デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



作品はドン地方のコサックたちの平和な物語なのかと思いきや、第一次世界大戦の帝政ロシア時代から始まる物語であることに、まず驚いた。
物語は、第一次大戦前、平和を享受している主人公グリゴーリイ・メレホフが、若さゆえの傍若無人で隣家のすでに妻の身であるアクシーニヤと情事にふけったことで、アクシーニヤの夫ステパン・アスターホフとの確執がどうなっていくかが物語の主軸になっている。
とはいえ、これはひょっとするとサブエピソードの感を免れ得ない。なぜなら第一巻を読んだだけで、物語が、第一次大戦に引っ張り出された田舎の人々である主要人物たちの生活や精神がどのように変化し軌跡を描いていくかの物語であることが分かるからである。
第一巻の後半では、帝政を顛倒させる目的で民衆の不満を明確な言葉にして語る人間の影響から、戦闘で負傷したグリゴーリイは思想的に感化され始めるわけだが、第二巻の冒頭に入るとブンチュークという人物が軍隊内でレーニン指導による社会民主党(のちの共産党)のアジビラを皇帝支持の上官の目が光っているなかで撒き、大戦に続く形で内乱が起こることを匂わすエピソードがある。この思想が地主と民衆との間で対立を生み、第一巻で登場した人物たちが各々どういった立場をとるのか、という展開になっていく気がするが、事はそう単純ではなくて、幾重もの男女の不倫と救われない情の惰性からの情事による三角関係が影を落としていくところが、この作品のミソのような気がする。
それにしても、『静かなドン』は分量的にV・ユゴーの『レ・ミゼラブル』ぐらいありはしないだろうか。読書が長丁場になること必至である。

ところでピート・シーガーが書いた名曲「花はどこへ行った」は、キングストン・トリオやPPMらがカヴァーしたことでも有名だが、この曲のインスピレーションの元になった作品がショーロホフの『静かなドン』である。そのインスピレーションの元になった箇所は第一巻 第一編 第三章にある。

つづく

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手荒に扱ったつもりはなかったのだが、3月にレンズエラーが頻発し、とうとう電源入れてから「手動」でレンズを引っ張り出し、ピントが合ったら撮影なり録画なりできる状態になってしまったデジカメは、今も「使える」といえば使える。
おそらくカバンに入れていたときに何らかの軽いショックを与えてしまい、レンズ周辺の精密な部品に影響を与えたのかもしれない。(何ヶ月も前のことだが思い返してみると、その時は迂闊にもカバンを荒く置いた気がするからだ。)
しかし、このところ、いくらなんでもズームすらできなくなったデジカメを不便に感じてきた。修理するにも何年も経ってるから保証期間などとっくに過ぎているし、修理するとかえって高くつく。かといって、新しいデジカメで別タイプが欲しいとか無かった。
で、同じタイプのデジカメを新品で買った(画像では右の方)。この判断が吉と出るか凶と出るかは分からない。でも、使い慣れたタイプであるし、バッテリーとバッテリーチャージャーはこれで二つになったという、利点はある。これからは、より丁重にカメラを扱うつもりだ。
これまでいろいろなものを撮ってきた分(画像では左の方)は、(あまり考えたくないものの)事故を起こしたり、もしくは事故に遭遇したときのための記録用に車に積んでおくことにした。

私が最初に手にしたデジカメは、500万画素で32000円していたように記憶している。それが洗濯機で回してしまいつぶれてしまい、次購入したのが画像での左の方の分で1210万画素22500円未満。そして今回買った分は、送料込みで13300円。在庫処分品に相当するようなタイプの割りに高いと思う人もいるかもしれない。
それにしても、デジカメの値下がりのニュースは近年珍しくなくなったけれども、それほどまでにデジカメは世界中に広がってしまったのだろうと思う。

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カラカラ帝は、弟ゲタを母の目の前で殺させ、弟の名前や肖像の出ているものは文書でも絵画でも彫刻でもすべて抹消させ、ゲタに好意をもっていた2万人もの人間を粛清し、自分の妻を流刑に処し、わざわざ流刑地の妻を殺させた。
また、帝国の全自由民に市民権を与えた。市民権を与えられた者は、個人の権利は増大はするが、それは同時に相続税や奴隷解放税を納める義務が生じるので、カラカラ帝の目的は税の増収であったことが分かる。
カラカラ帝は、ローマ市民権というブランドを価値無きものにしてしまった。市民権をもつ魅力やローマ市民であることが有名無実化していくことは、市民感情に重大な影響を与えたことは想像に難くない。市民権が特別なものじゃなくなれば、社会におのずと個人主義がはびこってくるのであった。



カラカラ帝は各地の騒乱を治めるため、帝国内を転戦はしていた。軍事では勝利をおさめていたので、兵士たちからは人気があったようである。



カラカラ大浴場は217年に一応の完成を見たが、同じ年の4月、カラカラ帝は親衛隊長マクリヌスの陰謀に遭い、29歳で暗殺されてしまった。






カラカラ大浴場の機能が停止するのは537年。ローマに侵攻した東ゴート族によって浴場に水を提供していたマルキア水道が破壊されたことによる。

キリスト教がヨーロッパに広がると、公共浴場で汗を流したり娯楽に耽ったり社交の場を形成するような習慣はどんどん廃れていった。
哲学者や頭の固い宗教家による「品性の問題」はあろう。しかし、現在でも、ドイツのスポーツジムに行けば、男性用の更衣室と女性用の更衣室はつながっている場合が多いとのことだし、北イタリアのアルト・アディジェ地方の多くのホテルのサウナ内では、シャワーを含めたどの設備も男女共用であるだけでなく、服の類を身につけることも、水着を着用することも禁じられているといったところがあるのである。以前書いたローマの食事のマナーの内容と部分的に重複することであるが、暴力犯罪や性交渉の働きかけといった性犯罪に対して律する精神とともに風呂の裸は性的な裸ではないという良識・習慣のもとでの浴場設備の男女共用というのは、非常に合理的なシステムであることは再考に値することではないかと思う。ローマの遺跡を歩き、またそれについて調べるとともに現代はわざわざ自分で自分の首を絞めすぎているところもあると思える。

(旅程としてはアッピア旧街道につづく。)

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前31年、クレオパトラ・アントニウスの連合軍に勝利したオクタウィアヌス(のちのアウグストゥス)はインペラトルという戦争遂行を認められた称号を自分一人だけのものとし、軍の最高指揮権を一手に担っていたわけだが、その総数は30万人という膨大なものであった。
いくら戦いに勝ち国が平和になったとはいえ、そのような数の常備軍となると国が持たないし、かといって彼らを単に失業させてしまうと社会の不満分子になりかねない。アウグストゥスは、これまで将軍たちから給料を受け取っていた彼らを、今度は国家が面倒を見なければならなくなった問題に対し、全軍を50パーセント近く減らすという策を講じて問題解決に当たる。



ではどういう対策をとったのか。
アウグストゥスは、15万人近い失業軍人たちに地中海沿岸の各地に都市を建設させ、都市が完成したあとは、土地を与えてその都市の上流階級として住み着かせる対策をとったのである。ヨーロッパの地中海沿岸都市に住居だけでなく水道や道路、劇場、浴場といったローマ時代のインフラの遺跡が残るのはそのためである。アウグストゥスがローマ帝国全土に120もの都市を建設したのは、こうした失業者対策のためであった。



ハドリアヌス帝はローマ帝国の属州をくまなく見て回る旅をおこなったが、アウグストゥスの時代以降につくられた属州の都市ごとに浴場はあったわけだから、風呂を恋しがるようなことはなかったのではないかと思う。公共浴場は庶民的な値段で入れたというが、皇帝が視察に来たときには無料になったのかもしれない。



アウグストゥスの時代とは事情が異なり、カラカラ大浴場はカラカラ帝の人気取りのために造られた側面がより大きい。歴代の皇帝たちは庶民的な値段で入れる公共浴場を競って無料開放しているが、カラカラ大浴場もその例に漏れないようだ。

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大浴場には運動場や図書館まであったが、運動場では走る人、ジャンプしている人、レスリングのような格闘技に熱中している人、今で言うバレーボールのような球技を楽しむ人、などなど、いろいろな運動で汗を流す人たちがいた。
こうした運動のあとはマッサージを受ける。マッサージで身体に塗られるのは香油で、マッサージが終わると身体の香油や汗を奴隷たちが取り除く。
取り除くために、まず細かい砂を身体にふりかける。油や汗を吸い取らせるのである。そして垢すりべらという一見「鎌」に見えるような道具で肌をこそげ、肌の汚れを取っていくわけだが、最近流行っているマンガのように現代の垢すり用タオルの方がやっぱり気持ちがよいと思われる。



複合型入浴施設には、微温浴室(テピダリウム)と温浴室(カルダリウム)と冷水浴室(フリギダリウム)、発汗室(ラコーニクム)などが大きな規模であった。もっとも暑い場所は発汗室であるが、温浴室でも床は焼け付くように熱く、素足では歩けないほどだった。
ではそういった浴室内を利用者はどのようにして歩いていたのか。実のところ大半の人が木靴を履いて歩いていたそうである。ローマの浴場はコミュニケーションの場でもあったが、そこは木靴の音に彩られていたことを想像すると、けっこうにぎやかで日本の銭湯とはまた異なる音の絶えない場であったのだと思ってしまった。

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上はカラカラ大浴場跡のエクセドラ(壁などに半円形に刻まれた窪み)画像であるが、ローマ最大の駅テルミニ駅から歩いて行けるところにサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会を見ると、おや?と思ってしまうる。その入口が以下の画像である。


サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会

カラカラ大浴場跡の一部と非常に似ている。そうなのだ、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会はローマ時代の大浴場跡を再構築しつくられているのである。その大浴場跡はディオレティアヌス浴場跡であり、再構築したのはミケランジェロである。
教会は優美であること以上にとても重量感があったことを思い出す。いずれまたサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会についても紹介したい。

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あと何度か画像だけの回あります…。

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ユリウス・カエサルは女性にモテて、またお金の使い方をよく知っていたと『ローマ人の物語』の中では言及されているが、カエサル以降の統治者はインフラの構築や整備によくお金をつかった。
その多くが現在のローマ市内の設備に対してだが、ではローマ支配下の属州は誰がインフラにお金を投じていたのか。属州ではその土地に応じた統治をしていたとはいえ、基本は資産をもっている人間やビジネスで成功した解放奴隷がインフラの構築や整備にお金をつかったようである。



たとえば、ポンペイでは市長に当たる二人委員が2名、助役のような造営委員が2名いて、この4名は選挙によって選ばれるわけであるが、この4人だけで政治が動かされていたわけではない。彼らに加え、市会議員に当たる100名前後の市参事会員がいて、事実上市政を牛耳っていた。(ローマでの元老院議員みたいなものである)
市に生れた者がなれる市参事会員は終身制で、これは名門の証といえるもので、さまざまな名誉を享受できた。参事会員に欠員が出ると誰もがなりたがった。参事会員は、参事会からの任命制であった。
参事会員に任命されるため、町の目立つところに寄付をしていることを示すため、涙ぐましくも資産を投じる人たち、、、そうなのだ、彼らの真剣なアピールの大きな理由がここにある。町に住む人々のニーズを把握し、水道や浴場や劇場の工事代の寄付、興行の開催費の出費、道路の整備の寄付などで、名を知ってもらおうとしたのだ。解放奴隷は参事会員になれなかったが、解放奴隷の息子は市で生れた者ゆえ、息子の出世のために息子の名前で莫大な寄付をした解放奴隷もいた。
もちろん、人間が快適に過ごせるためのインフラ施設をつくるという古代ローマ人の思想も根底にあったからこそ、生活に根ざした施設がつくられたわけであるが、上述したとおり施設を作るにあたっては出世競争という現実的な動機も存在するのだ。



カラカラ大浴場もそういった現実的な動機、この場合は皇帝が皇帝でありつづけるためにつくられたのか、といえばもちろんその側面は否定できないだろうと思う。支配者が支配者のままでいるためには、市民になにかを還元する必要があるのはいつの時代も変わらない、が、古代につくられたそういった還元されたものが遺跡としてヨーロッパ、アフリカに未だに残り続けているのはローマ帝国のものが圧倒的に多い。

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古代の壁画、たとえばポンペイで発掘される壁画などは現代にも残り、古代の生活を明らかにしてくれるけれども、時とともに劣化していくスピードは顕著である。しかしモザイク画は多くの人間に踏みつけられてなお残っている。抜群の耐久性を誇っているといえよう。



モザイク画自体はアレクサンドロス大王の時代にすでにあり、玉石と大理石の小片に加え、石から切り出した方形の小片(テッセラ)を使うことで、陰影もつけれるようになった。アレクサンドリアのモザイク画の大家ソフィロスは、前150年頃にモザイクを使った初めての肖像画を制作した。
モザイク画家のなかには作品に自分の名前を刻み、後世に名を残すものもいた。






町に大浴場があるのに、貴族の屋敷には内風呂を設けている家もあった。ポンペイで発見されたメナンドロスの家の内風呂の床には、オリーブ油や香油を入れた容器を捧げ持つ使用人の姿や、魚や人々が泳ぐ地中海の風景がたくみにデザインされ描かれているという。




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一人の人間のすることは、いってみれば万人のすることです。ですから、ある庭園で行なわれた反逆が全人類の恥となっても、おかしくはないわけです。また、一人のユダヤ人の磔刑が全人類を救っても、決しておかしくはないのです。ショーペンハウアーのいったとおりだと思いますよ。わたしはべつの人間たちであり、どの人間もすべての人間であって、シェイクスピアは、ある意味で、卑劣なジョン・ヴィンセント・ムーンなのです。
ボルヘス『伝奇集』


N・ホーソーン『緋文字』読了。
作品はテーマがしっかりしているだけに読みやすく、序文を除き章の長さが丁度よくて続きが気になる分量で収まっているから、うまく書かれていると思った。
ただ、ボルヘスの上の言葉を先に読んでいたゆえ、『緋文字』はボルヘス作品への段階の中ごろに位置する作品だと少々冷めた感じで覚えたのは正直なところである。なんというか、『緋文字』は17世紀のアメリカ北東部の清教徒社会を舞台にした、ウルトラニスモの追究の黎明を告げる文芸作品であり、ドストエフスキー後期作品のさきがけであったように思った。
なんらかの罪とされる行為に及んでしまった人間の、後悔や苦悶や悔悛とはなにかを読者に考えさせるという点では、作品は成功をしている。しかし、いち読み手としては、たしかに世間を騒がしたことはそうだが、嫉妬深くて他の神に横目を使うことを許さず清廉さだけを強要するキリスト教の神に対してなぜゆえにそこまで繊細すぎるのか、よく分からない部分もある。読んでいて、ジッドの『狭き門』のアリスを思い出し、むしずが走る自虐・自嘲としての痛々しさは、ときに滑稽に映ってしまった。
滑稽に映る理由としては、19世紀の人間による、17世紀を舞台にして書いた小説であることで、19世紀の価値観が混入し、かつ一見自己卑下したような表現で表明されている作者の立場が実は「誰よりも独立した上から目線」でもって貫かれているからかもしれない。おそらく、作品内の事件を詳細に取材したノートをそのまま紹介する(当時の因習の真っ只中にいた人間の記録)、という形での構成ならば、もっとスリリングになるように思った。

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