デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



大広間・本丸まで来れた


本丸といえば天守閣をイメージしてしまったが、
浅井・朝倉連合軍と織田軍が戦っている頃は現存
するような天守閣を造ること自体珍しかったのだ。






本丸の石垣か・・・





手作り感がする


日が落ちそうなので引き返す




供養塔


浅井長政墓は別の所だとのちに知った。


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こう見ると姉川の合戦の舞台は広範囲であることがわかる。


説明板と同じような感じで撮ってみた


首据石、とな。。。




桜馬場


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御茶屋

小谷城主郭部最先端の曲輪で、小規模な御殿があったと考えられている。西側の隅には庭まで作られていた可能性がある。


伊吹山だ




御馬屋

馬洗池

小谷城を特集した番組で、小谷山自体が一つの城塞都市みたいな機能を有していたみたいなことを言っていた。ここに来るまでピンとこなかったが、馬屋や馬を洗う池まであったのを見て、素直に納得した。


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司馬遼太郎 作『坂の上の雲』(文春文庫)、読了。

作品を書くにあたり、準備や下調べに膨大な時間をかけたのは分かるが、だからといって良質な作品になるとは限らない、読了直後そう思った。
この作品については以前にも触れたことがある。ちなみに10日もあれば文庫版で全8巻を読んでしまう人もいるだろうが、私の場合は読了まで21か月かかった。
遼寧半島への旅行の準備の一環で豆知識を得るために再び読み始めたのがきっかけであるが、読めば読むほど大陸に侵攻したことの理由としてロシアからの侵攻の恐れを建前にし、他の土地で戦争を繰り広げた時代を活力があった明治時代のロマン・夢としてうやむやにした作品だなと思った。
この作品の質が悪いのは明治期の外交や歴史について、自分の信じたいこと都合のいいことだけを信じ込ませる力があるところだと思う。諸外国に対して自分の「こうであったらいいな」といった歴史観から出た信念に合致したような記述を目にして作品を信奉し、ある種の精神的な願望をかなえ、それにしがみつきたくなる要素がある。作品を読んでおしまいというのでなく、20世紀初頭のイギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、ロシア、日本、各国の自国および対外の歴史について目を背けたい事実もきちんと整理したくなった。


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だいぶ日が傾いていたので時間的に微妙だったが、小谷城跡に立ち寄ってみた。





本丸のだいぶ手前の番所でこの標高である。




とりあえず行ける所まで行こうと思った。


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宇喜多秀家陣跡へ








宇喜多秀家陣跡

五大老の一人宇喜多秀家は朝鮮出兵に応じ、撤兵後は当初から石田三成に協力し西軍の副大将を務めた。
関ヶ原の合戦での宇喜多秀家軍と合戦後の秀家の運命については、この陣跡を訪ねて初めて知った。寝返った小早川秀秋に怒り小早川秀秋と決闘を覚悟するも、秀家に仕えていた明石全登 (てるずみ)の勧めで伊吹山中に逃れた。その後、薩摩に落ち延びるが家康に引き渡され、八丈島に流されそこで84歳まで流人として生きた。関ヶ原の合戦の当時28歳だったと知って、なんともやるせない気持ちになった。


田中吉政陣跡


石田三成は激戦の末敗れ、逃走することになったが、三成の捜索を命じられたのが田中吉政である。吉政は現在の滋賀県長浜市で三成を捕らえた。
解説板にもあるとおり、吉政と三成は同じ近江の出身で三成を丁重に遇した、まさに同郷のよしみといっていいエピソードはホッとさせるものがある。その礼として三成が豊臣秀吉から拝領し最後まで佩用(はいよう)していた脇差を吉政に授けた。その脇差を東京国立博物館が所蔵しているとは・・・。数年前に博物館に行ったとき刀の展示に見入ったものだが、こういうエピソードを知るとまた東京に行きたくなる。

この日の関ヶ原古戦場跡の散策はここまで。


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