ひさしぶりの19世紀の小説である。
『感情教育』を手にした時の記憶はもうあいまいになってしまったが、10年以上前、岩波文庫の絶版の本がリクエストで再販されたきっかけだったか、これは今買っておかねばと強迫観念みたいなものが頭をよぎって買ってしまったように思う。それ以降、手にする機会はあったが結局家の中で積読になっていた。そんな作品をようやく読了したのである。今年は個人的に難物だと思ったものを読んでいるのでとにかくこの勢いで読んでしまいたいという乗りであった。
作品を読んでいる最中、
歴史を記述するということは、出来事があった年にその相貌(フィジオグノミー)を与えることである。
ベンヤミン『パサージュ論』
という言葉が頭をよぎった。作品は歴史小説とはいわないまでも(フロベールの作品執筆の意図・動機を知らないままだと)『感情教育』というタイトルが二月革命の体を半分なしていない作品という意味では損をしているなどと、言ってしまいたくなるほどの作品であるのは確かだろう。
作品ではフランスの文学にありがちな、立派な体裁の皮を一枚はぐと顕われる醜悪で悲惨なものをグロテスクに、それでいてカラッとさわやかに描くリアリズムも久しぶりに味わったが、読んでいる間、ほんと、ろくな奴がいねぇな、と思った(笑)。盲目的な恋愛や打算的な恋愛、代償欲求的な恋愛、ライバルに打ち勝ちたいが為だけの恋愛、社会的野心が充満していて自分のエゴのためには平気で友人の厚意を無碍にする始末の悪い人間模様などが目まぐるしく描かれ、心休まるときがほとんどない。ゆえにとくに後半から読んでいて退屈を感じないのである。読んでしまえば、なぜこの作品をもっと早く読まなかったのだろうと思ったりした。
またパリを旅行したときに実際に足を運んだ場所も作品のなかでけっこう出てきたし、パリの描写だけでいえばバルザックの『ゴリオ爺さん』やユゴーの『レ・ミゼラブル』 、ロランの『ジャン・クリストフ』を思い出させるようなところがあるので懐かしかったことも感想として付け加えたい。
ただ、今回生島氏の訳で読んだが、『ボヴァリー夫人』のときもそうだったように、この人の訳文、非常に読みづらい。訳文は別に格調高くある必要はないが、粗くてよいものでもない。読了してから他の人の訳文が出てることを知ったが、もっと早く出てほしかった。
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