デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



雨上がりの日の空は少し不気味だが、それがまたいい。






きれいな桜を撮ろうとすると背景のことを考えてしまう。なるべく澄み切った青空だったり、夜桜みたいに真っ黒だったり、古風な建物があったりしたら、いいなぁと思うが、昨日に限っては特異な背景の前に夕光の自然のスポットライトで浮かび上がる桜もおもしろいと思った。












個人的には、↑これが一番お気に入り。

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ポルトガルの国民的作家で、今や世界中で読まれているジョゼ・サラマーゴの『白の闇』(1995)を読んだ。作品は、ある日突然、目の前が真っ白になって失明してしまうという病気が、原因不明のまま急速に伝染していく世界を描いた話である。
人間の感情や社会の闇の側面を描き出し、これほどまで深く考えさせる作品は、珍しいのではないか。言葉にしづらい現実世界を表現するための寓話の力を、久しぶりに思う存分堪能し読めた。
作品はカフカやカミュのような不条理小説みたいな読みかたもできると思うが、『白の闇』では、より人間の本能がむきだしになっているさま、絶対的な不条理が起こってしまった場合の人間社会の行く末の描き方において、予言的で説得力に満ちている。伝染病の発症後に起こる一つ一つのエピソードは、本当に起きそうなことばかりである。
作品では印象的な場面が数多いが、私が一番こわいと思ったのは伝染病が広がってしまった後の全ての人が失明している町の場面だ。都市機能は完全にストップし、時間の概念は失われ、人々は水は雨水を口をあけて飲むしかなく、店にある食料は全て盗られるだけでなく人々が奪い合う、人間の排泄物の悪臭が漂い、町中に溢れた人間の死体を貪るイヌや猫やネズミが幅を利かす。ひょっとして砂漠よりも悲惨なのでは。
当然だと思っていたものを無くしてしまったことで、人は多くのことを人と依存しあって生きていることを、いやでも考えさせられるだけでなく、人間は不条理に対する準備を怠る存在でもあることも私は作品から感じた。また、絶望的な未来しかやってこないという状況下での人間らしさって一体なんだ?と、ようするに思想よりも、人間の根本的なところを穿ち読者に考えさせる点が秀逸だと思った。
訳者のあとがきで、作者の言葉が紹介されている。

「人間が理性の使用法を見失ったとき、たがいに持つべき尊重の念を失ったとき、なにが起こるかを見たのだ。それはこの世界が実際に味わっている悲劇なのだ」(ジョゼ・サラマーゴ)

深いなぁ…。すごい警鐘だと思う。
私にとってはこの手の作品は2年に一度ぐらいで充分かも。ただ、作品はとても面白かった。この三ヶ月の間、「手にしてよかった!」と思え、かつ後々強い印象を残すであろう作品を幾つか読んだが、『白の闇』も面白いだけでなく心を揺さぶられる作品だと思う。

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昼に、先日の尺八の御仁と出会った場所に行ってみた。桜を見ながら昼ごはんを食べる人で、前より賑わっていた。


やっぱり花見は楽しいですよ



蜂がブンブン飛んでいた




夕方の帰りがけ、えらいテンションで盛り上がっている一団を見かけた。するとビールかけが始まった! 風が吹いていたのでビールのあの匂いが、こちらまで伝わってき鼻を刺激した。何かを達成したあとだったのだろうか、とても楽しそうだった。

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「河原町警察署」

先週のことだが、地下鉄駅の傍の資料館から帰ろうとした時、パトカーや警察の制服を着た人たちがいたので、足を止めてしまった。
でもこれは事件ではなくて、ドラマの撮影で資料館の建物を架空の警察署にみたてて撮影を行っていたのだ。


小道具もそれっぽくなっている



音声さんたち。もちろん奥のパトカーは本物ではない

2年前に御茶ノ水と神田で船越英一郎を見たことはあったが、にわかに出現した「河原町警察署」には誰がいたのだろう。
ドラマで何気なく登場するシーンが、自分にとってなじみの場所であったりしたら、見ていてきっとたのしいだろうなぁ。

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えっ、まさか、デジャヴ? といった体験をした。

デジャヴを意味を改めて確認したら、

一度も経験したことのないことが,いつかどこかですでに経験したことであるかのように感じられること。既視感。(三省堂提供「デイリー 新語辞典」より)

とあって、やっぱそうだよなぁと何かよく分からないけど確信みたいなものが今ある。(蛇足だがSF映画の某作品ではデジャヴには論理的意味があったりするみたいなことまで思い出してしまった。)

スペインの巡礼道で知り合ったスイス人の友人が、うれしいことに現地の板チョコを四枚、そして友人が住んでいるところの絵葉書を四枚贈ってくれて、昨日それが届いた。私はチョコレートを食べてしまう前に贈り物を画像として残しておきたくて、上のようにパチリと撮った。
画像をパソコンに取り込み、編集しているときに何か分からないけど、妙な確信がふつふつと湧いて出てきた。

「以前、同じ作業をしたことがあるぞ」

単にいつも画像を編集するような同一工程だから当たり前と思ったなら大したことは無いだろうが、それが初めて見るはずの絵葉書にある風景まで見覚えがある気がし、以前思ったような行った事の無い土地への憧れみたいな感情までついてきたから、どうなってんの?と正直我を疑ってしまったのである。まるで、以前からこの日のこの作業がやって来ることを分かっていたような気になったのだ。
まぁ無意識の領域が映像化した体験の夢というなら分からないでもない。日中に活動しているときに思い出せない夢の断片みたいなものが、今回の贈り物が引き金となってよみがって、とりあえず私にデジャヴみたいな体験をさせたのかもしれない。
人間年をとれば、かつて経験した似たようなものごととか増えていくし、また、してみたかったという願望もそれ相応に増えていく。となれば、デジャヴ体験も増えていくのか!? 普段から珍奇なことが好きな私としては、そうなるとかなりヤバイだろう(笑
フランスの作家ネルヴァルは

「夢は第二の生である」

と『オーレリア』の冒頭に書いた。リアルに名言だなと思った。

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椿姫  


デュマ・フィスの『椿姫(LA DAME AUX CAMELIAS)』を読んだ。
何年も前からヴェルディによるオペラ『ラ・トラヴィアータ(道を踏み外した女)』の原作として、一度は通読しておきたいと思っていたのに、いくら文芸の世界とはいえ現実にはありそうに無い話だという思いが強く、ずっと読まずじまいだった。
感想としては、悲劇のヒロインのマルグリットとアルマン(主な語り手であり主人公)の多感ぶりからして、登場人物をうまく操りきれていない作品、若い人が己の情念を一気に押し込んで書き上げたものだな、というのが第一印象だった。
この作品の一番の読ませどころは、やっぱりヒロインの擦れた生活なかにもきらめく純愛と、主人公の慈愛から発した蛮勇の姿ではと思う。また二人の出会いからブージヴァルでの生活までの、読み手としてはどうでも良いようなことも、細かく少し言い訳がましく盛り込まれているところが、悲劇の結末をより一層引き立てていると思った。
オペラの方は今日あらためて見てみた。音楽は素晴らしいが、オペラでは原作のエッセンスを詰め込むことが難しいと思った。

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市の西の方まで行った帰り、隘路で猫を見かけた。


いい具合に歩いているぞ

飛び上がる瞬間は撮れなかった。


チラッとこちらを見た後、見向きもしない…

御苑を自転車で通りかかると、桜の色が目に映った。



ところによっては、もう咲いているのかと思ったが満開ではなかった。
でも桜の前は桜を背景にカメラに写る人、花を間近で撮る人で、そこそこ賑わっていた。
桜の前のベンチに腰掛けていた年配のおじさんに声をかけられた。楽器のケースが気になったとのことだった。私がウクレレだと返事すると、珍しいからよかったら聴かせてほしいと言われた。
どうしようかと思ったが、おじさんと話していると、おじさんは何と尺八を30年以上も吹いておられて、定年後は古典だけでなく童謡やポップスまで自分なりに音を探して、屋外で思い切り吹いて楽しんでいるという。今日(3/21)はたまたま暖かいからか人が多くて、さすがに吹けない状態だが、大抵の日は近辺で練習しているとのことだった。
そんな御仁から声をかけられたとならば、ウクレレを出さないわけにはいかんでしょと、周囲に少し臆しつつも、おじさんといろいろと尺八の特徴や音楽全般の話をしつつ、2・3曲、ミスも連発した拙い演奏ではあったが覚えている範囲内で弾かせてもらった。
おじさんは「これに加えてビールもあればもっと楽しいなぁ」と言ってくれた。私も同じことを感じた。
おじさんの尺八の練習場所も教えてもらったことだし、いずれおじさんとは再会できるだろう。練習場所ではいろんな楽器を持った人が各々音を奏でているという。私もいろんな楽器をもった人の中の個性ある一人になるだろうと、にこやかに言ってくれた。別れ際、私はおじさんと握手して「ではまた」とあいさつした。

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クロード・ロラン「タルソスに上陸するクレオパトラのいる港の風景」(1643)

ルーヴルではクロード・ロランの絵も充実していて、とりわけ港の風景が目を引いた。
クロード・ロラン(1600-1682)は本名クロード・ジュレといって、フランス生まれだが生涯のほとんどをローマで過ごし制作を続けた。
プッサンやクロード・ロランの時代ぐらいからか、近世から近代までは、フランスやスペインの画家にとって、イタリアの風景は憧れそのものだったといっていいだろう。余談だが、フランスではローマ賞という、1位を獲ればイタリアへ国費で留学できる賞があったほどだ。留学中は絵画や彫刻の制作だけではなく先輩画家との交流や古典を学ぶきっかけもでき、大いなる立身出世の土台作りに邁進できたという。
さて、クロード・ロランの絵のことだが、この人の絵はタイトルの意味よりも風景の美しさに魅せられる。逆に言えば、物語の主題や隠喩は端の方に追いやられていて、人物は理想的な風景の添加物としか見えない。上の絵でさえ、クレオパトラとアントニウスらしき人物がかろうじて分かろうというものなのに、下の絵ではユリシーズ(オデュッセウスのこと)やクリュセイスやクリュセイスの父親である神官は、どこに埋もれているのかすら分からないほどだ。


ロラン「クリュセイスを父親に返すユリシーズ」(1644)

ロランにとって歴史や古典的な物語は、絵の中心には据えられていないんだなぁと思った。画家にとっての最大の関心は、廃墟や港や岸壁の風景をいかに理想的に描くか、それだけだったんじゃないか。画家が描くのに参考にしたとされる場所に立ってみると、あるはずの無い神殿や岸壁を絵の中に案外たやすく発見できてしまうというくらい、現実世界ではなく絵の中で”理想の現実”を追求した(まるで言葉のあやみたいだが)のがロランの絵ではないかと思った。
となれば、いろんなパズルのピースを当てはめて、きれいに見えるバランスを考えればいいだけなのか?と思う人もいるかもしれないが、それだけでロランの絵の魅力は語れないだろう。決して手を抜かれることのない芸の細かいところが私はとても好きだし、また驚かされる。小さく描かれる数多い人物の配置や、豊かな木々、雲、波、そして太陽(光線)などの束の間の輝き方なくしては、風景の公式のような理想的なもの、そして見ている側の感動は生まれないと思うのだ。
プッサンが演劇的な配置で理想を追求したとするなら、ロランは大きな風景を丸ごとそれも隙の無い配置で理想の世界を描き出したのかもしれない。


ロラン「夕日の海港」(1639)

フランス語のタイトルでは"Port de mer au soleil couchant"となっていた。


ロラン「ローマのカンポ・ヴァチーノの風景」

上はロランの「ローマのカンポ・ヴァチーノの風景」という作品(カンバスであり)を版画にしたもので、カンバスの方と並べてみると、左右対称になってたりするので、おもしろかった。

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二月中旬に春一番が吹いたものの、最近の寒さと風の強さからして今や春五番くらい吹いているのではと思ってしまう。



昨日はルールすら分からないのに何故だかNHKの囲碁の時間(棋士の趙治勲(ちょうちくん)は、囲碁の鬼ですよ。タイトル獲得数70おめでとうございます)を見ていて、外に出るのが遅れた。
一昨日よりはマシだったものの、依然風は強く寒かった。時間も時間だったので、いつもの川辺ではなくそんなに遠くない公園で、ウクレレをポロ~ンと弾くことにした。そこで、私にとって「これぞ!」と思うような体験をした。
詳しい経緯は長くなるので端折るが、まさか公園で隣のベンチにいた全く面識の無い家族連れのお母さんと小3くらいの男の子が、親子で私の頓興な「涙そうそう」に歌を乗せてくれるとは思いもしなかった。
私は人前で演奏する緊張と、しばらく弾いていない曲への戸惑いから間違えまくった。でもその男の子の喜びようは心底からのものだったし、お母さんの方は「ヒロ、あんたウクレレ始めてみるか?」とまで言ってくれたのだ。
その間、隣のベンチにいたままのご主人はイヌの手綱を持ったまま遠くを見て座っていたが、時間になるとお母さんと男の子は私に満面の笑みで「ありがとう」と言って、家族揃って公園を後にした。



私は童話作者として有名な作家のアナセン(アンデルセンのこと)の『即興詩人』という紀行小説のことを思い出した。主人公アントニオは子供時代に夜のトレヴィの噴水の前で、楽器を手にした即興詩人の演奏と歌を聴いて感動し影響を受ける。
まぁ、今回の私の場合は、即興詩人ならぬ頓興詩人…即興演奏どころか頓興演奏であるのだが、それにも関わらず、私のウクレレを聴いて喜んだ人がいたことは何物にも代えがたい貴重な体験だと思う。また、ここ数ヶ月の間にアントニオ少年のごとき?私に影響を与えてくれた方々の演奏を改めて聴きたいと思った。


(画像は上に触れた公園なのですが、自身が体験した貴重な場面は、やっぱり画像には残せないものですねぇ…)

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ここ最近の川辺でウクレレ持って過ごす土曜日はアフガニスタン人と出会ったり、かつてフルートを演奏していたと言う神秘的なオーラを纏(まと)った人と出会ったり、珍奇なことが立て続けに起こっている。
昨日(土曜)は晴れていたのに風が強くて寒くて、いつもの川辺でウクレレをポロ~ンと弾くには厳しい日だったが、珍奇とは呼べないにしろ久しぶりなことが私を待っていた…。
そのことは後に述べるとして、まずはベンチに腰を下ろしたときの光景について。
鳥ってカメラで撮ることは難しいと思うのだが、私にとって昨日はコンパクトカメラ(いつものデジカメ)でさえ鳥を近く感じた珍しい日だった。(以前にはカメラどころかこちらが望まぬのに、鳥をまさに鳥肌が立つくらい間近で感じたこともあったが、それは例外である。とはいえ、いつでも起こりうる「例外」なのだが…)


トンビが地面を歩いている私にとっては珍しい光景。トンビにゃ悪いがあまり凛々しくない…



エサを撒いたわけでもないのに、雀が間近に



「大きいツヅラか小さいツヅラ、どちらにしますか?」



「仲間連れてきました」



「人間にゃ、ある程度慣れてます?」

カメラを閉まって、自転車のカゴにコード表を入れてウクレレを弾き始めたときだ。折からの強風と自転車のスタンドを立てていた下の土が軟らかいせいで、自転車が倒れた。
すると近くにいた手にビラを持った二人の男(一人はネクタイは無しでスーツ来たおっさん、一人は野球帽をかぶりヒップホップでも踊りそうなスタイルの若者)が、自転車によってきて立てるのを助けてくれたのである。私は会釈してお礼を言い、それからまた弾き始めた。
ところがこの二人、私の前から立ち去らないのである。しばらくジッと私の様子を窺ってから、おっさんの方が私に話しかけてきた。
楽器のことを尋ね、弾いている私を褒め殺し、そして弾き始めてどれくらいになるか訊かれた。一問一答で応じていると、おっさんはビラを私に差し出した。
「いま新しい新聞を配ってるんだけど、よかったら後で読んでみてください」
ビラの見出しだけで何が目的か、すぐに分かった。「布教活動」だよ。ここ2年ほどは無かったが、久々のあの怪しい雰囲気、私の中で緊張が走った!
邪魔をしてほしくなかったので、ビラを適当なところに置いて、ひたすら弾いていた。すると、おっさんが言った。

「お兄さんのウクレレが上手くなるように、祈らせてください」

私はもう少しで大笑いするところだった! この場合、弾くのに邪魔なんで、と語気を強めて(実際私はイラ立った)なにか言うべきだったろうが、おっさんの一言に対して笑いを禁じえないというのも無理な話だろう。祈って演奏が上手くなるかコラ、などといった揚げ足を取るのではなく、もっと気の利いた返事をしてやりたいが言葉にならない、そんなムズムズ感がやるせなかった。
結局、その場はスパッと断り、私はあさっての方角を向いてひたすら弾きつづけたので、事は終了したわけであるが、しばらくして私は、演奏が一瞬で上手くなるように祈って奇蹟を起そうとするよりは、自転車が倒れないよう「風よ、おさまれ」と人知れず祈ってくれる方が、お祈りの対象としてふさわしく、よっぽどありがたい、それこそ私だけでなく寒さで散歩するのも辛いと思っている万人への功徳というもので、説法に適った本当に「有り難い」話ではないかと思ったのである。
そのあと、私は弾く場所を変えるため対岸に移動した。一段と風が強まった。風は煩悩丸出しの私に吹き続けたが、近くに座っていた男女のカップルとサックスを練習していた青年にも容赦なく吹き付けた。でも、川辺ではそんな寒さなど日常茶飯、各々は土曜の午後を楽しみ、それこそ寒さなどどこ吹く風なのであった…。

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