デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



NHK大阪ホール

先週、地震が心配ではあったものの京劇を鑑賞しに大阪まで足を運んだ。日本で本格的な京劇を鑑賞できるのはやっぱりありがたいことだ。





演じられるのは4Fのホールなのでエスカレーターで
移動した。移動中大阪城の天守閣がくっきり見えた。



開場は開演30分前だったが、開演1時間前に
待合の椅子が足りなくなるほどの来客だった



私の席は目の前の通路の位置のおかげで舞台を
スッキリ見通せるような所だった。幸運だった。



休憩時間に

俳優さんたちの歌唱・アクション・演技・演舞、奏者の演奏はとても良かった。俳優さんやスタッフたちにとって最高の最終日だったのではないかと思う。

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演奏会形式での歌劇「エフゲーニ・オネーギン」(原作А・С・プーシキン、作曲チャイコフスキー)全三幕を見た。チャイコフスキーが曲をつけた歌劇の作品には「イオランタ」や「スペードの女王」などがあるが、「エフゲーニ・オネーギン」をフルで鑑賞したのは初めてである。
あの作品にチャイコフスキーは淡々としたなかに派手さを抑えた厳かな調べをあてたんだなと感心した。原作のすべてを160分程度の歌劇で表現することはできないものの、原作の中に出てくる象徴的なセリフや描写が出てくるタイミングやそれにあてられた旋律はあくまで原作の韻文を際立たせるためのものという姿勢が感じ取れたように思う。
「イオランタ」も「スペードの女王」も再鑑賞したわけではないが、個人的には「エフゲーニ・オネーギン」がチャイコフスキーの歌劇の中では一番よくできているのではないかと思った。

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昨日の未明、BSチャンネルでR・シュトラウスの歌劇『ばらの騎士』が放送されていたが、録画予約の操作をしっかりしていたつもりがミスしていて、録画できていなかった。
自分のミスゆえ仕方がないがやっぱりくやしい。録画しそこなったからこそ、無性に見たくなってきてしまう(笑)。
ただ、この作品はカルロス・クライバー指揮の分でDVDが存在しているゆえ、図書館等で鑑賞することはできる。ひさしぶりにクライバー指揮の分で見てみようと思った。

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開演30分前に

京劇の初鑑賞で得た印象の後編。
芸術作品を鑑賞した時の記事では毎回といっていいほど同じような「硬いこと」をいうようだが、たとえ俗物の知ったかぶりで人様にしたり顔で語った薀蓄内容が結果的に馬脚を現してしまうようなものであったとしても、芸術作品を鑑賞するにあたっては、事前に学習し時に本の受け売りになるようなものであるにせよ自分だけのイマジネーションを時間のある限り高めておくべきだろうと思う。四面楚歌や劉邦が背水の陣を敷いたことや梨園の語源はどこから来ているのかとか、なんでもいい。たとえそれが「イメージと違う!」といった幻滅に終わったとしてもだ。
私の場合は友人の薦めてくれた京劇に関する本を4冊、中国や儒教に関する本を3冊の読み、京劇に挑戦する日本人俳優のドキュメンタリーと京劇が劇中劇となっている映画を1本、他中国映画を2本を観ていった。どれもなんだかんだいって無駄にはならなかったし、その中で自然と歌舞伎の約束事のように京劇の表現の約束事とかが頭に入ってきていたのはよかった。その上で、実際のものを自分の眼で見ると肉感的な感動の度合いが異なる気がする。
京劇の表現の約束事といえば、基本的に舞台装置を使わないというのがある。そこは西洋のミュージカルと全く異なる点といっていい。ミュージカルは舞台装置をフルに生かして観客をその世界に没入させてくれるところがいいところだが、京劇はいたってシンプルで大道具?らしきものはテーブルとイスと大帳子ぐらいしかなく、場面の展開は演じる俳優の動作を見る観客の想像力に委ねられていることが、今回の鑑賞でよくわかった。
京劇入門の本を繰って一つ一つ動きについて解説やその紹介はしない。しかし、とにかく直感的に、この観客の想像力に一切を委ねていることが、京劇の最大の魅力の一つではないかと思った。鑑賞し終えた帰りの車の中で、その想像力がどういったものなのか考えてみたのだが、小学校の演劇の舞台発表で上手いクラスの演劇を観ているときの子どものころの気持ちのような気がした。そして、なぜだかドストエフスキーの『死の家の記録』のクリスマスの描写で、囚人たちが演じる劇の見事な描写を思い出し、京劇もいわば立派なパントマイムなのだと思った。
加えて華美な衣装とメイクはリアルな人物を表すのじゃなく、それは、いかにもこういった人物がいそうとか、また歴史に存在した彼・彼女らの後に語り草になる行為の象徴(イメージ)の視覚化であって、この立派な華美な衣装とメイクでもって演じられるパントマイム劇には、リアルかつグロテスクなものを付け加える必要はないのだ。動きで観客に印象を呼び起こさせる演技、それを苦も無くやってのける演技で、観客の想像力に訴えかけさせるような効果が人を京劇にひきつける一つの秘密・魅力じゃないのかと分かったようなことを考えた次第である。あくまで支離滅裂な一つの見方ではあるが…。
その例になるのか分からないけれど、私が特に感心したのは、「鳳還巣」のラストで元帥と周監軍が、結婚すべきか思い悩む出世した穆居易に「年長者なりの気遣い」を施そうと気を揉むにも単なる好奇心や興味に取って代わってしまってる喜劇の場面に、一切の舞台装置としての壁が無いにもかかわらず、あたかもいい年こいた物好きなおっさんたちが壁越しに悩ましい青年の様子を覗き見ているその壁が存在しているかのように見えた時だった。もちろん、第一部、第二部を通して、場面展開については字幕での説明もあり演奏が入ったりすること等の理屈を前もって知っていたので分かっていたが、ラストの場面で覗き見る壁が感じられると元帥が花嫁の父親と穆居易との仲人というより伝達係と化し部屋を行き来する滑稽な場面の部屋の間取りすら分かる感じがしたのは、やっぱり京劇のシンプルさゆえの、しかし動きだけでもって観客にあらゆることをイメージさせる表現が存在していたことに他ならないのだと今にして思う。

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京劇を初めて鑑賞した。うまく感想をまとめられないであろうが、とにかく感じたこと思いついたこと、考えたことを書いてみる。

鑑賞したのは中国国家京劇院による公演であったが、とにかく久しぶりに一流のものを生で観たというのは間違い無い。それも、前から6列目のいい席、たぶん本場の中国でも談笑しながら少し見上げるような形で観たという点できわめて、日本で観るにしてはかなりリアルな現地の京劇の劇場の感覚に近い形で観れたのではないかと思う。
演目は上のサイトにあるとおり、第一部が『覇王別姫』(クライマックスのみ)、15分の休憩を挟んで第二部が『鳳還巣』という構成であった。
最初は違和感があった。というのは私が足を運んだ会場は西洋式の舞台のある大ホール、そこで京劇が演じられた。しかし、私のイメージとしては京劇を観る為にここ数ヶ月にわかではあったものの、幾冊か京劇に関する本を読み、その中で写真や図版で説明されていたり、映画「さらば、わが愛-覇王別姫」で出てきた、京劇を演じるための大衆演劇の劇場のイメージが強かったせいもあって、「広すぎはしないか?」と違和感を覚えたのである。
また私の隣の席に親子が、それもやたら京劇に詳しい母親とその子どもがいて、演目の場面場面ごとに子どもに解説している声が横から聞こえてきたりし、それとは別の後方の客席で控えめではあったもののざわついているのが気になったりした。
ところが、項羽が杯を放り投げたあとぐらいから、舞台の広さや西洋様式だとかはどうでもよくなり、 隣の母親の解説と後方の席の少々の談笑によるざわつきに対し、そもそも京劇はざわついた客席の雰囲気で観るものだと本にあったことを思い出してからは、他の客に関してはさして気に留めなくなった。
逆になぜこうもこの大ホールに詰め掛けた観客は大人し過ぎ、マナーが良過ぎなんだろうとかえって不満になってきて、虞美人や項羽が登場したり妃の剣の舞の場面でなぜ大きな拍手が起きず「好!」の声をかけないのか、そちらのほうが残念になってきたのである。私は、京劇はある意味歌舞伎と似たところがあるのだから、役者がここを観てほしい!という場面にはぜひとも大きな拍手をし「好!」の声をかけるべきだとミーハーながら思っていたので、虞美人の剣の舞で剣を交差させ大きく背を反らす場面で思わず「好!」と叫んだ。「好!」でも「いいぞ!」でも自然と掛け声が出てくる場面であることは間違いなかったと思う。
虞美人の最期の直後に幕がサッと降りて、会場は拍手につつまれたが、第二部でようやく観客の気分が乗ってきたようであった。『鳳還巣』はシェイクスピア劇の喜劇や吉本新喜劇にも見られるような内容だったし、ちょっとしたあらすじや前置き、道化役の語らんとすることが少しでもわかれば大いに楽しめる演目だった。『鳳還巣』では最初に登場した日本人のプロの京劇俳優・石山雄太さんが道化役で登場し、その語り口も見事なものであった。

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3日前の土曜日、京田辺市にある同志社女子大学の音楽学科オペラクラスによる卒業記念公演「フィガロの結婚(全4幕)」を鑑賞しに行った。同志社女子大学では毎年この公演を行っていて、今回で20回目とのことだった。
『フィガロの結婚』は、18世紀のボーマルシェ作『セビリアの理髪師』の続編であり、当時は貴族を風刺する作品として人気があった。これに音楽をつけてオペラ化し更に世に広めた作曲家がモーツァルトである。
この作品は高校のころから大好きで、何度も同じビデオを繰り返し見た。ドタバタなコミカルな笑いあり、貴族の狡猾さと悲哀もあり、最後には温かな慈愛がすべてを包みこむ感動(はっきり言ってとても泣ける)があって、構成そして音楽がすばらしい名作だと思う。
卒業公演では、歌詞はイタリア語ではなく全て日本語で演じられた。ちょっと無理があるのではと思って出かけたが、予想はいい方に裏切られ、うまく当てはめてあり自然で無理がなかった。(以下の画像は、撮影はダメとはされてなかったことを踏まえた、フラッシュなし消音での高感度撮影です。画像説明での出演者・演出者・指揮者・奏者などの敬称は略させていただいてます)


第3幕:アルマヴィーヴァ伯爵の怒り心頭のなか、式の準備が始まる



第4幕:アルマヴィーヴァ伯爵夫人は夫の「暴走」を戒め、赦しと慈愛で包み込む

以下、カーテンコール。


村娘・花娘役のみなさん



ケルビーノ役は二人、パルパリーナ役は一人

重要な役は幕を分けるなどして一つの役を数人が演じるという形をとっていた。感心したのはマルチェリーナ役の二人で、舞台イメージを損なわないようにまるで一人で演じているように仕上げていたことだった。


主役のスザンナは何と5人で演じていた。中央にフィガロ役の井原秀人



アルマヴィーヴァ伯爵夫人は2人で演じられていた。伯爵役は三原剛






衣装を担当した岸井克己に花束が



チェンバロの担当の松浦亜季。この人の奏でる音色とタイミングがシブかった。



裏方さんも全員登場



指揮の井村誠貴



一通りカーテンコールが終わった後、再び第4幕の感動の「赦し」の旋律が流れた






オペラクラスの在校生同士も手をつないで場内で歌い、すごく感動的だった



オーケストラで素晴らしい音色を奏でたみなさんの達成感が表情に満ちていた



カーテンコール中、これが最後と一生懸命手を振る姿も目に焼きついた

公演では、男性が演じる役はプロの人が担当していた。でも女性の役どころもかなりいい線をいっていたと思う。同じ役柄でも演じる人によっては、ちょっと個性が出るところもおもしろかった。
一年間、合宿なども通して情熱を傾けて練習されていたことの成果が表れた、非常に良くできた公演だったと思う。その素晴らしさに何度も拍手をしたことを私は忘れないと思う。

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世間ではオリンピックの話題沸騰だが、私は一時間半前に最後の親不知を抜歯し、今、抗生物質と痛み止めを服用したばかりである。
抜歯したのは下あごの左奥の親不知なのだが、今回は勝手が違う。前回と異なり、明らかに顔が腫れあがっているのだ…。「これは私か?」といいたくなるほどかも?
なにはともあれ明日消毒に行けば、しばらく歯医者からはさらばとなる
今の気持ちはまた「こうもり」から譬えよう。アデーレが女優になりたいと刑務所長フランクに懇願する場面のごとく、

Spiel' ich eine Konigin, schreit' ich majestatisch hin...
...nicke hier und nicke da...
...ja ganz, ja ganz in meiner Gloria!
Alles macht voll Ehrfurcht mir Spalier...
...lauscht den Tonen meines Sangs
Lachelnd ich das Reich und Volk regier'...
...Konigin par excellence!
-La la la la la la ha ha ha ha ha ha...!

個人的には「ha」のところを「歯」に変えたい…。(←なんたるベタな。。。)

ちなみに意味はこんな感じ。

女王に扮する時は
厳かに歩き
あちこちに会釈する
何という立派な姿!
人々は私の周りに集まり
私の歌に聴き入る
私は微笑みで国を治める
本当の女王様!
ラ~ラララ~ララ オッホホホホ~

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今日、何とかにも三部の理と譬えてもいいが、大半が私の責任になるミスをしてしまい、少々落ち込み気味である。
へこんでばかりもいられないので、気持ちを切り替えるために地下鉄で歌の歌詞に目を通して、旋律を思い出していた。
その歌はいつもの「こうもり」から、女優のオルガに成りすましている小間使いアデーレがルナール侯爵(実は主人のアイゼンシュタイン)を堂々と欺く場面、内容は(注意:訳に自信はありません)

それはとても滑稽ですこと!オッホッホ~♪
笑って許してさしあげますわ!オッホッホ~♪
侯爵様はとてもおかしな方♪

ドイツ語の歌詞では

Ja, sehr komisch, ha ha ha...
...ist die Sache, ha ha ha...
...drum verzeihn Sie, ha ha ha...
...Wenn ich lache, ha ha ha ha ha ha...
Sehr komisch, Herr Marqueis... sind Sie!

この箇所の旋律が大好きで、思い出すだけで何もかも笑い飛ばしたくなる。明日もがんばろうという気が涌いてくる!?
(ところで全然関係ないが、なんかドイツ語の歌詞を目で追っていると、かなり痛烈な言葉で切り返しているように思える。楽しい旋律のなかにもピリリと効いたものが感じがあるような…)

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パソコン整備士の試験を受けてきた。
その帰りに、講座のときにお薦めのあった新京極のラーメン店に行った。
一言、旨かった…。

府立図書館まで歩き、館内でモーツァルトのオペラ「魔笛」を観た。3時間近くある、大人も子供も楽しめる寓意的で楽しく観れる作品だ。
「魔笛」といえば学校の音楽の授業で「オイラは鳥刺しパパゲーノ」とか「この国では争いはなく~」とかを習ったことがある人がいるかもしれない。
私は「魔笛」の一部を中学校や映画「アマデウス」で知ってから、江守徹が演出を手がけたNHK交響楽団の演奏による「魔笛」全編をTVで見たことがあった。見るときは、鳥刺しのパパゲーノの役に注目していた。
今日、10年ぶりに「魔笛」を見た。ジェイムズ・レヴァイン指揮の「魔笛」だが、本当におもしろかった。それに昔と違って見方というか好みが変わったことを実感した。
以前のようにパパゲーノのコミカルな演技もたのしめたが、今回はルチアーナ・セッラ演じる"夜の女王"に度肝を抜かれた! レヴァイン版「魔笛」の夜の女王は、主役のパミーナ(キャスリーン・バトル)を凌駕している、最強の脇役だと思った。
今日の鑑賞で、再び「魔笛」が好きになったかもしれない。

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ワーグナーのオペラを見るたびに思うのだが、彼の作品は『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を除いて、ほとんどが危険な匂いというか雰囲気が漂っているように思う。
今日、現代オペラに決定的な影響を与えた楽劇『トリスタンとイゾルデ』を見たのだが、この作品は正直とてもヤバイ…。
「ヤバイ」というのは、最近ではカッコいいという意味を指すことがあるが、『トリスタン』では、破滅しかありえないような禁断の恋にどっぷりはまっていく精神の描写があまりに緻密で、ともすればタブーを正当化しても違和感がないヤバサがあるのだ!

愛の夜よ 降りてきて
生きていることを 忘れさせてほしい!
おまえのふところで この世から開放してほしい

命は愛で清められ
再び目覚めることはない
これが二人の望み
(第2幕)

それにまた音楽が美しいので、なおさら哀しくなってくる。ブランゲーネが二人の目覚めを促す場面は、危うさに満ちた束の間の楽園を感じさせる。
上の歌詞は、最近は流行らない恋愛の価値観かもしれないが、歌われていることはなんとなくわかるんだよなぁと妙に納得してみたりする。
でも、実際のワーグナーのオペラを字幕なしで見るとなれば、とてもつらいだろう(笑)。もし劇場で見れたとしても、高い値段が睡眠に消えるのは必至。。。

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