デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ルーヴルにあるマルクス・アグリッパの胸像

ポン・デュ・ガールにちなみ、弊ブログで何度か登場している古代ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの右腕ともいえる、軍事・政治・行政でその手腕を発揮しその所業は今も語り継がれるマルクス・ヴィプサニウス・アグリッパの胸像を紹介しよう。
この胸像はルーヴル美術館(博物館)で見つけたのだが、アグリッパの像は他ではイタリア、とくにローマでお目にかかれる可能性が高いだろう。一例として、ローマにある「平和の祭壇(アラ・パチス)」では輝かしい存在感を放っている。


胸像について(フランス語)

アウグストゥスの権力と体制を強固なものとするための協力者という地位から決して踏み出さなかったアグリッパは、建築物も地味ではあるが帝国にとって欠かせない性質のものをたくさん建てた。カエサルの死で中絶していた「サエプタ・ユリア」(の完成)、ヴィプサニウス回廊、最初の公共のローマ浴場となる「アグリッパ浴場」、アグリッパ浴場の西側の「アグリッパ湖」、アグリッパ浴場への水を供給するための「ヴィルゴ水道」、上水道を引いたことで必要になるテヴェレ川に通じる下水道、穀物倉庫、イリウス港、ポン・デュ・ガール、そしてコローニア・アグリッピネンシス(今のドイツのケルン)など、どれもローマ帝国のその後の繁栄を語る上で決して見逃してはならない重要なインフラを彼は手がけている。(コローニア・アグリッピネンシスはローマの軍団都市からはじまったゆえに、町そのものを建設したといえる!)彼が手がけた建築物でモニュメンタルなものはパンテオンぐらいかもしれない。


ポン・デュ・ガール







ちなみにローマで有名なトレヴィの泉に今でも流れている水は、アグリッパがつくったヴィルゴ水道の水なのである。水道の名前ヴィルゴは水源地を教えてくれた乙女の名前に由来するという。
ヴィルゴ水道の場合はローマの北東12kmの水源地から水を引いたわけだから大工事であった。水道は紀元前19年に完成したので、息つく暇もなくアグリッパはこれまた大工事であるポン・デュ・ガールをつくる地に向かったのか、それとも水道のめどがついた時点でポン・デュ・ガールに懸かりっきりになっていたりしてたのだろうか。とにかく彼はアウグストゥスとの共同統治者として政治に深く関わるだけでなく、ローマ人にとって必要なインフラを構築・整備する行政ため、帝国中のあちらこちらに出向する多忙な生活を送っていた。
アウグストゥスはアグリッパを自分の後継者とみなしていたが、残念ながらアグリッパの方が先に他界してしまう。それは紀元前12年のことであった。

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今回は、画像だけ。本当に晴れていてよかった。

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アヴィニョン・サントレの長距離バスターミナル入口

話しは前後するが、アヴィニョン・サントレからポン・デュ・ガールへのバスでの行き方を書いておこう。


発車時刻の近いバスはディスプレイで分かる



A15が「Rond Point Pont du Gard」で止まる

アヴィニョン・サントレの長距離バスターミナルは屋内なので暗い。切符は運転手から買う。1.5ユーロだったが、私は釣銭をもらい忘れた。そのことに気づいたのは下車して、ポン・デュ・ガールに歩き始めてからであった。


車内にて



田園というか畑が広がる道をひたすらゆく



アヴィニョン・サントレからは大体45分くらいかかる



このバス停で下車した。帰りのバス停は別の方である。


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ポン・デュ・ガールはガール橋もしくはガルドン橋とも書けるが、そもそもは古代ローマ帝国の水道橋であり、橋の北西にある水源から水を供給する目的で造られたものであった。
ではどこに水を導くために造ったのか。それは小ローマと呼ばれたニームへ水を供給するためであった。



建設は紀元前19年、アウグストゥスの時代である。アウグストゥスはクレオパトラを破ってエジプトを平定したが、その勝利の軍団を今のニームの建設に当たらせた。そのニームに水を送るための水道橋がポン・デュ・ガールであった。



ポン・デュ・ガールの建設に当たったのは公共目的の建築に熱心だったアグリッパである。アウグストゥスの右腕ともいえるアグリッパが建てさせた公共建築物は首都ローマだけでなく帝国全域におよんでいる。



それにしてもこれほどまでに周囲の風景とマッチし、美的センスを感じさせ、なおかつ実際にインフラとして機能していた建築物は、世界中の遺跡を探してもそうあるものではないように思う。



橋はローマ帝国滅亡後、維持・管理ができなくなり、9世紀には放棄されてしまったことは既に書いた。中世に生きた人々は、ポン・デュ・ガールがローマ人が遺したものであることを忘れていき、これほどまでのものを人がつくれるはずはないと思った。橋は悪魔がつくったものと信じてしまい「悪魔橋」の通称が生れたという。
自分が理解できないものや、説明がつかないことを見たり聞いたりした際、それを神や悪魔の所為にしてしまうのもまた人間であるが、このエピソードは人類の文明が一度は最高点まで到達し、衰退を経ていることを示すものではないだろうか。

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現在、観光客が歩けるようになっている拡張された道路部分を渡る。


水量が豊富な時は、この岩盤も沈むのだろうか



出っ張ったブロックはメンテナンスのための足場だそうだ。いやはや…。



ナポレオンIIIの名前が

ローマ帝国滅亡後、帝国の時代に建てられた建築物は維持・管理ができなくなり放棄された。放棄された帝国の建物は帝国後の人間に壊され、新たな建物の建築資材として利用するため持ち去られる運命をたどったが、ポン・デュ・ガールは大々的な破壊を免れ、ほぼ完全な形で現在に残っている。(しかし導水路の部分は住民の建築資材として姿を消している)
橋が現代に残っているのは、修復を命じたナポレオン三世のおかげともいえるだろう。そのことを示すプレートがあった。今、観光客が歩けるところは修復とともにつくられたようである。





橋を渡ったところにあった発掘中の場所?


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パルムというのは、イタリアのパルマを指す。

『赤と黒』のときのように、作品が一応は西洋文学史のなかで重要な位置に収まってしまっているものであり、その後のフランスのみならず、フランスの周辺国および世界中の作家に影響を与えているのは分かる。また『パルムの僧院』のなかのファブリスをめぐる政治的駆け引き、その際になされる会話や手紙でにじみ出る才知は、半ば強引に無理矢理言えばプルーストの『失われた時を求めて』に表現される才知のものと、時代を超えてなお共鳴するようなものかもしれない。
ただ、ジーナやファブリスやクレリアの美しさや熱情および才知が好きで、スタンダール作品のファンです!という方には悪いが、私は、なんでこの作品がやたら評価されているのかね?と読み終えて思った。
スタンダールの晩年、口述で書かれたせいかもしれないが、私としては文芸というよりは脚本を書くための詳細なあらすじのメモ書きのように思え、適切な箇所に段落を設けないまま書きなぐったものに、とりあえず形を与えたもののように思える。
あまりにも多くのことが目まぐるしく起こる割には、いつ誰が何をしたかかが分かりづらい点が、上述のことと併せ悪い意味で非常に気になる。一つの長い段落のなかで、とても重要なことがあっさり語られすぎだろう。たとえば、ジーナはいつ再婚したか一瞬分からなくなることや、大公が死んだこともあっさりしすぎていて次の大公との区別が後になってかろうじて分かる、などなど。
それに伯爵夫人がいつの間に公爵夫人に表記が変わったの?とか、「侯爵夫人」というのが誰のことを指すのか、とても分かりづらい表記になっているのには、読んでいて正直いやになった。おそらく、『パルムの僧院』について詳しい人から、いろいろと細かいことを訊ねられたら、私は登場人物の名とその人物が言ったこと及び行なったこととを、ちぐはぐに答えてしまうだろう。
『パルムの僧院』のエピソードを文芸として熟成したものとするには、『レ・ミゼラブル』や『戦争と平和』や『モンテ・クリスト伯』ぐらいの分量および表現力が必要ではと思う。ファブリスのクズ野郎ぶりも徹底的に描いたらならば、それはそれで芸になるだろう。スタンダールは職業柄、政財界や外交の分野では事情通だったゆえ、人を楽しませるには申し分ない豊富なエピソード、つまりは話しのタネには恵まれてはいたろう。ただ、虚に実を混ぜれる才能をもった事情通であったことを暗にひけらかすことよりは、重要なエピソードをいかに描くかに力を注ぐべきだったのではないだろうか。

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ポン・デュ・ガールについては詳しく紹介しているすばらしいサイトがいくつもあるので、私からは橋の歴史や構造のデータについては自分の興味のある分だけ小出しにしていこうと思う。



ポン・デュ・ガールもローマのコロッセオも、5年で作られたという。さすがインフラ工事で帝国の拡大をしていった面を誇るローマ。2000年前にあって、今なお驚くべき建築技術があったことをポン・デュ・ガールは現代にも伝えてくれているわけであるが、その技術と工事の合理性からすれば、病院を一つ作るのに数十年かかるという現代ローマって一体どうなのだ?という塩野七生氏の言が思い出されたのも事実。古代ローマの精神性を受け継いでの末裔にあたる人々は、実際のところいないのではとか、現地でも思ってしまったのであった。





すばらしいアーチを形づくっている



南仏の太陽が降り注ぐ



ガルドン川





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クレオパトラの妹の墓が見つかったという謳い文句に煽られて、NHK BSで再放送された『エジプト発掘第3集 妹を憎んだクレオパトラ』を録画して見た。
詳細は割愛するが、クレオパトラの妹アルシノエはエフェソスで殺されて葬られ、その墓にあった遺骨からアルシノエの身体や顔を再現する過程のところはおもしろかった。
再現されたアルシノエの顔については、「妹を憎んだクレオパトラ」「アルシノエ」のキーワードで画像検索すれば出てくる。私としては、再現された顔はある意味期待通りだった。
数年前まで私も数多い「クレオパトラやその親族はギリシャ系の顔立ちで肌は白い」という考え方をもつ一人であったが、ギリシャ系の血とエジプト系の血との混血という可能性を考え始めてからは、映画で見る「クレオパトラ」は中らずと雖も少しくらいは遠からず程度だろうと思うようになった。
番組で映っていた再現されたアルシノエの顔を見て、昔の美人の基準というものに思いを馳せさせてくれることうんぬんも考えるのもたのしい。ただ、アルシノエとクレオパトラの顔が似ていたとしても、「美人」であったことが、即ローマ人を虜にしたとされる最大の理由ではないように思う。歴史書自体、カエサルらが生きていた頃よりは100年以上あとに書かれたものだし、その後の美貌を強調した脚色のイメージは現代人のもつアルシノエやクレオパトラ像に大きな影響を与え続けているのだ。その影響のことを思うと、「クレオパトラの鼻」をすぐに引用することが“一般教養”というのは、パスカルだけでなくアルシノエやクレオパトラからもあの世で泣きながら失笑を禁じえない気持ちになっているのかもしれないなぁとか、たわいも無いことを考えてしまった。

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間があいたが、こちらのつづきというか、関連内容である。
バス停のあるラウンドアバウトからポン・デュ・ガールまで、案内表示はあるものの、↑の画像の道をとにかく15分以上歩いて行かねばならない。
我慢強く歩いて、駐車場っぽいものが見えたらもうすぐだ。


インフォメーションやカフェやお土産屋や博物館の入口がある

世界遺産に登録されたからか、立派な施設が近くに作られている。


ポン・デュ・ガール鳥瞰図






ポン・デュ・ガールへの道もきれいに整備されていた



わかりやすっ(笑)



ひたすら歩く



見えた!


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アンネ・フランク

こちらの記事にて

隠れ家に潜行していたアンネが見上げていた空や、耳にしていたかもしれない鐘の音かもとか思った。

と書いたが、これは確かに現地で感じたこととはいえ、事実を重点に置くならば、おそらく今の西教会の鐘の音は、というより鐘自体が当時のものではない可能性が高いだろう。なぜなら、1943年8月10日のアンネの日記に西教会の鐘自体が戦争のため供出させられてしまったかどうかして、時鐘が鳴らなくなって昼夜を問わず正確な時間が分からなくなったという記述があるからだ。
細かいことだが、一応以上のことを追記?しておく。

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