言っている。
その女性とは、バルベリーニ駅のベンチで私のとなりに座った若い女性だった。私は乗車してからこの女性と正面に対するように立っていたのだが、「財布が無い!」と男性が言い出したときに男性の方を一切一瞥せず、ただ顔を伏せていた。周囲が騒ぎだしてなお振り返ろうとせず、ただじっとうつむいたままだった。
彼女がずっと顔を伏せていたのは、関わり合いたくなかった可能性も十分にある。とくにスリの犯罪などに身に覚えが無くとも、現場にいただけという理由で関わってしまったら面倒くさいことこの上ない。
テルミニ駅に到着すると大勢の人が乗降した。私も降りたのだがエスカレーターに乗っていると「目撃」したおばさんたちがおそらくその件についてだろう、話はじめた。
その事件はそれからどうなったかは分からない。ただ、私はホテルの下のバールで缶ビールを買って部屋に戻りつつ、まさか彼女だったなら、最初私が狙われていたのかもしれないとは思った。私の隣に座ったのは、旅行者である人間のポケットにあるかもしれない貴重品に当たりをつけるため!?
スリや置き引きの犯罪は、いかにも泥棒のような典型的なイメージの薄汚れたかっこうした人間が起こすというより、髪もきちんと整えいい服を着たこざっぱりしたいかにも普通の人が、平然とやってのけることが圧倒的に多いのである。事実、財布をスラれたと訴えたおじさんの周りに洗ってない服や体臭を漂わせているような人はいなかった。みんな、そんな薄汚い犯罪なんて起こしそうも無い、でも起こったのだ。(もちろん、疑われた初老の男性や、私の隣に座った女性がスリに及んだ犯人だと断定するつもりはありません。)
以上、都市ローマのマイナス面をつらつら書いたが、こういったことはおそらくほんの一例にすぎない。


早朝の地下鉄は空いていて比較的安全


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システィーナ通りにてバルベリーニ広場方面を振り返る


フラミニオ広場の信号はすぐ変った。
ちなみに奥に続く通りがかつてのフラミニア街道。


右に「モーセの噴水」。車バイクは朝からビュンビュン飛ばす


ピラミデが見える。朝の7時半前でこの交通量。

都市ローマではまず交通マナーの悪さに驚く。それは名物ともいえる。車の運転と地下鉄の運転は荒いといっていいし、歩行者も危険な横断してドライバーから怒鳴られてるのを見るのも珍しくない。車も歩行者も、信号なんて守らないのが"基本"。いや、守らないことは無い、でも隙あればすぐに発車および横断するのが当たり前。ローマは車も歩行者も皆タフでいられる明るい都市なのである。
この場合のタフのいうのは、ある意味、傍若無人で唯我独尊、権利意識の増長的なところがあるが、轢かなければ信号守らんでもよい、轢かなければ人の傍をすごいスピードですり抜けてよい、轢かないためにはバスの中におる人間がどうあろうが急ブレーキさえ踏めばよい、轢かれさえなければ、びゅんびゅん車が走る国道であろうが歩いてよい、また信号関係なしに道路渡ってもよい、そういったまさにギリギリの境界線が、むこうの互いの当然の妥協点でそれに平然としていられるタフネスである。
昔サッカー日本代表の監督を務めていたトルシエが、日本代表メンバーたちに戦いの心構えとして「赤信号でも行けるなら自分の責任で渡れ!」といった言葉を吐いて、日本のマスコミがバカに騒いだことがあったが、まさにそういう常識のもとでは当然だとわかるのである。
ただ、悪しき交通マナーの都市もバランス感覚は心得ている。とくに顕著だったのは足の不自由な人や高齢者が横断しようとしているときのマナーのよさ、日本より滑りやすい石畳の道路で雨が降ってきたときにバイクが転倒したりしたら、さっと後続車を止めて転倒した人とバイクを気遣う当然といえば当然の行為の早さである。私もそれに見習って、行く方向が同じで横断歩道で歩行速度の遅いご老人がいたらペースを合わせて並行して歩いたが、真意が伝わったら「グラッツェ・ミッレ!」と感謝されることがあった。


パラティーノの丘の出入口

都市では「ローマ・オープン・ツアー」といって、観光地の主要個所を回る二階建てバスがある。主な有名な観光地にその停留所があるのだが、ツアーの客引きの中には失礼な人もいる。パラティーノの丘の前で、思いっきりつくり笑顔で英語で話しかけてきたツアーの女性職員が、ちょっとしつこかった。私は英語もよく分からないし、さっさとパラティーノの丘に行きたかったので、「サム・アザー・タイム、バイ」と言って去ったら後ろから「シット!」と聞こえよがしに言うではないか(笑)。なんて失礼なことを言い放つのだ!?とカチンときたので、振り返り日本語で「てめぇこそクソ女だ」と日本語でにこやかに返答したら、相手も作り笑顔を返してきた。
いくらなんでも腹の立つ一言を言われたら、ケンカ沙汰にならない限りこちらも少し強い気持ちをもつ程度でちょうどいいと思ったりした。だが、これは周りに人がたくさんいて「証人」がいる場合に可能なことかもしれない。
同日の午後、町を歩いていると唾を飛ばす音が聞こえて、私の左腕にわずかだが唾液が付着した。なっ?と思って横を見ると、いい年したおっさんがこちらを見据えている。唾を吐いたときにたまたま私が通りがかっただけにしては良心の呵責なんて微塵も感じさせず堂々としていたから、恐らく私に向かって唾を飛ばしたのだ。信じられん、違法なクスリでもやってるのか?と思ったが、一人で問いただすにはリスクが大きいし、帰りの飛行機に乗らねばならぬ日だったので、「くだらん」と一人つぶやいてベルニーニ作の「蜂の噴水」まで行って洗い流した。悪いなベルニーニ、噴水を汚してしまってよ、と憐れみつつ、失礼なやつはどんな国にだっているんだし、そういうのに遭遇するときはするものだと改めて思った。


ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ作「蜂の噴水」。水は美味かった。


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システィーナ通りからトリニタ・デイ・モンティ広場へ

バロック時代の芸術家を代表するジャン・ロレンツォ・ベルニーニも手がける可能性のあった、スペイン広場およびスペイン階段は18世紀前半にフランチェスコ・デ・サンクティスによって完成したわけだが、映画のおかげで今やここも立派な観光スポットである。
しかしここはガイドブックにもあるとおり、花売りやおもちゃ売りミサンガ売り、そしてローマ戦士のコスプレをして声をかけてきて「写真を撮るのを引き受ける」ことで法外な値段を取る吹っかけ屋が多い。もちろん中には交渉次第でまともな値段でいい思い出をつくってくれる人もいるのだろうが、私が遭遇したミサンガ売りはしつこかった。
私はスペイン階段の上にあるトリニタ・デイ・モンティ広場からスペイン階段へと降りようとしたのだが、その時、東洋系の青年がセリエAで活躍する日本人選手の名前を連呼し、後ろから近づいてきた。サッカー話題なので、調子に乗ってその青年とハイタッチすると、彼は「私は名古屋に留学していたことがある、トモダチ」と片言の日本語でしゃべってきた。私の緊張の糸がゆるんだ瞬間、間髪いれず彼は私の右手首にミサンガを巻きつけようとするではないか。「こりゃ、いかん!」と慌てて手を引っ込めて、「No Thankyou!」を連呼し早足で階段を下りて逃げた。


トリニタ・デイ・モンティ階段(スペイン階段)

彼はそれでも後ろから「マタナ!」と声をかけたが、画像にあるとおり、スペイン階段は滑りやすい石の階段であったので、私はもうちょっとで足を滑らせて転倒するところであった。もし雨だったり、水で階段を清掃したすぐ後だったならば、かなり危険であった。
このような「売りつけ行為」については、ネットやガイドブックの注意事項(旅のトラブル等)に載っているのでなんら珍しいものじゃない。でも、サッカー好きが「ナカタ」「ナカムラ」「ナナミ」「モリモト」「ナガトモ」ら日本の誇る選手達の名前を出されたりしたときの、心の緩み具合は「旅のトラブル」の注意にあるニュアンス以上に、現地で自分の純粋な意識に働きかけるものであった。イタリアでサッカーの話題を、それも日本のことが褒められている話題は、やはり嬉しいのである。スペイン階段では私はこのようなケースに遭遇したが、ホテルやカフェや美術館には、サッカー話好きな人間もいるわけで、その時には「スプレーンディド!(すばらしい)」「チェ・メラヴィッリア!(あぁ、すごかった)」など片言のイタリア語をやたら繰り返すのが(私の)常なのであった。


スペイン階段からトリニタ・デイ・モンティ教会を見上げる


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サンタ・マリア・イン・コスメディン教会

都市ローマに抱くイメージはそれこそ千差万別だろうが、映画好きなら「ローマの休日」「甘い生活」「終着駅」、オペラ好きなら「トスカ」、その他もろもろ、芸術作品を通しての憧れのイメージを持っている人も少なくないだろう。
私だってそういった例から漏れない一人であると自覚するのだが、憧れというものは現地ならではの現実を目の当たりにしそして体感すると、やっぱり消し飛んでしまうことも多いのではないだろうか。
幻滅?の典型的なのは「真実の口」であろう。映画で一気に有名になったあの彫刻は、もとは紀元前につくられた下水道のフタであった説が有力であることは以前も書いたが、たとえ下水道のフタであっても映画のシーンに「夢」はある。でも現物を見てみると、なにかひどく残念な気持ちになってきたのは正直なところだった。ワイワイ行列をつくって写真を撮ろうと待っている観光客達は写真を撮ったらすぐ後ろの人に場所を譲る、ひどい団体は自分たちが撮り終えたあげくに集団で写ろうとし何度も撮りなおす、といったような、そのシステマチックな流れ作業はこっけいで、その中に自分もいることが正直おかしくなってきたものだ。それでも記念といえば記念である。


「ドネーションを忘れないでね」


***

後記:真実の口に浮き彫りにされているのは海神トリトーネである。ウソつきは噛まれるという言い伝えがあるとのことだ。

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Daydream Believer

先月、地域の祭りにバンドとして出演させていただいた記録第三弾。ギター以上に私は歌が下手だが、この日は音まで外してしまった。これも反省なので残す。
祭りの当日は、運営さんが用意してくれていた前日まで使えていたマイクが、当日になって故障し使えなくなったことで、前日に行った設定とかが意味をなさなくなったり、体育館の電源プラグが使い古されて変形していたことで、いつアンプの電源が落ちるか不安のまま演奏に入ったりと、タイトロープなステージだった。でも運営の皆さんが何かと気を遣ってくださったのは、本当にありがたくうれしかった。改めて実行委員の方々、運営の役についていた方々、ありがとうございました。

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日曜日よりの使者

先月、地域の祭りにバンドとして出演させていただいた記録第二弾。お客さんのいる前で初めてリード弾かせてもらった。でも私のギター音はよく耳を澄まさねば聞こえない。ボリュームの点でミスがあったのは確かだが、我々のステージで一番盛り上がった曲になったのはよかった。

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Guercino(1591-1666), "Sibilla Persica (Persian Sibyl)"(1647)

古代ローマの彫刻の傑作が集められているカピトリーニ美術館のなかにカピトリーナ絵画館がある。絵画館にはカラヴァッジョの「洗礼者ヨハネ」などの有名作品があるけど、それらに加えて私の目を惹いたのはグェルチーノが描いた上の女性像であった。
Sibilla Persica (Persian Sibyl)を訳せたり知っている人ならば、タイトルはわかるのだが、ラテン語、イタリア語、英語が分からない私には「ペルシャの女性(の像)」といったタイトルの当りをつけた程度で、正確なタイトルはおろか何の作品なのか分からないまま、何度もこの作品を食い入るように見つめ続けた。美しい絵であることは間違いない、でも何の隠喩だろうか?、ルネサンス以降の「バロック期に描かれた女性が学問をする風潮が高まってきた象徴だろうか?」などと勝手に解釈を自分の中ででっち上げたりしながら、カラヴァッジョとこのグエルチーノの絵の前を往復していた。
カピトリーニ美術館に行ったあとの数日後、ヴァティカン博物館に1時間以上並んで入館した。博物館には充実した作品が本当にたくさん展示されているが、中でもシスティーナ礼拝堂のミケランジェロの壁画・天井画はハイライトといっていい。いわずもがな、観光客は大量に押し寄せていたし、私もその一部となったわけだが、一応礼拝堂ゆえ静粛にしなければならないものの、あまりの観光客の多さゆえか、警備員が少ない日だったゆえか、「サイレント!(静かに!)」って注意の言葉が一切発せられないのだった。
ざわついた礼拝堂の中で事前に調べていた壁画に関する資料を読みながら、見たいと思っていた絵の場面を気忙しく探し目を鑑賞用にこさえ凝視しつつ、すごいな!と思いつつやっぱり落ち着かなかった。傍にいた日本人ツアー客の人と言葉を交わしたことがきっかけで、壁画の数枚について語りだしてまで集中しようとした。
あれを見とかなきゃ、とシステマチックに目をやった。天井画「アダム創造」「楽園追放」「デルフォイの巫女」その他、壁画「最後の審判」、ボッティチェリによる異時同図法を用いた旧約の「モーセ伝」、層々たるメンバーでもって描かれた「新約の物語」、どれもじっくり見たつもりだが、どこかざわついた印象のまま絵画館へ向かった。

帰国後、上のグエルチーノの絵の絵葉書を送った人からお礼の電話をもらった。これは何の絵ですか?と問われ、「ペルシャの女性の絵ですね」と気軽に返事して現地のことをいろいろ話したのだが、電話を終えたあと自分の中で何かが引っかかり、"Sibilla Persica"ってどういう意味だろう?思い調べてみた。この語句で検索したらなんとミケランジェロの天井画に描かれている「ペルシャのシビッラ(巫女)」がヒットした。


ミケランジェロ《ペルシャの巫女》(システィーナ礼拝堂)

そのおかげで、"Sibilla Persica"の意味が《ペルシャの巫女》の意味だったことを、より正確には《ペルシャのアポロンの神託を告げる巫女》だったことが分かったのである。
その瞬間、私の中でグエルチーノ、ミケランジェロ、そして古代ギリシャ・ローマが一気につながった。ルネサンスは宗教改革に対抗するための反宗教改革運動を推進させる狙いに加え、古代ギリシャ・ローマの古典人文学的要素を取り入れて、教皇の権威を維持、もしくはより高めようとした狙いもあった。
ミケランジェロが創世記を主題にした物語を描いている天井画の中には、聖書の預言者たちだけでなく古典人文学的要素を象徴する「デルフォイの巫女」「ペルシャの巫女」なども描かれているわけで、それに着目しただけでも大きい壁画の中にルネサンスの要素というか"姿勢"を見て取ることが十分にできるのだ。
そうか!グエルチーノの《ペルシャの巫女》は、いわばミケランジェロの時代に見直されたものを受け継いでいたのか!ひいてはルネサンスだけじゃなくバロック時代においても、ローマ帝国を意識する古代への余情はあって、巫女像を描くことも画家にとって大きなテーマだったんだ!といった、重要なことは帰国後に気づくのだ。現地にいくまで自分なりに勉強し、ルネサンスの概要を理屈では分かっていたことと、絵の読解力は別物だと改めて気づかされた。パッと絵を見ただけでは肖像画を意識した「美しい絵」にしか見えず、なぜ彼女がターバンをしてあのような服装でいるのか、書物を横に置いてるのか、ルネサンスの頃の人がイメージした「ペルシャの人の像」の典型とまでは言わないが少なくともミケランジェロの《ペルシャの巫女》との共通点はすぐに見出せたはずなのに、こういったことは思いの他、現地で気づくことができないのである。おそらく、Sibilla Persica (Persian Sibyl)を現地に辞書を持ち込んで訳してたところで、気づかなかったに違いない。(まぁ出国前にミケランジェロ作品の原題もチェックしておけよ、なんて意見もあるだろうが、それを言われたら甘んじて受け入れる)
このようなことがあったあと、見苦しいようだが、自分で撮ったグエルチーノとミケランジェロの《ペルシャの巫女》を見比べて、「私はあの時ミケランジェロの《ペルシャの巫女》も凝視していた」ことを必至に確認した。でも、やっぱり「見る目がある者は見よ」であり、見て美しいと感じたものも意味とその理解が伴っていないと、帰国後に改めて得た作品の印象はどこか苦いものが混じるような気がしている。

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