デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 




トニー・ベネットの歌うジャズは今でもときどき聴いているが、やっぱり訃報は辛い。
個人的な思い出になるのだが、マペット放送局という子ども向けのハチャメチャ番組でマペットのカーミットと共演したトニー・ベネットの姿が最初だったと思う。コミカルなマペットの動きに歌の途中でちょっと笑いが噴き出しそうになっていたのもご愛嬌という感じで楽しかった。
偉大なシンガーがまた逝ったが、これからも聴き続けるだろう。


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「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」という曲を初めて聴いたのはいつだったか正確には覚えていないが、ただすごい衝撃だったことは覚えている。曲の中の、ささやきと吐息だけでなく、オルガンのように聞こえるキーボード(シンセサイザー?)の旋律がなんだか背徳的で、よくこんな歌曲を作ったなと驚かされた。同時に唯一無二ってこういうのをいうんだろうなとも思った。
東日本大震災の直後に日本を訪れチャリティーコンサートを開き、被災地の支援に取り組んだことがあるとは、初めて知った。
ご冥福をお祈り申し上げます。


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バルガス=リョサ(旦 敬介 訳)『ラ・カテドラルでの対話』(上・下、岩波文庫)読了。

読み終えたのは4ヶ月前である。

人はそれぞれに可能な方法で、ペルーから身を守るしかないのだから。

出だし17ページ目の語りかけからガツンときた。なんという絶望だろう。読んでいるうちに、読み終える頃には暗澹たる気持ちになっていそうな予感があったが、読むのをやめられなかった。腐敗した社会の現実を容赦なく描いた作品は読んでいてきついが、下巻の解説で紹介されている、リョサのノーベル文学賞受賞理由の

「権力の諸構造の地図を作成し、個人の抵抗と反乱と敗北を鮮烈な映像で描き出したことによる」

の言葉通りだった。
文芸って読み手の頭にどれほどの映像を「もよおさせる」かで、作品がその読者にとっての衝撃度や評価が決まっていくように最近思う。「もよおす」とは変かもしれないが脳内で生理的に湧き起こってくる映像が豊かで真に迫るものという意味でそう書いたが、読んでいる間に覚える臨場感といっても良いだろう。
『楽園への道』の時にも感じたが、リョサの作品にはアフォリズムや安っぽい現状批判を作中に入れ込んだら傑作小説っぽくなっているじゃないか?などという、あまりにも安易な読者への侮りや作家の自慰は微塵もない。
つまり有名な場面の名台詞やアフォリズムを読者が引用して、作品の全体像として代替させるようなことはできないし、たぶんリョサはそんなことは許さない。
なぜならすべてのエピソードが映像的ゆえ改まった金言や警句の入り込む余地など無いのだ。すべての優れた小説はそうだ、といわれればそれまでだが、この作品も読んだ者しか作品の凄みを感じることはできないだろう。
とはいえ、作品の凄みってどういったもの?と問われると、正直答えに窮する。たぶん、作品の語りの方法が複雑で読者を面食らわせるつくりになっているが、その語りの方法の複雑なところを駆使して、作品が採り上げた時代のペルーを多面的な映像として読者に「もよおさせる」ところが凄みの一つかなと思った。
実は、読んでいて、「この人物の唐突な話題転換がどうしてここで?」みたいなことがしょっちゅうあって、作者のミスかいな?編集者のミスか?などと思った。でもそれは読者に、登場人物たちの過去と現在進行形の現状を映像として反復して捉えるさせるテクニックが用いられているからであって、個人的には時にL・スターンの『トリストラム・シャンディ』や20世紀以降の「意識の流れ」文学の手法もふんだんに取り入れた感じがしていた。
リョサは作品の緒言で

「これまでに書いたすべての作品の中から一冊だけ、火事場から救い出せるのだとしたら、私はこの作品を救い出すだろう」

といっているが、この言葉には実験的な意欲作として作品に心血を注いだ思い出と自負も伴っている気がする。



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塩津園地

三月末だったが、またしても小谷城跡に行った。こちらの絵図でまだ行っていなかった出丸に行くことにした。
琵琶湖の最北の公園の塩津園地で休憩と昼食を摂った。


なにもないけど
ボーっと過ごせる



昼食の後は姉川へ。


久しぶりの小谷城跡



出丸は主郭尾根の最先端にある曲輪だ。


出丸跡の上段の曲輪


登山客も訪れていた


下段の曲輪


出丸は独立した砦となっている。最前線の砦で、城下を見下ろすように設けられた。
今でこそ木々が視界を遮っている部分があるが、曲輪がきちんと整備されていたなら180度見渡せ、たぶん虎御前山の様子もかなりよく見えたことだろう。


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唯一のお土産。CUで
買ったコーヒーナッツ

帰国して2週間後ぐらいに、韓国旅行に対しモチベーションを保っているもののコロナ禍のせいで控えている人とお会いする機会があって、
「(コロナ禍の)この時期に行ってきたの!?」
と驚かれた。
なんでもかんでも恐がってれば体裁を保てるような雰囲気に嫌気がさしていたので行きました、とか、現地では飛行機の中と地下鉄を除いてマスク着用の義務らしき雰囲気など感じられなかったとかいろいろ語った。
微妙な時期だったのはそうだが、今ならばパスポートを取得し、Q-CODEの登録さえすれば行ける(それにQ-CODEは2023年7月15日から廃止になるし、更に2024年12月31日まではK-ETA免除)ので、ぜひチャレンジしていただきたいと思っている。

韓国に行ってみたい願望はあったが、具体的にいつか絶対行くと思ったのはたぶんこの時だろう。
その後コロナ禍となり外国に行けなくなってから、韓国学校や朝鮮学校や在日朝鮮人についていろいろな人と話したり、内田樹編『街場の日韓論』などの本を読んだりするうちに、ネット上に溢れる韓国観、韓国の日本観の一定のパターンにうんざりし、たとえ現地でどんな結果が待っていようが、早めに韓国には行っておきたくなった。
またコロナ禍ゆえに一人で奈良に何度も足を運んで遺跡めぐりをしていたことが、いつか百済と新羅の地に行ってみたいという思いに拍車をかけた。
それに2022年の夏の台風のことやコロナ禍で、自分の中で湧き起こった閉塞感をどうにかしたく、衝動的にとにかく日本以外のどこかに飛び出したいというのも大きな動機だった。なんだかんだでこれが直接的な一番大きい動機だったかも(笑)。
なにはともあれ現地に行ってみて心理的にスッキリしたと思う。旅のなかで後悔というか悔しいなと思っていることもあるが、それは自業自得というか身から出た錆なので、今更どうしようもない。
とくに、食事の時間のかけかたが少ないのは悔しい。食事を軽んじていたわけではないが、一人旅だと食事をおろそかにするクセは今回も直らなかった。
ネット上の記事や動画で見られる食レポは改めてすごいなと思う。腹が減っては歩き回れないし、せっかく摂る食事を充実したものにしたい気持ちはあるのだが、あれ食べたいこれ食べたいと思ったなら必ず目的の店に行くぐらいの気概をこれからは持ちたく思う。
しかし、決して同じ旅行体験を再び味わうことはできない、一事が万事だったという点で今回の旅行もすばらしかった。振り返ってみれば自分の軽い気持ちでの決断や誤判断や無知や未経験が、かえって良い方向に転んだことの多い旅行だったという気もする。
大田市でバスを乗り過ごさなければ、遅れて到着した扶余での宿のレセプションの婦人の日本語での応対がとてもありがたく感じるようなことはなかったし、濃霧にもかかわらず扶蘇山に登らなければあの朝の木漏れ日と雲海を目にすることはできなかったし、それらはそもそも扶余を割り込ませなければできなかった体験だった。
夜に慶州に到着するような移動プランになってしまったことで、ゲストハウスでのすばらしい出会いがあったし、バス停を間違えて下車しなければ晴れ間の覗いた仏国寺の塔を目にすることができなかった。また、婦人が押し付けてきた熱々の栗を味わえなかったし、バスの待ち時間にドイツ人男性と語り合えなかったし、昼食を食べ過ぎたことで散策がゆっくり過ぎるものにならなければ、汶湖社の解説板をじっくり見ることはなかった。欲張って夜の月精橋に無理して行っていたら宿泊客の女性の誕生日を一緒に祝うことはできず、かつ年配の男性に片言ハングルで話そうとしなかったし、そのときのスタッフの青年の手料理(夕飯)をごちそうになることもなかった。
ドミトリーの同部屋の彼らやドイツ人男性からの影響が無ければ良洞村に行く決断もなかったし、昼食のフードコートでの親切もなかった。
釜山到着が大幅に早くならなかったなら宿の近くのガイドブックに載っている店で手堅く夕食を済ませそれでは味気ないものになっていたろうし、地下鉄に乗ってまで行った富平カントン市場の地元の人が味わうチヂミ店でニラチヂミと副菜とマッコリを味わえなかった。市場に行かなければ韓国での外食はやっぱり数人単位で焼肉や海鮮料理でコンロや丸テーブルを囲むスタイルが多いことを韓国の食文化として目にし考えることができなかった。宿に戻るのが夜じゃなかったなら、ウズベキスタンの男性が宿に到着してすぐの話しかけやすいタイミングでの会話の機会はなかっただろう。
運命論ならぬ結果論でそうなったといわれればそれまでだが、どれもが初めての韓国旅行の私にとっての万事だ。

扶余と慶州と釜山を訪れた実質4日間の旅行を紹介するのに8ヶ月かかりました。
編集のやり方次第では10回分の記事でぴっちりとした短い文章で要領を得たものになっていたかもしれませんが、ここまで読んでくださった方々には改めて感謝申し上げます。
弊ブログで触れた主な交通機関のチケット料金は2022年10月下旬のものであることを改めておことわりしておきます。
あと言葉のことですが、記事で触れているほど私は現地で韓国語を使ったろうか、また現地の人の言うことを聞き取れていたか、と少し疑ってしまっていますし、現地の人の言うことを理解できたように脚色してしまいたくなる気持ちも正直なところあります。自分を卑下するようですが、とくに現地の人とハングルでおしゃべりした時の私のカタカナ韓国語はきちんと伝わっていたかどうか怪しいと思います。
カタカナで記した韓国語については不正確なものもあるでしょうし、また現地に置かれている解説板の英語で書かれている説明文も誤訳している可能性もありますので、明らかな誤りがあればぜひご指摘をお願いいたします。


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帰国  


始発は5:26だった

朝5時台の始発の地下鉄に乗るために朝4:30に起床し、顔を洗って忘れ物がないか確認し、ウズベキスタン人の彼といっしょのタイミングでチェックアウトした。До свидания(ダスヴィダーニャ、さようなら)と挨拶し、ゲストハウスの階段を下りた。






始発の地下鉄も結構人が乗っていた。軽電鉄への乗り換え駅に着くとホームに人が増えた。朝8時台の飛行機に乗るにはやっぱりこの時間に飛行場に向かうわな、と思った。



軽電鉄の空港駅に着き改札でカードをピッとやったら、私の計算違いのせいもあって残高が1,400ウォンと表示された。初日に細かい札にしてもらえませんか?と頼めばよかったCUに立ち寄り、電子マネーで1,300ウォンのコーヒーナッツを1袋買った。残高は100ウォンになった。



6時に金海空港に到着した。チェックインの列に並ぶと日本語が聞こえ出した。
カウンターの女性がきれいな日本語で対応してくれ手続きをしてくれた。(まだ接種証明書が無ければ搭乗できない頃だったので)このとき、初めてワクチン接種証明書を提示した。日本国内で全く出番のなかった証明書が役立つ瞬間って訪れるんだ、と思った。
セキュリティを通過し出発ロビーにはカフェやパン屋がいくつかあったので、パン屋で朝食を買った。12,000ウォン弱の朝食だったが、現金で支払うと100ウォン硬貨1枚だけ残った。交通系ICカードの残高、現金ともに100ウォン残り、両替分はほぼ使い切ったといえるのではと思う。
具の多いホットドッグを温めてくれるサービスを頼んだら、どのタイミングで温かくなったものが出されるかピンと来なく、少し店員に気を遣わせてしまった。朝日をまぶしく感じながら朝食を摂った。

搭乗は淡々としたものだった。機内では初日の金海空港着陸時の「窓から空港の施設を撮影することは禁止されています」の同じアナウンスが流れた。





飛行機が着陸し、機内から出るまでの通路での行列で、日本語の旅行会話を勉強している韓国人男女の声が聞こえてきて微笑ましかった。


関空には10時に着陸した。

パスポートコントロールと税関の前に検疫があったが、この行列だった。日本出発前にMY SOSの事前登録はきちんと済ませていたこともあり、なにがファストトラックだよ、とボヤいた。接種証明書をチェックする担当の方々は大変そうだった。旅の疲れで喉が痛く声が少し変だったので、別室に連れていかれるかどうかハラハラしていた。
到着ロビーに出るまで50分かかった。

(旅行記としてはこれで終わりですが、あとがきみたいなものもあります。)


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富平カントン市場


食材のエリア。朝と昼
なら人が多いことだろう。

ナイトマーケットでもあるみたいで、出ている店は飲食系ばかりではなかった。



食事の仕方について書き忘れていたことがあった。
韓国ではテーブル席で摂る食事の際、食器を持たない文化であることを事前に読んではいた。現地で私も気をつけたが、市場やゲストハウスでの食事では、銀色のお碗などの食器を持つ場合も人によりけりだった。
複数人で本格的な한정식(ハンジョンシク、韓定食)や찌개(チゲ、鍋物)の店に行ったならばまた違ったかもしれない。



けっこう歩きまわってみたが、どこで何を食べるかなかなか決まらなかった。目移りしたが、一人旅の者としては複数人で入る店ばかりのように見えたこともあり、二の足を踏み続けた。
そんな時にチヂミの匂いが漂ってきて雰囲気的にチヂミ専門店っぽいところを通りがかった。中を覗いてみたら一人でも食べている人がちらほらいたので、夕食はチヂミにしようと決めた。



普通のおばちゃんたちが切り盛りする庶民的な店でホッとした。かつて某大学教授で一時期メディアによく出てた人とよく似たおばちゃんに、私がたどたどしいハングルでニラチヂミとマッコリを注文したら、「ニラチヂミとマッコリね」とサラッと日本語で応対してくれた。



マッコリを開栓しお碗に注いだものの、よく振ってから注ぐのをうっかり忘れて、韓国での初マッコリは少し残念な形となった。2杯目からはきちんと振って注いだ。
ニラチヂミは美味しかったし、量もけっこうあるので私には丁度良かった。副菜もつまみながらちびちびマッコリを啜っていた。飲みやすいなと思ったし、チヂミにも合っているので飲むペースが上がった。



自覚するまで時間が掛かったが、食べ終わる頃にはマッコリがかなり効いてきて、ガツンとやられた気になった。この500mlの1本を3人がかりで飲むんじゃなのか!?と思った。チヂミと副菜は食べきったが、もったいないけどマッコリは半分残さざるを得なかった。
ニラチヂミとマッコリで12,000ウォンだった。会計の際、おばちゃんが「一万二千えん」と冗談で言ったので思わず笑ってしまった。日本人には「いちまんにせん」ときちんと言い換えるのに慣れている口調だった。慶州でも使ったようにハングルで「ごちそうさまでした」と伝えた。



マッコリでかなり酔ったせいで、情けないことではあるがかなり気が大きくなって、このテンションのまま「あと一品なにか食ってやる」などと思ってズカズカと屋台通りを歩いていた。
でも屋台通りから一筋横の細い通りに屋台の料理の素材の荷が少し無造作に置かれてあったり、そのあたりの暗がりからネコが出てきたり、酔ってなお項垂れる人がいるのを目にして、急に現実に引き戻され暗澹たる気持ちになった。酔いが醒めてチャガルチ駅に向かった。



チャガルチ駅にて
ゲームの広告かな?

明日帰国なんだなぁといった気持ちのままゲストハウスの階段を上った。共有スペースで年配のおばちゃん宿泊客?が満面の笑みで挨拶してくれたので、地下鉄の前の酔いが醒めてガッカリしていた気持ちがスッと楽になって、私も挨拶した。
部屋に戻るともう一人の宿泊客が荷物を整理していた。なんとウズベキスタン人の旅行者で、明日早くソウルに向かう予定とのことだ。
私も明日早朝出発だと伝えた。明日の出発のためにお互い荷物をあらかたまとめる作業をしながらおしゃべりした。お互い英語は苦手だったが、ロシア語での自己紹介や旅行会話ぐらいは少し思い出せたのでロシア語で話した。私は相変わらずロシアの文豪たちの縁の地の思い出などを語って若返った気持ちだった。彼はウズベキスタン出身だがモスクワ在住であることもありウクライナを巡る情勢に心を痛めていた。
スマホの翻訳機を用いて彼は私に知らせたいニュースがあるという。その翻訳内容が「明日ソウルに行く。愚行があってソウルで100人以上けが死傷」といった内容が画面に表示されたので、なんのことか分からないと返事せざるを得なかった。(私は知らなかったのだが、彼は2022年10月29日のソウル梨泰院雑踏事故のことを知っていて、そのことを知ってるか?と私に訊いたのだった。)
22時半ごろに消灯した。マッコリの後に水もけっこう飲んだ所為で真夜中にトイレに起きたら彼も「Туалет(トゥアリェート,トイレ)」と言って起き出した(笑)。



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