デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



フィーユ・サン=トマ通りと、九月四日通り

「九月四日」と聞くと、ナポレオン三世のあとの第三共和政成立と関連がありそうだが、この通り名はそれにちなむものかもしれない。


証券取引所を後にする

七月革命のひとこま。ある婦人は男性の服を着こんで一緒に戦い、その後では女性として、取引所にはこびこまれた負傷者たちを手当てした。「土曜日の夜、証券取引所に残されていた大砲をパリ市庁舎まで運んだ砲手たちは、月桂冠で飾られた砲身にわれらの若きヒロインを乗せて連れていった。夜の一〇時頃になって、彼らは松明に照らされて、意気揚々とこの女性を再び証券取引所まで連れ戻した。彼女は、今度は花輪と月桂冠で飾られた肘掛椅子に腰掛けていた。」C・F・トリコテル『去る〔一八三〇〕七月二八、二九、三〇日の証券取引所内の場面の素描――負傷者救援のために』パリ、一八三〇年、九ページ    [a9,1]

本当にパリは歴史的事件の舞台となった場所と無縁でないところばかりである。


ヴィヴィエンヌ通り(国立図書館(旧館))

これまで19世紀パリの盛り場についてはパレ・ロワイヤルとグラン・ブールヴァールばかり触れているが、他にも盛り場であったところがあり、ヴィヴィエンヌ通りも第三の盛り場であったという。それは盛り場としての覇権がパレ・ロワイヤルからグラン・ブールヴァールに移りつつあった頃にその通り道として、ヴィヴィエンヌ通りが機能していたからであった。いずれ紹介するギャルリ・ヴィヴィエンヌはその地の利を生かして作られたわけだが、現在のヴィヴィエンヌ通りは国立図書館(旧館)の存在が圧倒的に目立つ(笑)。ちなみに国立図書館(旧館)は20年以上の歳月をかけて建てられ、1875年に完成した。





フランス国立図書館(旧館)

パリのパサージュを扱ったこの著作は、丸天井に広がる雲ひとつない青い空の下の戸外で始められた〔パリの国立図書館の閲覧室の様子をこのように喩えている〕。だが、何百枚という木の葉〔書物の山〕に、何世紀もの埃に埋もれてしまった。これらの木の葉には、勤勉のさわやかな微風がそよめくこともあれば、研究者の思い溜め息が当たり、若々しい情熱の嵐が吹き荒れ、好奇心のちょっとした空気の動きがたゆたうこともあった。というのも、パリの国立図書館の閲覧室のアーケードの上にかかる描かれた青空が、閲覧室の上に光のない、夢見心地の円蓋を広げているからである。  [N1,5]

この閲覧室とはこちらではないだろうか。この閲覧室の説明には1868年公開とあることだし。
旧館は外からしか見なったけれども、その閲覧室はリシュリュー通り側にあるようである。でももし入ったとしても、私などはすぐに一体何を調べにいくのだ?と自分に問うてしまうだろう(笑)。

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パノラマ通り



証券取引所






証券取引所の広場にて



こういう市はけっこう見かける


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ずっと前に録画しておいた「招かれざる客」(1967)を見た。主演のスペンサー・トレイシーにとっては遺作となったそうだが、俳優人生最後の映画がこの作品で、それも主演だったというのは、本当にすばらしいのではないかと思った。
映画は、自分の娘がスピード結婚を考えるほどの男をそれも急な形で連れ帰ってきたというだけでもショックなのに、それにまだまだ世間体という壁が高く人種差別による弊害などが多い時代に、婿候補として文句のつけようのない経歴の持ち主である黒人男性が現れ、娘の両親は二人とも白人でリベラルな性格でその魂は自らの起業した新聞社の新聞の一字一字に込められているといわれるほど成功した夫婦だが、その戸惑いは隠せないという雰囲気のまま事は急速に進んでいく、といった作品である。
この作品は見る人それぞれに異なる印象を与えるだろうと思う。誰もが若い二人と、その両親たちの戸惑いに共感し、また共感したことに自己嫌悪を覚えたりすることもあるだろう。でもそれは大事なことであるように思うし、年配者には自分が歩んできた世間の道とは全く異なるまた厳しさをともなう道を開拓しようとする若い近親者がいるだけで、自分の人生を否定されたように思うもの、という面が作品に描かれていたことも、映画を見る若い人にとっては大事にしてほしいように思った。

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京都国立博物館



京都タワーが見える

特別展観 国宝 十二天像と密教法会の世界(同時開催 方丈記)という特別展を京都国立博物館まで見に行ってきた。この展では金曜日は午後8時まで開館していたので暗くなってからでも見に行けて助かった。
この展は平安時代の空海が朝廷から勅許を得て行なったお祈りの儀式「後七日御修法」で用いられた縁の品々や、密教で僧侶が出世する際の儀式「灌頂(かんじょう)」縁の品々を展示しているものである。
観賞直後の感想としては、聞き慣れん用語で頭がくらくらした。結局のところ、空海の派が天皇と国のために仰々しい祈りを宮内で捧げていた、寺の中での階級を定めた際の辞令とその儀式、寺にかかわる人間の血縁を示す家系図などがあります、という説明に加え、平安時代の朝廷に対する寺社勢力の影響がいかに強かったか、それを示す「名品」を展示しております、とセクションごとの最初に書いてくれていれば分かりやすい展示だったように思う。
展示にあった十二天というのは、要するにもともとはインドのバラモン教の神であって、大体ブッダでさえ、ブッダ死後のバラモン教ではブッダをヴィシュヌ神の9番目の生まれ変わりだとバラモン教が言い出してから「仏教」にいろいろな神様がしゃしゃりでてくるように思うのだが、この展示会の十二天も日本に仏教が伝えられる間に密教や道教の影響で混交したものっぽく感じた。当時の日本では最新のそれをありがたがって自ら模写し、それは模倣の模倣を生み後世に伝わっていったわけだから、日本の「仏教」の宗教画の祖のようなものの権威のもとを考えてしまうとなんだかなぁと思ったのは正直なところだった。
また朝廷も後七日御修法で使用される十二天の絵が「疎荒(そこつ)である」と要するに気に入らなかったら描き直させたエピソードなんかは、結局、権威があったのは朝廷でそれに取り入って勢力を拡大したのが当時の寺であった、という話なのだ。だから朝廷の権威が衰えたりすると天皇や国のために祈る仰々しい宮行事の維持が困難になったり、神仏分離や排仏棄釈などがあると儀式自体ができなくなったというのは分かる話である。
他、「灌頂」に関する展示では誰が灌頂を受けるのかを管理する名簿や、儀式で使う物品の管理表、儀式で使う物品が盗まれどれが無事だったか管理するリストなどもあった。こういった儀式を運営する上で必要になった書類の中には空海直筆のものもあり、僧であり学者であり朝廷とのかかわりにおいて辣腕の事業者でもある空海の人間臭さを感じられた点はよかった。世界のどの宗教であれ時の権力者の庇護があってこそ権勢を振るえるのであって、何を持ってして「偉かった」のか、といったことを考えさせられる展示であった。

特別展を出てから、ライトアップされた博物館にカメラを向けた。暗くなってからの博物館は初めてであった。

















月がきれいだった。








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最近読んだ本に年間に(ビデオを含め)映画を700本見る学生の話を紹介しているものがあったが、私は昨年8本(年間)であった。今年は一月の時点ですでに4本は見る予定のできたものがあるから、もし一ヶ月に一本以上見るとしたら、昨年よりは増えそうである(笑)。

今年の一本目は「ノーマ・レイ」(1979)。この映画を選んだのは久々にアメリカの社会派映画を見たいと思ったからである。その見たいと思った理由は今読んでいるメアリー・マッカーシーの『アメリカの鳥』という小説の影響があるかもしれない。
まだ読書の途中なので詳しくは書けないが、『アメリカの鳥』は現代アメリカの精神史を表現しているものとしては卓抜した作品であるような気がしてきているのである。この感覚は数年前に読んだリースの『サルガッソーの広い海』以来、久しく得ていなかった。そこで、20世紀という時代で思い悩むアメリカ人を描いた映画をとりあえず見てみたくなったのだ。
「ノーマ・レイ」は、夢も希望も理想もなく劣悪な労働環境および不正な賃金体系に何の疑いを持たない紡績工場の工員の一人で、独身で二人の子をもつ、男には弱いが、物事の先頭に立つことを厭わない女性が、労働運動に参加することで環境を改善していき一人の自立する女へと成長を遂げていく話である。
無知であることの恐ろしさと勉強と粘り強い熱意の大切さなどを考えさせられたが、労働環境を改善しようと動き始めてから工場でノーマの父親が突然死したこと、そして会社が組合への圧力に違法な脅しや暴力を用いたことも大きなポイントだろう。またノーマのプライベートはだらしなくとも、労働現場や組合の仕事では分け隔てなくやることはきちんとやっているという彼女への周囲の分別力はすばらしい。それに引き換えあの教会の神父は…(笑)。神父のあの姿勢も時代を感じさせた。
次は、「招かれざる客」を見る予定。

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技術的な構築形式に特有なのは(芸術形式とは反対に)、そうしたものの進歩や成功が、その社会的内容の透明度に比例していることにある。(だからこそガラス建築が出てきた。)
 [N4,6]

早く登場しすぎたガラス、早すぎた鉄。きわめて脆い材料ときわめて強力な材料とがパサージュにおいて打ちのめされ、いわば陵辱された。前世紀半ばには、ガラスや鉄による建築はどのようにしたらいいのか分かっていなかった。だからこそ、鉄の柱のあいだのガラスをとおしてさしてくる日中の光はあれほど汚く、かすんでいるのだ。 [F1,2]

専門家であれば今日の建築様式の先駆けと認めるような建築物も、目覚めた感性はもっているが、建築を見る眼をもたない人には、決して先駆けという印象を与えず、むしろ流行遅れで、牧歌的な印象を与えるというのは、奇妙なことである。(古い駅のホールやガス製造工場や橋梁。) [K1a,4]

リュリーヌによれば――『わが町パリ』<パリ、一八五四年>における「大通り」の章――最初のガス灯は、一八一七年パノラマ・パサージュにともった。    [T3a,4]

パサージュ・デ・パノラマはパリに現存する最も古いものに属するそうだが、それは上に紹介したガラス屋根でも証明できるのかもしれない。パサージュ・デ・パノラマは初期のパサージュのように単純な構造で、両脇を支える建物も二階しかなく、ガラス屋根も単層構造で、当初の骨組みは木造だった。1830年代の改装で、その際ガラス屋根の骨組みも鉄製に変えられ、照明にもガス灯が採用された(ちなみにイギリスから持ち込まれたガス灯のPRはパサージュ・デ・パノラマの一角でなされていたという)。
ベンヤミンが見たパサージュのガラス屋根はどこを指しているのかは分からないけれども、なんか言わんとしていることは分かるような気がする。まったく新しい未来を模索している時期の建築物には、のちのちの時代の人間の視点からではあるが、どことなく構造的不安や廃れてしまった習慣の固持を感じさせ、その時代にしかない様式がある。ただ、今のパサージュ・デ・パノラマのガラス屋根から射す光はきれいだった(笑)。





今と昔のパサージュ・デ・パノラマの入口の絵が













パサージュ・デ・パノラマは、名前の由来となったパノラマの人気が去り1831年に取り壊されても、もちこたえた。その理由としてルイ・フィリップが賭博禁止令や娼婦追放令を出し、1830年4月14日に警察が売春婦規制令を施行したことで、徐々に盛り場がパレ・ロワイヤルからグラン・ブールヴァールに移ってきたこと、またパサージュも四本の支脈(歩廊)を設け、周囲の通りからもパサージュに入れるようにしたことなどが挙げられるという。
またパサージュ・デ・パノラマには消費文化の進展に伴って興隆してきた女性用の店、今のデパートの一階売り場に陣取るような商品を扱うブティックが軒を並べ、若い女性たちがこぞって足を運んだ。そしてその女性たちをひっかけるためのナンパ師が現れるようになった。他にもパサージュが設けた四本の歩廊のうちの一本は1807年にグラン・ブールヴァールへ移ってきたヴァリエテ座の楽屋口に通じていた。そこで楽屋口から出てくる女優を待ち伏せするパトロン志願者の姿も見られたという。


パサージュ・デ・パノラマと歴史を共にする印刷屋の老舗ステルヌの看板が。






改装時に設けられた支脈の一つモンマルトル歩廊の入口



支脈の一つサン・マルク歩廊の入口

パノラマのとりこわしの後も、自らの営業努力やパリの盛り場が近くに移ってきたおかげでパサージュ・デ・パノラマは人気を保ち続けたが、第一次大戦以降、グラン・ブールヴァールの有名カフェやレストランが店を閉じ、またグラン・ブールヴァール自体が銀行街になってしまうと、パサージュ・デ・パノラマは忘れ去られる存在となっていったという。

ここまでパサージュ・デ・パノラマの歴史をかいつまんで書いてきたが、日本でたとえば球場や競技場ができることを見越して、その地元の商店街の気分がもりあがりアーケード式商店街がつくられたイメージとは、また異なるものがパサージュ・デ・パノラマにはあったように思う。第一、地方のスポーツ団体が経営不振となり地元の活気が失われ猫の子一匹すらいないシェルター街になったような雰囲気は、たとえ高級ブティックに変わってそこのテナントに近年のファストフード店が入ろうが、また空いているテナントがあろうがパサージュ・デ・パノラマにはなかったし、19世紀の姿を残しつつも、いや19世紀の姿であってもそこでなんとかやっていけている現状の方に私は目が行った。
たしかにパサージュ・デ・パノラマは19世紀初頭に作られたが、忘れ去られた過去の夢の建築物とはいえ、完全に衰えたり廃れたり寂れてはいるわけではないのだ。歴史のアプローチの方法としていくら『パサージュ論』が魅力的であったり、シュルレアリズムの考え方が好きであっても、その型を今パサージュ・デ・パノラマで生計を立てている「少なくとも自ら寂びれようとしていない」方々や建物に当て嵌めようとするのはおこがましいと、パサージュ・デ・パノラマのあらゆる対象を目にしたとき思ったのが正直なところだ。たぶん、シュルレアリストたちはそんなことを考えてはいなかったはずだし、ベンヤミンは19世紀のある部分を征服しようとしたのであって、君は何を筋違いかつ見当違いなことを書いているのだと言われかねないだろうが、少なくとも私が現地で感じたものに主観的・恣意的ではあれ二律背反めいたものがあったことは否定しようがない。昔の味があるのは分かるが、今でも人はそこで生きているのだからといったふうに。

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パリ・ヒストリー

バルザックの『ゴリオ爺さん』の初めの部分に――「ディオラマ」の「ラマ」にならって――「ラマ」という言葉を用いた冗談がある。     [Q1,6]

モンマルトル大通り側の入口にはパサージュ・デ・パノラマについて解説している立ちプレート?がある。
パサージュ・デ・パノラマの名は入口の両側に二つのパノラマがあったことに由来している。
ではパノラマとはどういったものだったかは、こちらのサイトの断面図で大体把握できると思う。360°の壁面には「チュイルリから見たパリ全景」「トゥーロンの奪回」「ブローニュの陣地」「ナポリ風景」など、いろいろと趣向を凝らした絵が描かれ、当時、パノラマに多くの人が詰め掛けたという。ちなみにベンヤミンの『パサージュ論3』(岩波現代文庫)には

ダヴィッドは弟子たちに、パノラマで写生の練習をするように勧めていた。      [Q1a,9]

といった断片まである。ダヴィッドは被写体になる風景をパノラマで代用できるとまで思ったのだろうか(笑)。
パノラマはスコットランド人の画家ロバート・バーカーが発明したが、ロバート・フルトンというアメリカ人がその特許輸出許可(十年期限)を譲り受けた。フルトンは画家であったが、蒸気船や潜水艦、魚雷といったものまで発明し一山当てようとパリにやって来た。しかしフランスでは潜水艦と魚雷の売り込みが功を奏さず、パノラマの売却で急場をしのいだのである。
パノラマの買い手はウィリアム・セイヤーというアメリカ人で、セイヤーは自ら買い取った、ブールヴァール・モンマルトルで売りに出されていた亡命貴族モンモランシー=リュクサンブール公爵の邸宅と土地(の跡地)に本格的なパノラマを1799年の末から二つ続けて建築することにした。ブールヴァール・モンマルトルは盛り場であるブールヴァール・デ・ジタリアンのすぐ横であったので、パノラマに客が押し寄せることをにらんでのことであった。



セイヤーはさらに双子のパノラマの間に、折から流行の兆しが見え始めていたガラス屋根のパサージュを通すアイディアを思いつき、すぐさま実行した。1800年の初頭、パサージュはパノラマとほぼ同時に完成した。別の通りからもパサージュを通ってパノラマに客を呼び込もうという狙いであった。西部で一山当てたいとそこへ向かう人たちのニーズをいち早く察知して鉄道を敷いた鉄鋼王となんかダブる気がした。



パサージュ・デ・パノラマは、呼び物へと人々をそれも快適に導く歩廊であり、さらにパサージュに店を入れることでさらに儲ける、といったビジネスとしては非常に目先の利かせてつくられたものなのだ。
はじめ、当時のパノラマになぜ人が殺到したのか正直分からなかったが、私も同じような体験があるといえばあるのかもしれない。日本で開催されたいつの博覧会だったか、子どもの頃の私は日本企業が出していた半円形の建物の内側の屋根と側面全体がスクリーンとなっていて、なめらかでかつ大きい映像が映し出されているパビリオンに驚いた記憶がある。そこは、昔のプラネタリウムみたいに映写機が中央に設置されておらず、どこから継ぎ目無しの映像が出ているのか分からず、天井いっぱいに映っている人がカメラに向かってボールをぶつけた瞬間は思わず身をかばおうとしたものだった。
そういった映写技術は発展し、今では大きな科学技術センターのようなところで当たり前のように見れるようになったけれども、子どもの頃に入ったそのパビリオンに未来のテレビはこうなるのでは?と夢を見させるものがあったように思う。今に残るパサージュ・デ・パノラマのことを考えていると、そんなことを思い起こした。

パノラマに関する関心は、真の町を見ることにある――家の中の町。窓のない家の中にあるものは、真なるものである。ところで、パサージュもまた窓のない家である。パサージュを見下ろす窓は、桟敷席のようにはそこからパサージュを覗き込むことはできるが、パサージュからは外を覗くことはできない。(真なるものには窓がない。真なるものは決して世界には開かれていない。)     [Q2a,7]

今になって上手い譬えだと思う。それほどまでにパノラマがよくできたものだったという意味と、パサージュも19世紀のパリにあってパノラマと同じような役割を果していたという意味が二重に表現されているかのようだ。パノラマもパサージュも見に行く人にとってみれば、そこは驚きと心地よさそして19世紀の人々の夢を見させるものがあった、その夢は中に入ってみて初めて体感できたものだったのかもしれない。それがつかの間のものであったならなおさら…。

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再掲だが、パリ・ミュゼットに合いそうな画像を載せる。

早速、パリ・ミュゼットの「アニー・ゼット」が入っているCDをこちらの分で手に入れた。入手したCDには、パリのカフェの歴史とミュゼットについて興味深い解説もついていたので少し紹介しよう。

移民の町ともいえるパリのカフェは17世紀からあったというが、その頃は裕福な人たち向けの店であったという。
手ごろな価格でコーヒーが飲める庶民向けの「水商売」、即ちカフェを経営し始めたのはパリに出稼ぎに来ていたオーヴェルニュ(フランスの中南部の地域圏にある)の人たちだった。(ちなみに、オーヴェルニュ人たちはもともとは水道の完備されてなかったパリでセーヌ川の公共の水汲み場の水を汲みアパートまで届ける「水汲み」という商売で成功し、水以外にも生活必需品の石炭を届けたりしていたという)
オーヴェルニュ人たちのカフェが繁盛し店舗が拡大するにつれ、そのなかには辛口ワインを出すところも現われ、飲み物以外にも手軽で安い食事を出すようにもなった。いわゆる「ビストロ」という居酒屋である。
カフェやビストロで成功したオーヴェルニュ人たちは故郷から親戚や友人たちを呼び寄せ、そこで週末には仲間たちでミュゼット・バグパイプの音色に合わせオーヴェルニュの踊りに興じ、彼ら独自のダンスホール「バル・ミュゼット」へと発展していったという。そこで演奏される曲そのものも「ミュゼット」と呼ばれるようになった。それは1810年ごろだそうで、ミュゼット・バグパイプは後にアコーディオンに置き換えられていく。
アコーディオンの原型はドイツで考案されたが1860年代になると中部ドイツやイタリアで大量生産され、パリには祖国の曲をアコーディオンで奏でるイタリア移民も移住してきた。彼らも週末にはダンスパーティを開き、アコーディオンを中心としたイタリア系のバル・ミュゼットが発展する。
以上のことから、19世紀末にはオーヴェルニュ系とイタリア系の二種類のバル・ミュゼットがあり、互いに敬遠しあっていたが、その対立は長くは続かなかった。それはミュゼット・バグパイプの一種?フイゴ式バグパイプのキャブレットで演奏する店でイタリア系のアコーディオンの名手を伴奏者として雇ったり、イタリア系の演奏者たちもイタリア民謡やダンス音楽だけでなくパリのシャンソンやキャブレットの要素を混ぜて独自のミュゼット音楽を創造していったことで、おのずと解消していった。













































そんなわけで、前々回と今回で紹介したいかにもパリをイメージできそうな「パリ・ミュゼット」は地方や外国からやってきてカフェやダンスホールを作り定着させた人々の音楽から発展し、互いに上手く混ざり合って今も新たな創造を生んでいる音楽なのである。そういう意味で多くの移民で成り立っているおもしろい町パリに似合う曲と違和感なく得心できるのは、なんら不思議なことはないのかもしれない。

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昨日は某ファストフード店で数年前の会社の同僚の友人と久しぶりの談笑。楽しかった。2時間の談笑のあとこれまた久しぶりの白鬚神社へ。


車から降りると極寒







滋賀県に行くまでの有料トンネルが開通工事の費用を回収できたことで無料になっていることは経験済みだったが、琵琶湖の西を走るバイパスが延長されていたことは知らなかった。これでまた行きやすくなるな。

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かつて二つのパノラマがあった

「パサージュ・デ・パノラマは、入り口の両側に建っていた二つのパノラマを記念してこう名づけられたのだが、これらのパノラマは一八三一年にはなくなった。」ポール・ダリスト『目抜き通りの生活と人々(一八三〇―一八七〇年)』パリ、一四ページ    [A7,7]

パサージュ・デ・パノラマについて書こうと思い、パノラマを発明したスコットランド人の画家ロバート・バーカーのことや、モンマルトル大通り側にあった二つのパノラマについて整理していたが、TVのパリ3区のカフェとグルメの番組から流れてきたパリのミュゼットの曲がどうしても知りたくなり、探している間に書く意欲が後退したので、パサージュ・デ・パノラマについては後日書く(笑)。


モンマルトル大通り

その曲とは、






「アニー・ゼット」というタイトルだった。この曲を初めて聴いたのはたぶん高校の頃だったと思う。また、個人経営の古本店でも聴いたことがあった。パリでは聴いたことなかったが、アコーディオン弾きは「アニー・ゼット」のような曲を有名観光地や地下鉄で生演奏をしていることも多いので、佇んでしばらく聴き入ったこともしばしばだった。こういったパリのカフェをイメージできるようなミュゼットを聴くと、俄然心が浮き立つ。



以前紹介したことのある画像だが、曲はこういったカフェ、サン・ジェルマン・デ・プレやモンマルトルのテアトル広場周辺に良く似合うように思う。音楽は一気に現地のことを体の内側から思い出させてくれる不思議な作用を持っている。

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