デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 




雁鴨池は造られた当時は「月池」と呼ばれていた。
だが新羅の滅亡と共に臨海殿は破壊され、調度品などは池にすべて投げ込まれて廃墟となった。後年、朝鮮時代に入って雁や鴨の遊ぶ姿を見た墨客が「雁鴨池」と名付けたという。



1975年の発掘調査で、この池から木製の舟、金銅製の鋏、食器、鉢など3万点余りの遺物が発見された。これらは実際に使われていたものだったという。
なお国立慶州博物館の「雁鴨池館」には雁鴨池から出土した遺物が展示されているようだ。



帰国してから奈良の飛鳥京発掘の番組(再放送)を見たとき、そのなかでこの雁鴨池が映し出されていた。飛鳥京の苑池が百済や新羅の苑池から影響を受けていたことを紹介する際のVTRで出ていたのを見て、現地で行っておいてよかったと思った。
番組では飛鳥京の苑池が百済や新羅のものからの影響を受けつつも独自の技術で造営されたことも紹介されていた。









ライトアップの演出は良かったし、ここはカップルや家族連れ向けなのかもと思う。



歴史的な「遺跡」という感じがするようなしないような所だったが、それでも入場してよかった。


せっかくの旅行だし、なるべく歩きまわりたいという思いも残っていたので、歩いて月精橋のライトアップを見に行こうとした。でもやっぱり疲れが出てきた。バス10番で宿に戻ることにした。



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東宮と雁鴨池の入口

(明るい時間帯みたいに見えるが、カメラが照明の光を取り込んだせいでそう見えるだけである)
日が沈んだ。せっかくなので東宮と雁鴨池に入ることにした。


大人1枚3,000ウォン

赤い太字の「카드결제가능」はカドゥギョルジェガヌン(カード決済可能)の意味だ。
だが、窓口の自動券売機でCCを受け付けず(受付の婦人にもう一度試してもらってもダメだった)、他のカードか現金払いをすすめられた。なんてこった、と思った。昼間の観光地では使えたのに再びCCが使えない事態に見舞われると、また明後日の帰国まで大丈夫だろうか?という不安が頭をもたげてきた。でも、その不安の強さも昨日ほどではなかった。この際だから財布の中の現金の残額を確認するのは後でいいし、明日は月曜なので銀行は開いていると改めて思い、現金で入場することにした。



園内に復元された臨海殿がある。臨海殿は、新羅の半島統一を祝して建てられたといわれ、王子が暮らす東宮として、また来賓をもてなす宴会の場として使われたとされる。また第56代の王・敬順王(キョンスンワン)が、高麗の王建に降伏を申し出た所としても知られている。現在は3つの建物が復元されている。







雁鴨池は674年に造られた池で、池には3つの島が、北側と東側の岸には12の小山が造られている。新羅の人々はここに美しい草花を植えて、珍しい鳥や動物を飼い、池には船を浮かべて楽しんだという。池は当時「月池」と呼ばれていた。







復元模型



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異次頓殉教碑

新羅にも仏教受容の歴史があり、「三国遺事」には殉教記録があるという。
新羅が仏教を採用するのに重要な役割を果たした人物で異次頓(イチャドン(이차돈 (別名パク ヨムチョク、502 または 506-527) )という人がいる。
異次頓が殉教の際、首を切られたとき、血ではなくミルクが空中に噴出、3m以上の高さに達した。
異次頓の頭が小金剛山の砂の上に落ち、そこに花のシャワーが流れた。 
この石碑は、憲徳王9年(809-826)の817年に、白如寺の境内に異次頓の殉教を記念して建てられたもので、 記念碑には、一方の面に彼の殉教のシーンの劇的な描写が含まれており、もう一方の面には漢字の碑文が刻まれている。
6世紀前半、異次頓という人が新羅の仏教普及に多大なる貢献をしたが、国が仏教を国教とする直前に殉教者となってしまったエピソードはこの旅行で初めて知った。それにしても随分若い年齢での殉教だが、奇跡が起こったようなエピソードはのちに聖人とされたような人によく見られるタイプの話のように思った。
この殉教碑は博物館敷地内の新羅美術館(主に仏教美術を展示する)にあってもおかしくなかったが、見れて良かった。


人面文圓瓦當(霊廟寺址・統一新羅)


騎馬人物形土器(加耶)


鴨形土器(原三国)

くちばしや目などの頭部は比較的リアルに作られていて、胴体の中空部分はシンプルだ。背中と尾に円筒形の開口部がある。
このタイプの土器は、(紀元前2世紀末から4世紀頃にかけての小国の連盟体勢力の時代の)三韓時代(原三国)の辰韓と弁韓の領土であった慶尚道全体で一般的にペアで見られ、日用品というより、埋葬品として使われていたようだ。 陶器は故人の精神(魂?)を来世に導くのを助けるために埋められたと信じられていた可能性があるという。



金銅馬鈴(統一新羅)
と青銅馬鈴(三国)

“乾統九年”銘 盤子(高麗)

博物館の鑑賞は本館(老古館)だけにした。ほかにも「美術館」「雁鴨池館」「特別展示館」があるのは分かっていたが、疲れもあってパスすることにした。



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浦項 中城里 新羅碑(新羅6世紀)


壬申誓記石(新羅6-7世紀)


十二支像(亥)
統一新羅8-9世紀


文武王碑片

この碑片の意味するところは、見ただけでなんとなく分かった。文武王は20年に渡って続いた朝鮮半島統一戦争に勝利し、朝鮮半島の統一を完了させた時の新羅の王だ。(ちなみに文武王は羅唐戦争(唐・新羅戦争)で名をはせているが、白村江の戦いのときの新羅の王でもある)
故にこの碑片の解説パネルに、武烈王が唐と同盟を結び、武烈王死去後に長男の文武王が唐軍とともに高句麗を滅ぼしたが、その後まもなく唐は朝鮮半島全体を支配する野心を見せたので、文武王は唐軍と戦いを続けそれを撃退し、20年続いた統一戦争に勝利を収めたことが書かれている理由がよくわかった。


獅子石獣(統一新羅)


十二支像(申)(統一新羅)
慶州朝陽洞聖徳王陵

国立中央博物館から一時的に慶州へ貸し出されている十二支像もあった。





瓦のこの模様デザイン、
奈良でも見たような気がした

石柱(統一新羅)



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金冠


金製腰帯


天馬塚から出土した
金冠と金製腰帯

慶州市内の大陵苑には天馬塚という墓がある。墓の主は金冠、耳飾り、玉製の胸飾、金製腰帯、装飾付きの刀などを着用した姿で安置されていたが、その装飾品を見ることができた。


金冠の吊り飾り


耳飾


金製冠帽

金銅製鞍橋装飾

鳳凰装飾大刀と
三累装飾大刀

金製冠飾

装飾品の輝きに気持ちが高ぶるというか、とにかく驚きっぱなしの状態の気持ちに対してバランスを取るためか、ため息がでた。



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黄金宝剣

瑠璃杯

慶州市内の大きい古墳が残る古墳群の一つである大陵苑のなかに、皇南大塚という墓がある。この新羅の王陵の皇南大塚の出土品も展示されている。


金製ボール、青銅製長頸壷、
青銅製鍋、青銅製のきゅうす



皇南大塚からは金冠など数万点の副葬品が出土した。5世紀初から中後半の間に造成された皇南大塚は2つの墓が南北につながっている大規模な双墳で、5世紀において発展しつづけた新羅の様子が如実に表れているという。
博物館に行った日の翌日に皇南大塚に行ったので、それについてはまた後日。




皇南大塚の南墳から
出土した鉄製品

百済も新羅も倭も、国力を
高めるには鉄が必要である
と考えていたことが分かる
展示だったように思う。



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夕方、少し桜を見に行けた。多くがまだ5分咲き程度だろうが木によっては8分咲きになっていたりする。



晴れで気温が上がった日が続き、そこで昨日の雨だったことから、一気に咲いたのかも。


週末の雨の前に
見れてよかったかも


上からだとまだ
こんな感じだった


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板甲

金冠塚の金冠が発見された来歴が紹介されていた。発見は1921年のことで、副葬品と知らずにそれで遊んでいた子どもたちの様子を通りすがりの日本の警察官が目に留めた事が発掘のきっかけとは初めて知った。
館内では金冠塚から出土した副葬品を見れる。





銅鈴や金銅製頸甲、雲珠、
馬用ネックレス、金製装飾など


金製装飾と金・銀製装飾


曲玉




角型リュトン

角型リュトンは副葬品だったかどうか覚えていないが、こちらの記述を興味深く読ませていただいた。



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準決勝のメキシコ戦も、決勝のアメリカ戦も、ものすごいゲームだった。
各国の代表選手の多くが三月末からの開幕前に、とてもオープン戦とは呼べない真剣勝負のための準備を早めにしなければならないなか、野球史に残る素晴らしいゲームを見せてくれたと思う。
また団体競技としてはサッカーやラグビーなどが躍進を遂げていることもあり、今回のWBC世界一奪還は日本の野球界にとってよかった。
参加国の代表選手やチームスタッフ、運営に携わった方々、本当にお疲れ様でした。



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仏国寺の記事に見られる寺の詳細の如く、また他サイトに丸投げするようでなんだが、博物館の展示品について詳しく知りたい方は、ずばり博物館の公式サイトや、個人で詳しく調べて充実した内容になっているサイトも多いので、ぜひそちらもご覧いただきたい。


勾玉


頸飾(ネックレス)


金冠

土偶装飾 長頸壷

馬兜

あまり知られていないかもだが、新羅と(新羅を救援した)高句麗は古代日本の倭と4世紀後半から5世紀にかけて戦ったことがある。百済を救済するため(鉄を確保するため)に朝鮮に出兵したが、その頃の倭は乗馬の習慣がほとんどなく、高句麗の騎兵に脅威を覚えて敗れた。そのことから倭では馬を飼育する人たちが重宝され、その証拠に5世紀以降に馬の埴輪が作られるようになったことを、馬兜を見て思い出した。

送風管

3-4世紀で、すでに送風管を用いていたとは…。
日本で開催されることがある古代ローマや兵馬俑などの特別展で時々見られるインフラの展示で 水道や軍用道路の舗装技術などを鑑賞した時にいつも驚愕するが、まさかの空調施設があったのかよと驚いた。



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