デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



アレクサンドル・ガブリエル・ドゥカン「フォンテーヌブローの田舎の農園の中庭」

オルセーに至っても「名作たち」シリーズで行きます。
オルセー美術館の作品はミレーやモネやマネ、ルノワールなど、有名な画家のものが多いが、私は最初にドゥカンという画家の絵に目が行った。個人的な思い出として、私はこの絵を一度日本の展覧会で見たことがあったのだ。思い出に残っている絵と、遠く離れたところで再会できるというのは、なかなか言葉では表し難い感がある。
さてこの「フォンテーヌブローの田舎の農園の中庭」だが、フォンテーヌブローというのはパリからさほど離れていないところにあるコミューンで、歴代の王が愛した場所である。フォンテーヌブローには広大な森があり、隣接しているバルビゾン村に19世紀前半からテオドール・ルソーなど、芸術家たちが住み着いた。のちにバルビゾン派と呼ばれる派の名称は、この村の名前が由来となっている。
そのバルビゾン派初期の推進者がドゥカンである。ドゥカンはちょっと変わった経歴の持ち主で、1828年にスミルナとトルコに任務を帯びて派遣されているのだ。私個人の印象では、ロマン主義以降にオリエントから影響を受けた画家として、珍しいほうではと思う。
バルビゾン派の画家たちは、美しいフォンテーヌブローの森をよく描いたが、ドゥカンは東方の影響もあってか、風俗や風景・建物を題材にした。この絵はドゥカンの私的領域という感の強い作品だが、バルビゾン派の画家たちが自然ばかり描いていたのではないことを示す好例といえるかもしれない。それにしても、この陰影の描き方は、まるでトルコの太陽みたいではと思う。フォンテーヌブローの田舎の農家を写実するというより、太陽とその影を強調した感があるのは、彼の東方の記憶によるものかもしれない、といった評があるのだが、私もそう思った。

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信号(動く都市)


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大戦の回想


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今日、読み終えた本について書く。それにしても、我ながらなんというタイトルか(笑)。他にも「バルベーローのイエス」「ラビとしてのイエス」他いろいろ思いついたが、もっともこれが適しているだろう。

私にはドストエフスキーの小説に、かなりはまっていた時期があったが、はまり込み様によっては、聖書の内容を通して深読みをしようとする人もいるだろう。何を隠そう、私もそのパターンに陥った一人だ。
聖書についていろいろと読んでいるうちに、聖書の世界もなぜか面白くなってくる。とかく、絵画とか彫刻とかを素人目で見ているうちに、聖書の内容は西洋美術にとって切っても切り離せないものだと分かると、なおさらだ。
えっちらおっちら読書を続けているうちに、歴史の資料が新たな視点から改めて研究されたことで、これまで汚名を着せられていた、蘇我入鹿や道鏡や田沼意次の汚名を返上するような説を述べている本を読んだりTV特集を見るようになった。そしてそのころ、いちユダヤ人イエスを考古学的に検証する番組を見た。それが12月下旬に紹介した番組である。番組が放送されたとき(たぶん2001年だった)、私はすかさず見た。ドストエフスキー作品で著されているイエス・キリスト像の影響に加え、この番組のおかげで、私のキリスト教観が根本から変わるような気がした。

さて、今日、読み終えた本は『原典ユダの福音書』(日経ナショナルジオグラフィック社)という本だ。ちなみにこのユダは、新約聖書でイエスをその接吻でもって裏切ったとされる、あのイスカリオテのユダのことである。
国際欄のニュースに強い関心をお持ちの方のなかには、イスカリオテのユダだけが、イエスの弟子の中で師の教義を正確に理解し、イエスの意思に副(かな)う行動を起こした真の英雄であるという内容が『ユダの福音書』に書かれていること、それを理解するには思弁がある程度必要なことをご存知の方も少なくないだろう。
『ユダの福音書』のなりたちと、その時代背景について少し書こう。
紀元4世紀ごろ、初期キリスト教にもさまざまな教会(派)があった。現在親しまれている、イエスの教義の原典であると主張した伝統的な聖典によって構成された「新約聖書」が成立する前は、後に「正統」とされる聖典を信ずる派も含め、たくさんの派が自分たちの信ずる各々の聖典をもとにして、神学論争を繰り広げた。そのような論争(信者の数などの勢力争いも含む)があったということは、それに勝った派もあれば負けた派もあるということである。『ユダの福音書』は負けた派のうちの一つの聖典であった。現在の新約聖書が正典とされると、まもなくして負けた派の教義は異端とされた。『ユダの福音書』は、"はじかれた聖典"なのである。
異端とされた、負けた側の聖典を写して残そうとする努力は払われなかったに近いだろうといわれている。それらの聖典は、廃棄されたり放置されたまま自然に朽ちたり、行方不明になったりした。
20世紀に入り、コプト語で書かれた『ユダの福音書』の写本が、偶然エジプトの洞窟で発見された。研究者に解読されるまで20数年間、数奇な運命をたどり、かなり酷く劣化していた写本は年月をかけて修復・解読・翻訳され、近年上椊された。
私は、『原典ユダの福音書』を読み終えたカタルシスの勢いに任せるまま、初期キリスト教のある時点から正統とされ現在に至っている聖典と、異端とされた聖典を比べて、どちらが優れているかなどと、暴論を展開するつもりは毛頭ない。
しかし、伝統的な新約聖書のなかで「裏切り者」「悪魔に憑かれた」とまで烙印を押されたイスカリオテのユダが、同じその新約聖書のなかですら、イエスが彼を破門せず、彼はイエスの弟子たちの中で終始最も信頼を寄せられている弟子の一人である事実の理由を説明する上で、一つの見逃せないキーとして『ユダの福音書』を位置づけるだけでも、この聖典が日の目を見た価値があるように思うのである。
ところで、この記事のタイトルである「よく笑う人イエス」とは、『ユダの福音書』でイエスが弟子たちに語る際に笑ったという記述に基づくものだ。なぜイエスは弟子たちに対して笑ったのか。それは本を読んでのお楽しみ?である。旧約聖書・新約聖書の世界は、私も含め親しむというにはちょっと遠いかもしれないけれども、『ユダの福音書』に描かれるユーモアを含んだラビ(教師)としてのイエスの姿を、現代の読者はにっこりしながら読むことができる気がするのである。

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グランド・ゼロから程近いセント・ポールズ教会から北に歩いてみた。


分かりやすっ(笑)



「市庁舎公園」にきた。

市庁舎公園は、ワイシャツを着た人ばかりで占められているのかと思いきや、誰でも気軽に一服したりくつろぐことができそんな雰囲気だった。


居心地がいいのです。



遠足?

観光客も結構いたりする。


噴水も綺麗だった。

公園の北までくると、市庁舎が目の前に。



市庁舎を見ることを私は楽しみにしていた。日本でも公開されたニューヨーク市庁舎を舞台にしたコメディ「スピン・シティ」の舞台でもあるからだ。
このドラマは、市の立場から、ニューヨークで起こる問題に向かい合う際のさまざまな困難をユーモアたっぷりに、ときに映画やドラマ・演劇のパロディまで用いて描いている面白い作品なのだ。



しかし、私はドラマの雰囲気を感じられそう?な場所には行けなかった。市庁舎は、なんかセキュリティーがガチガチな感じで、また行き交う人もいなかった。私以外の観光客が入口にいれば入って、中の博物館や「ドラマの舞台」を見学したかったが、なんか抵抗感を覚えたので外観を拝むにとどめた。今からすると、警備員に訊ねるくらいなことをしとけばよかったと、ちょっと後悔している。

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(They Long to Be) Close to You
(チャンネルは、こちら

バート・バカラックの作品は、多くの人に親しまれているものが多い。「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」や「雨にぬれても」などが有名だが、「(They Long to Be) Close to You」(遥かなる影)も代表作の一つだ。
この曲は、リチャード・チェンバレンが歌い、ディオンヌ・ワーウィックが歌ったのに続き、カーペンターズも歌った。日本でもっとも親しまれているのは、カーペンターズの分だろう。以後多くのアーティストがカバー、編曲をした名曲である。
曲はまた、楽器初心者用の練習本に載ることも珍しくないくらい、わかりやすく弾きやすい曲だと思う。とはいえ、実際弾いてみると、なかなかきれいに弾けない。自分ではまだまだ左手の運び方に課題があると思う。

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ukurico -「きらきら星」

多くの人にとって幼少のころから親しまれている「きらきら星」。実はこの曲、もとはシャンソンであることは、あまり知られていない。もとのタイトルは"Ah! Vous dirais-je, Maman"(あのね、お母さん)だが、イギリスの詩人、ジェーン・テイラーの1806年の英語詩 “The Star”による替え歌"Twinkle, twinkle, little star"(きらめく小さなお星様)が童謡として世界的に広まり、現在に至っている。(wikiより)
ukuricoさんによる、ウクレレとベル?による編曲はシンプルかつ静謐さに満ちて、夜空を見上げたくなるような演奏になっている。ぜひ、聴いてみてください。

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馬は威風堂々としていたな…


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うーむ…今日、図書館に届いたので、読み始めた。今度は文庫で(笑)。
今回は途中で放り出すことなく、いけるだろうか。
塩野七生氏の博覧強記ぶりには、ずっと敬意を抱いてはいるが、著作を読むとどうも先に進まず、緊張が切れてしまうのだ。
なんというかなぁ、、、一つの大きな国の興亡について、穿った言葉で力強くかつ繊細に書かれていることは分かるのだが、私はどうも歴史の本に著述者の個人に内在する「主張」が盛り込まれ、それが内容の端々に顕れて(表れて)いるのは駄目というか、「引っかかる」のだ。
だったら人の血が通っていない歴史を扱った本で、面白いものはありえるのだろうか?といえば、そうでもないような、、、お茶を濁すようだが、個人の主張と生きた歴史の著述とは、なにかが違う気がするのだ。
しかし、今回は、私の中で作品について割り切ることにした。『ローマ人の物語』は研究論文の色濃い歴史書ではなく、博覧強記さに支えられた「物語」なんだと。著者はあくまで作家なんだと。
今日のところはローマ人の物語1『ローマは一日にして成らず(上)』の半分まで読んだ。先は長いので、気長にいく。

実はもう一冊読んでいる本がある。『インテリジェンス人間論』(佐藤優)である。内容は国際情報分析や政治に関する駆け引きなどが綴られているため「どぎつい」が、日本の政治外交と国際情報の分析について、最近まで最前線で活躍した人の本ということもあり、非常に面白い。たぶんこちらのほうが、読むスピードは速いだろう。

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太陽の彷徨


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