デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ギュスターヴ・モロー《ヘシオドスとムーサ》
 きれいな写りの方はこちら

イタリア留学、そのあと更なる研鑽を重ねたモローは、実に9年ぶりにサロンで自己の独創性を問うた。その作品は現在ニューヨークにある《オイディプスとスフィンクス》で、その後は古代神話を独特の解釈で図像化する個性的な画家という評価が定着していく。
普仏戦争や、パリ・コミューヌ(パリ市民が蜂起して誕生した労働者階級の自治による革命政府)のなかでも想像力を最大限の創作エネルギーとしてイメージを練り続けたモローは数々の作品を発表し、1878年のパリ万国博覧会、80年のサロンに参加する。
その後は、彼のコアなファンが作品を待ち望み、仕上がるとすぐに持って行ってしまうような、(ある意味幸せな)ありさまだった。パリ内でひっそり?と彼は、ドローネーやシャヴァンヌ、愛人アレクサンドリン・デュルに囲まれ、充実した芸術生活を送ったとされる。
アレクサンドリンを亡くしたモローは、友人ドローネーの意志を汲んで、美術学校教授になった。そして20世紀の美術を担う若手の成長に大きく貢献するのだが、彼の画風は時代とともに忘れ去られていく。
私がモローの好きなところの一つは、教授になってから生徒たちにもっぱらルーヴルで学ばせ、生徒の個性を伸ばすような教育をしたことだ。人間はなんだかんだいって、自分のスタイルというものを後世にお仕着せさせたい心理が働くと思うのだが、彼は自分の画風を生徒たちに教えるというよりは、アカデミーに学ばせた。
ということは…変な書き方だが、かえって自分の画風はモローだけのものになった、という逆説が考えられるのではないか。つまり、自分にしか描けないことは亜流を生み出さない結果となり、鑑賞者が大きい美術館の中でも誰が見てもこの画風はモローの絵だ!とすぐにわかるような、自分だけのものが残ったのではないか。
逆にいえば、多くの研鑽を重ね、自己の独創性を追及し続けたからこそ、生徒たちに古典の絵画の研鑽を、しかしながら生徒たちに自己のスタイルと確立させる導き手になったのかもしれない。
この後、20世紀の美術に欠くことのできないジョルジュ・ルオーやアンリ・マティスらが出るが、その導き手としてモローというなくてはならない教育者の存在もあった。

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ギュスターヴ・モロー《ヘシオドスとムーサ》

この記事を書くために読んだ参考図書には1892年3月9日に開かれた第一回薔薇十字展の憲章(審査基準)というものが載っていて、それを読むと考え込んでしまったのである。審査基準の詳細は省くが

「ここには1874年の第1回展以来,激しい非難を浴びせられつつも,徐々に力強く市民権を獲得しつつあった印象派の絵画傾向に対する強い反発と,伝統遵守(じゅんしゅ)に安住して本来の精神性を失っているように思われるアカデミスムへの批判の両方がはっきりと現れている。」
世界美術大全集 西洋編 24

という文章を見たとき、偏屈なまでに古典を賞賛してしまうときがある私にとっては大変困った?ことが書かれていると思った。
私は、ただの不勉強でやたらめったらむちゃくちゃに描いたものが、現代からすれば「歴史」や「権威」になってしまっててほしくないという思いが強い。ようするに、19世紀末の象徴主義絵画や幻想美術を描く画家がアカデミーや印象派を踏まえたものであって欲しいのである。(世の中、単純な二項対立的なもので片付けられるものはないことは頭では分かっていても、型があっての型破りという言葉を自分の都合のいいときだけ好んで使う、なんと浅ましい(笑))。
ここまで強く思うのは、ギュスターヴ・モローという画家が私にとって大きい存在だからである。


ギュスターヴ・モロー(1826-1898)は、新古典主義の流れをくむピコという画家のアトリエに学んだが、ドラクロワの情熱的なロマン主義の画風に引かれ、ドラクロワの色とアングル線を統合する逸材とされたテオドール・シャセリオーの壁画に感激した。モローはシャセリオーに私淑するが、シャセリオーは1856年に早世してしまう。その翌年、モローはドガなどと交流したイタリアへ2年間の留学に出、留学後もさらに研鑽を積んで、独自のスタイルの模索する。

今日はここまで。つづく

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トマ・クチュール「頽廃期のローマ人」(1847年サロン出品)

この絵について書きたいと強烈に思った時期があったが、今となっては「どうしたものか?」と思っている。もちろん、クチュールの作品が悪いのではないし、当時のサロンで名声を確立したこの作品のすばらしさを言い表すためには、私などがどれだけ言葉を足そうにも足りないだろう。ルネサンスのヴェロネーゼやロココ時代のティエポロの構図や色彩をふんだんに取り入れられたこの作品を、現地で見上げた頃は、それこそなんと言うデカダン、末期・終末とはまさにこういうものだ、と一人目を見開いて頽廃とはおよそ反対の感情に包まれて、この絵を驚嘆でもって見ていた。

ただ、今となっては疑問がふつふつと湧いてくる。というのはこの作品が古代ローマの詩人ユウェナリスの風刺詩に想を得ているからなのだ。ユウェナリスが活躍した時代はあのアウグストゥスがカエサルの構想を実施に移した時代で、クチュールの絵のような頽廃・不健全な様子・風紀が乱れた光景があちこちで見られたとは、考えられない時代なのである。ちなみに、アウグストゥスの次のティベリウス帝となると、剣闘士の試合すら皇帝がスポンサーになるのをやめたぐらいなのだ。それに大体風刺詩というのは平和な時期に作られるものなのである。
ようするにダ・ヴィンチの「最後の晩餐」が紀元30年あたりのユダヤ人の食卓を正確に描いていないのと同様、この作品も歴史画としては史実に迫っているとはいえないのである。





大きい作品で迫力は段違いだった。

トマ・クチュール(1815-1879)はダヴィッドの高弟グロとアトリエを継いだドラロッシュの下でアカデミックな教育を受けたが、ローマ賞には失敗する。そこでローマ賞よりはサロンでの成功から社会的に認められる道に進む。
彼の作品は新古典派の作風と必ずしもいえず、どちらかというと反アカデミーな画風である。かといってロマン主義に傾倒しているかといえばそうではない、いわゆる折衷主義なのだが、この作品が圧倒的に成功したときは新古典派とロマン主義の融合から生まれる歴史画再興の旗手と目された。
「頽廃期のローマ人」の成功以後、彼は大きな作品の注文を受けるが、さまざまな理由からほとんどが未完に終わり、時代も彼との折り合いが悪くなった。その後、彼は厭世的な気分に陥り、故郷サンリスに引きこもる。
彼のことを肖像画家へ転身しなかったり、前衛画家として一歩踏み出せなかった悲劇の画家として片付けられることがある。しかし、彼のような存在、彼が生み出した作品がないと次なる世代が出てこなかったのも確かなのだ。実際、彼の弟子であったマネの作品が、そのことをしっかりと語ってくれているではないか。

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オルセー美術館内部

 



写真は撮ったが、誰の絵かをメモしてなかった。

 



アレクサンドル・カバネル「ヴィーナスの誕生」(1863)


オルセー美術館で目に付いたカバネルの作品は「フランチェスカ・ダ・リミニとパオロ・マラテスタの死」もあったが、やっぱり印象に残っているのは「ヴィーナスの誕生」である。
カバネルのことを調べてみると、頭の中でこらえながらでしか書けないようなテーマに、ぶちあたってしまう。伝統と革新の問題である。
芸術の世界も人が創作することで存在しているわけだから、常に変化しているのは分かるのだが、それでも私は時々ひどく偏屈で、ともすれば権威主義的な考え方に囚われることがある。たとえていうなら、『ドン・キホーテ』や『カラマーゾフの兄弟』をまったく読んでない作家が書いた小説を好きになれないという感じだ。
19世紀フランスの美術って混迷期で、アカデミズムもあればロマン主義もあり、自然主義もあれば写実主義もあり、レアリスムや印象派もあるという「乱立」という感じで、決して一言では語れない。ただ新古典主義を基とするアカデミズムがあったからこそ、のちのあらゆる近代絵画がある、つまり、伝統のないところには真の前衛は存在しえないことを、カバネルの作品を見ると考えさせられるのだ。
残存していた正統派アカデミズムの画家ともいえるカバネル(1823-1889)は、ナポレオン3世に愛された画家だった。1845年に22歳でローマ賞を獲得してイタリアに5年間留学する。帰国後は1855年にレジオン・ドヌール勲章を授与され、1863年には40歳の若さで美術アカデミーに入ると同時に、改変された国立美術学校の教授に彼はアカデミズムの世界での出世コースを理想的に歩んだ。
彼が獲得したローマ賞というのは、一位を獲得すると国費でローマに留学させてもらえた賞のなのだが、受験者はアカデミー会員の提出する課題に従って制作し、また試験は第三次選抜までおこなわれていた若い芸術家の登竜門でもある。
一次試験は古典文学や歴史から試験官が選んだ主題を一日のうちに油彩習作に描くというものであった。20名の合格者が挑戦する二次試験で科せられたのは、男性の裸体モデルをやはり一日のうちに油彩習作に仕上げることであった。最終審査にのこった10名は古典の歴史画や物語画を、大きなカンヴァスの油彩画として仕上げなければならず、最終審査の第一日目に受験者に下絵を描かせ、それに基づいて70日ほどかけて制作させたものが公開され、審査を受けるのだった。それで最終的に入選作が決定されるのである。ちなみに制作中は日曜以外、缶詰状態である。
ローマ賞はアカデミーが創立以来原則として保ち続けていた芸術観に沿って与えられ、またアカデミーは肖像画や風俗画や静物画や風景画を、物語画・歴史画よりも下に見ていたこともあって、乱暴な言い方をすると頭の固い権威主義の象徴みたいにとらえられることがある。しかし、ある社会が要求する美術を一定の水準で供給する芸術観は、組織的な教育なしには決して生まれえなかった。それもまた美術の重要な役目なのである。
いつだったか、市川猿之助が自ら行ってきた興行を踏まえて、「型があっての型破り」と言っていた。6年前に福岡で見て度肝を抜かれた、ピカソが13歳で描いた「年老いた漁師(サルメロンの肖像)」(1895)も、その言葉の重要さをなげかけていなかったか…。
人生は短いから自分のやりたいことをやった方がいい、という人生観は確かにそうなのだが、過去にあったさまざまな芸術の型を軽視どころか何も学ばずに、やりたいことを楽しいからおもしろいからというだけで弾けたとしても、後世に残るものはない気がする。アンシャン・レジームを学ばずして新進を纏(まと)うことはできないのだ。
もちろん、作品を見ての感想は各々異なるのは当然だし、上に書いたことはときどき私を襲う偏屈な一つの感情である。しかし、斬新なデザインのオルセー美術館は、見方によっては対立ともとれる、古典と革新の両方を展示しているのである。このことを思い出すと、古いものと新しいものを同時に受け入れるパリというかフランスの気質を感じる。カバネルの作品はオルセーの気質の代表的な何かを、作品自体で示してくれていると思った。



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カミーユ・コロー「朝、ニンフたちの踊り」(1850)

カミーユ・コロー(1796-1875)の作品については書くまで何故か時間がかかった。作品は素晴らしいのに、文章にしようとすると「書きたい!」という熱烈な思いが湧いてこないのである。
というのも芸術作品を鑑賞し感想を述べるうえで、作者の生涯ではなく作品でのみ評価したら?と考える人には良いが、私はどうせなら作者の生涯と絵の関係について、ある程度分かっている限りは恐れ多くも生涯にも触れたいと思っているからだろう。もちろん、コローの生涯は退屈なものではなく、二月革命(1848)以降に作品が認められるまでは苦労も多かったろうし、私も気分が乗ればぜひ紹介したいエピソードもあるのだが、人格として好人物(お人好し過ぎる!?)な有名人は得てして書きづらい(笑)。

コローの両親はともに実業家夫婦で、コローは唯一の息子だった。経済的には裕福なものの両親は多忙で、コロー4歳までパリ近郊の村へ里子に出された。生涯、風景を愛す三つ子の魂はここで培われたといわれている。
青年期に入り、父のすすめでラシャ卸業者に見習いに入るものの、帳簿に落書きをしたり、配達の途中で風景のスケッチに熱中してしまうコローには、商才を期待できないのであった。
20代になると、当代のプーサンとの呼び声の高い風景画家ミシャロンに弟子入りするが、ミシャロンは急逝したため、ミシャロンの師ジャン=ヴィクトル・ベルタンの下で、戸外の写生を材料にアトリエで調和の取れた自然景観を構築する伝統的な風景画の技法を学ぶことになった。
1825年から3年間、コローはイタリアへ私費留学する。現在にも残るルネサンス期の傑作を目の当たりにしたコローだったが、彼の目は戸外の自然に向いていた。イタリア留学を果たしたコローは、フランス各地を写生旅行して回り、冬場はパリのアトリエで例年のサロン出品に備えるという生活を、78歳で死去するまで続けることになる。
コローは当時の新進気鋭の自然主義の画風や印象派などの革新の動きには、怖気を振っていた。たとえばミレーの人柄は愛したが、

「私にとってこれは新しい世界だ。途方にくれてしまう。私は過去の古典と結びつきすぎているのだ。私はここに(ミレーの作品に)偉大な科学を、大気を、深さを見る。そかし、これは私を怯えさせる。私は自分の小さな音楽のほうが好きだ」

と、コローは語っている。しかし1852年という早い時点からの肖像写真を撮影したり、映像技術に関心を示すなど、決してコローが保守的で革新に無理解であったとはいえない。
1855年の万国博覧会でコローの作品は最高賞に輝き、作品がひっぱりだことなると贋作も出回りだした。しかし、コローは人助けになるなどともっともらしい理由で懇願されると、その贋作に署名までしてやり、あまつさえできの悪いものは加筆修正してやったりした。コローは生涯で二千点の油絵を描いたが、現在アメリカだけでも五千点のコロー作品があるという(笑)。画名の上昇とともに増える収入も、大部分は近親者や友人への援助、寄付に当て、画家のドーミエには家まで買い与えた。(人格として好人物(お人好し過ぎる!?)な有名人については、得てして書きづらい、という意味、なんとなくご理解いただけたかと思う(笑))。

というわけで、作品の感想を述べる。
「朝、ニンフの踊り」は、実はこの作品はコローの真骨頂といっていい「…の思い出」とかいった抒情性をもたせた風景画が登場する頃(1850年以降)に描かれたものなのだ。この作品はコローがパリに滞在中によくオペラやコンサートによく足を運び、心ひかれた俳優や観客の姿をクロッキーに写したことと、第一回のイタリア旅行のスケッチを、無理なく融合させた作品となっているそうだ。
作品を見ているときにはそんなことは知らず、抒情的に描かれている風景と踊っているニンフ(精霊)の意味を勝手に自分の中で作り上げるのが精一杯だったが、舞台の俳優の動きをニンフたちの動きに例え何番煎じであろうか平気で用いるところは、彼の自分の音楽を愛すこだわりの顕れかもしれない。

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ミレー『春』(1868-73)

画家によっては《四季》を表す作品の注文を受けることがある。《四季》の絵といえば、ルーヴルで見たニコラ・プッサンの晩年のシリーズが印象に残っているが、それは聖書にテーマにした作品だった。
ミレーも《四季》の注文を受けた。先輩画家のテオドール・ルソーのパトロンであったフレデリック・アルトマンが、ルソーに《四季》を注文していたが、ルソーが1867年に亡くなり、そこでミレーに注文がきたわけである。
ミレーの《四季》の内、オルセー美術館で私が覚えているのは、この『春』だけである。といっても作品を見たときに、《四季》として描かれた一枚、ということも知らなかったのであるが(笑)。
もし、部屋に飾ろうとしたところで、私なら正直迷うような絵だ。どういった部屋ならこの絵がいきますか?と、インテリアに詳しい方に尋ねてみたい。もし、これをご覧になっておられる方で、ミレーうんぬんなしに「私ならこういった部屋にこの絵を飾る」というご意見をお持ちの方、ぜひコメントお待ちしています。
作品の話に戻ると、バルビゾン派の風景画の特徴として、ルプソワール(画面の手前を暗くすることで奥行きを強調する方法)が用いられており、風景はとても広く感じる。ルプソワールに加えて、二重の虹の描きかた、そして野道をたどるように見ていくと、中央からちょっとだけ右に、木の下で雨宿りしている人物が小さく描かれていることが分かる。私の撮った画像では分からないが、下の図版なら分かるだろう。


はじめこの絵を見たときは、ミレーという名前負けしてありがたく鑑賞したのだった。一見、ゴチャゴチャした絵で、虹だけが綺麗だなとか思っていた。しかし、そのゴチャゴチャは、しっかり作品を見るとミレー晩年の真骨頂である細密さそのものなのである。人が描かれていることが分かったとき、驚くというよりビビったという感じだった。えぇ!?人がいるのかよ!と(笑)。 この人物が描かれているせいで、この作品にはいろいろな解釈がなされたのだそうだ。
間近で見たり、離れて見たりしているうちに、春ってこういう感じのときもあるなぁと、思った。雨雲に支配された空のなかで見られる少しだけの青空(右上に見える)なんか、特にそうで、雲の動きが足早であることを思わせるところなんかそうだ。
この作品も、オルセーに行かれたなら、ぜひじっくりと見て欲しい作品だ。日本に来たことがあるかは知らないが、個人的にはぜひ来て欲しい(笑)。

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ミレー「羊飼いの少女」(1862-64)

この作品も日本に来たことがある。
日本放送出版協会『オルセー美術館1』の解説を引用すると、「美術愛好家ポール・テッスによる注文作。羊飼いの少女という主題はミレーがすでに何度も描いていたものであり、この作品は綿密な完成度を見せている。1864年のサロンに出品されて大好評を博したが、有力な批評家ポール・マンツは「この静謐な風景、優しくばら色で、詩と光に満ち満ちた空」について語っている。シャイイの広大な平原を舞台に羊の群れを背にして編み物をしながら立つ少女は愛らしく、全体の構図も巧みにまとめられている。」とのことだ。
作品は農村に抱く理想の典型の一つとして、この作品が農民画家にしばらくのあいだ影響を与え続けたそうである。解説をなかで大好評を博したとあるが、私はこれまでのミレーの描いてきた農村の風景に批判的だった人々が、時代の変化で作品に好意的評価あたえるように考え方を変えてきたのではないか、と思っている。
こういった逆光でとらえられる風景を、派手な彩色を使うことなく抑えた色使いで表現しているところは、画家の力量を感じさせる。抑えた色調なのに細かい表現ができる、というのはミレーの画家として円熟期を示すものではとも思う。
それに作品自体も心を打つなにかがあると思う。以前にも同じようなことを書いたが、私の感覚では、旅行時に写真に撮れたら非常に幸運だ!と思うような光景だ。とはいえ、実際にそういった光景に出くわしても、羊たちがワサワサうごめいて、羊飼いも編み物どころではないだろうなぁ(笑)。

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ミレー「晩鐘」(1857-1859)

この作品も日本に何度か来たことがある。日本でご覧になった方も多いのでは?
ミレーが農家出身であることは前回書いたが、この作品はミレーの小さい頃の記憶のなかにある感情を思い起こして描かれたところがある。ミレー自身、友人にこう書いている。

「《晩鐘》は,かつて私の祖母が畑仕事をしている時鐘の音を聞くと,いつもどのようにしていたかを考えながら描いた作品です。彼女は必ず私たちの仕事の手を止めさせて,敬虔な仕草で帽子を手に,『哀れむべき死者のために』と唱えさせました」

作品に描かれているのはシャイイ平原だ。絵の右側遠方にシャイイの教会がある。彼は、きっとバルビゾン村近郊のシャイイ平原の農地で働く人々の夕べの鐘の音に祈りを捧げる姿も、数多く見てきたことだろう。
この作品については、男性の戸惑いつつ物思いにふけるような様子と敬虔な女性との対比や、夕暮れの光の移り加減の捉え方、作品から感じる農村における信仰の理想と当時の情勢から見た作品の価値、最初はアメリカに売られたが国民的財産として高値で買い戻されたことなど、研究を踏まえて書かれた充実した解説がある。
それらの解説も興味深いが、私はこの絵を見たときに受けた衝撃を大事にしたい。それは、絵から夕べを告げる鐘の音が聞えてきそうな錯覚?に襲われたことだった。もちろん日本であれオルセーであれ、館内の少量の喧騒は聞えていたのだろうけど、遠くから響く鐘の音とほとんど凪といっていいほどの風の音、じっと佇んでいても僅かに動いてしまう足と草地とが擦れる音までもが、感じ取れるような気がしたのだ。
日本で初めてこの絵を見たとき、その特別展会場内で、絵の痛み具合からして次は「長旅」に耐えられないかもということで、もう日本に来ないのではないか、みたいなことが書かれていたが、今でも作品の保護の観点からすれば日本に来て欲しくなく、でも再び来て欲しい、といったような複雑な気分になる。

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ジャン・フランソワ・ミレー「落穂拾い」(1857)

前回少しだけ触れたバルビゾン派であるが、その発生についてもう少し書こう。
画家たちがバルビゾン村にやってくるのは1820年代に入ってからである。1824年にはバルビゾン村に一軒しかない宿屋兼居酒屋のガンヌ親父の店ができ、行商人や芸術家たちがガンヌの店に滞在した。以降、ガンヌ親父の店だけではなく、村に居を構えて創作に励む芸術家たちも出てくる。
1860~1870年代になると、バルビゾンは名声と栄光の場所になっていたのだが、その名声と栄光を得るにあたり大いに貢献したのがミレーの作品である。

ミレー(1814-1875)はグリュシーという寒村に生まれた。生まれた家は、代々農家をやっていたが、ミレーはデッサンの才を発揮する。農家を継がせることを諦めた父親は、シェルブールの画家の下に弟子入りさせ、ミレーは1836年にはポール・ドラロッシュのアトリエに入った。ドラロッシュはミレーの才能を見抜き、ローマ賞に挑戦させるが失敗する。その後、ミレーはルーヴルでの模写で独学する。
1840年には初めてサロンに入選し、シェルブール市議会が購入するが、作品が当時の評価基準であった理想化された作風ではなかったので、ミレーの作品は市議会からの受け取りを拒否される。
翌年には結婚するが、病弱だった妻はその3年後に他界する。1844年末ごろに生涯の伴侶となるカトリーヌ・ルメールと知り合うが、誇り高いミレーの実家は宿屋の下働きだったカトリーヌとの結婚を認めず、二人は駆け落ち同然でパリに出てきたのだった。それからの生活は子供も生まれたこともあり、困窮したものになった。
1848年の二月革命がミレーの作品を世間が注目するきっかけを与えた。共和制政府がミレーの筆による道路工事をする人たちや、農村の労働者を描いた作品を購入するようになり、ミレーは本人の自覚はともかく、まわりから強烈な共和制主義者と見なされるようになる。尤も、ミレーの作品を理解したのはフランス以外のアングロ=サクソンの人々という一面もあった。外国でミレーの作品が購入され始めると、その後の作品の値段も上がっていった。当然、保守的な体制を支持する人々からは睨まれることになった。
1849年、ミレーは妻と子供とともにバルビゾン村にやってきた。コレラを避けてのことだったが、その後ミレーは村に住み着くようになり、村に滞在していた自然への讃美と反アカデミーの姿勢をもつ芸術家たちと親交をむすんでいく。(もっともバルビゾン派の画家たちとは、1849年よりも前に交流があった)
「落穂拾い」が描かれるまでのミレーの略歴を、大雑把ではあるが紹介した。ミレーは結婚した妻ともども、けっこうというか、かなり苦労している。しかし、生まれた場所や、移り住んだことのある場所の風景を讃美していたのか、ミレーは彼の特徴である空の開けた、明るい風景画を数多く残している。
開けた風景画ともいえる「落穂拾い」は、畑の所有者から許可を得て自分たちの食べる麦を拾っている女性たちが前面に描かれている。下を向き懸命に作業をしている彼女たちは、もちろん畑の所有者でなく、また所有者に雇われている身でもない、最下層の人々である。遠くには積み藁や収穫人、畑の所有者?らしき人物が馬に乗って、こちら側に目をやっている姿が描かれているが、それらは広大な畑とともに薄っすらとしか見えないので、彼女たち姿が前景に取り残された形になっているのだ。だから、絵を見るものにとってはなおさら、この絵から受け取るメッセージが強調されるのだ。
このテーマは形こそ変われど、現代にも通じている。いつだったか、TVCMにこの絵が用いられていたことがあった。それは彼女らが作業している畑の手前に立派なアスファルトの道路があり、そこをスポーツカーが高速で通り過ぎていく車のCMだった。CM制作の表現にもいろいろある、という意見もあるだろうが、私は正直寒々としたものを、感じざるを得なかったことを覚えている。

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アレクサンドル・ガブリエル・ドゥカン「フォンテーヌブローの田舎の農園の中庭」

オルセーに至っても「名作たち」シリーズで行きます。
オルセー美術館の作品はミレーやモネやマネ、ルノワールなど、有名な画家のものが多いが、私は最初にドゥカンという画家の絵に目が行った。個人的な思い出として、私はこの絵を一度日本の展覧会で見たことがあったのだ。思い出に残っている絵と、遠く離れたところで再会できるというのは、なかなか言葉では表し難い感がある。
さてこの「フォンテーヌブローの田舎の農園の中庭」だが、フォンテーヌブローというのはパリからさほど離れていないところにあるコミューンで、歴代の王が愛した場所である。フォンテーヌブローには広大な森があり、隣接しているバルビゾン村に19世紀前半からテオドール・ルソーなど、芸術家たちが住み着いた。のちにバルビゾン派と呼ばれる派の名称は、この村の名前が由来となっている。
そのバルビゾン派初期の推進者がドゥカンである。ドゥカンはちょっと変わった経歴の持ち主で、1828年にスミルナとトルコに任務を帯びて派遣されているのだ。私個人の印象では、ロマン主義以降にオリエントから影響を受けた画家として、珍しいほうではと思う。
バルビゾン派の画家たちは、美しいフォンテーヌブローの森をよく描いたが、ドゥカンは東方の影響もあってか、風俗や風景・建物を題材にした。この絵はドゥカンの私的領域という感の強い作品だが、バルビゾン派の画家たちが自然ばかり描いていたのではないことを示す好例といえるかもしれない。それにしても、この陰影の描き方は、まるでトルコの太陽みたいではと思う。フォンテーヌブローの田舎の農家を写実するというより、太陽とその影を強調した感があるのは、彼の東方の記憶によるものかもしれない、といった評があるのだが、私もそう思った。

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