デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ゼウス像

クインティーリ荘敷地内から出土した美術品も展示されている。


デュオニソスの像









建物もしくは家具の台座?






アッピア旧街道にも同じような像があったなぁ。






クインティーリ荘を後にする

アッピア旧街道側入口の警備員さんの英語をよく理解てなかった故、さっさと足を進めてしまいクインティーリ荘を堪能できなかった。また、19時まで開いているバルベリーニ宮に行きたくなって、足早になったのも、正直否定できない。
弊ブログで紹介できる画像は大体紹介したが、画像検索で出てくるクインティーリ荘の画像はすばらしいものが多く、それには私の見逃した床の模様や大理石の円柱、浴場や劇場の跡も美しく写っているものも多い。いつの日か、余裕ができたら遺跡について調べて、また行ってみたいものである。
もし、弊記事をご覧になって、クインティーリ荘へ興味を持ち行かれる計画を立てる方がおられたら、健脚でもってアッピア旧街道を含めて5~6時間かけ、ゆっくり遺跡めぐりするのがおすすめだと思う。
クインティーリ荘の公開は2000年から始まったらしく、ガイドブックに載っていることは少ないと思われるが、事前に現地での観光インフォメーションや、Pirreciなどで休館日などのチェックされるのもいいかもしれない。
バスでの行き方については、こちら

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古代ローマの五賢帝の最後にマルクス・アウレリウス帝がいるが、皇帝マルクスの許で軍団長として敢闘した人物にクィンティリウス兄弟がいた。
クィンティリウス兄弟の兄のほうは、皇帝の娘のひとりと結婚していた。兄は次の皇帝になるコモドゥスと177年までともに執政官を務めていた。
そのクィンティリウス一門の別邸がクインティリ荘(クィンティリウスのヴィラ)である。















クインティーリ荘では、高架水道から水を引くのに、敷地内まで自費で高架橋を建設したという。豊富に水を使っていたらしい。






クィンティリウス兄弟の兄は非業の最期を遂げた。
マルクス・アウレリウス帝のあとに皇帝になったコモドゥスは、21歳の若さで命を狙われる。首謀者は姉のルチッラで、その動機は下劣なものであったが、陰謀の全容が明らかになると若き皇帝は猜疑心の虜となって暴君と化した。
コモドゥスは実際は無実であった元老院の有力議員たちにも疑いをかけ、その中にクィンティリウス兄弟も含まれた。兄の方は先帝の娘のひとりと結婚していたから、コモドゥスにとっては義兄であるし、コモドゥスとはともに執政官を務めたこともある間柄であったが、兄は捉えられ裁判にもかけられず殺された。弟の方はシリアに駐在していたので間一髪のところで逃亡に成功した。

このクィンティリウス兄弟が陰謀に加担していた可能性は実に希薄で、庶民までが、このヴィラを欲しいあまりにコモドゥスが罪をでっち上げた、と噂し合ったくらいだった。
 塩野七生『終わりの始まり(ローマ人の物語11)』(新潮社)p241



出土品の博物館もある



アスクレピオスの像


つづく。

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クインティーリ荘、アッピア旧街道側入口

アッピア旧街道の記事にて、街道始点からクインティーリ荘まで行ったことを書いたが、Web上ではクインティーリ荘についての記事があまりないので、足早な不完全な見学ではあったが、私もクインティーリ荘を紹介したくなった。
クインティーリ荘の入口についてはこちらにも書いた。ただ、Webでのクインティーリ荘を紹介しているページには、この裏門?からの入場や退出は夏期だけの可能性が残っている。もし、弊記事をご覧になられた方で関心を覚えられた方は、念のために現地に問い合わせることをお勧めする。


かなり広大だ

























クインティーリ荘についての概要はまた次回。

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東からサンタンジェロ城へ

アッピア旧街道の記事にて、『ハドリアヌス帝の回想』を何度か引用したこともあり、せっかくなので"ハドリアヌス帝の廟(墓)Mausoleo di Adriano"についても紹介したい。
ハドリアヌス帝の廟とはいっても、現在の有名観光スポットのサンタンジェロ城(Castel S. Angelo)のことだから、ここについてはさまざまな書籍やイタリアを映した映像・映画、WEB上でも記事がたくさんあるので、私の書く内容も部分的に同じようなものになるだろう。
私はアラ・パチスからカヴール橋を渡り、川岸通り沿いに最高裁判所の前を通ってハドリアヌス帝の廟に向かった。


サンタンジェロ橋

サンタンジェロ城入口の前に架かる橋だからこう呼ばれている。橋を飾る天使像はバロックの巨匠ベルニーニの像の複製である。
バチカン市国、サン・ピエトロ大聖堂と近いからか、訪れる観光客は多い。サンタンジェロ城自体は大きな建造物だけれども、混雑による事故防止のための入城制限はそれなりにしているようだ。午後というのもあったのだろうが、私は結構並ばされた。


外壁

入城券購入まで並んでいる最中に廟の外壁を見上げる。層のようになっている。段階的に廟の姿が変わっていったことが分かる。
入る前の検札で人が途切れたので、私は「ハドリアヌス帝の墓はどこですか?」と訊ねてみた。職員さんは英語で詳しく「この建造物自体がハドリアヌス帝の墓で、今こそサンタンジェロ城となっているけれども、云々」と教えてくれた。その説明は有難かったのだが、私としてはハドリアヌス帝の「骨室」のことを訊ねたかったのだ(笑)。「骨室」を意味する単語、もしくは細かいニュアンスを表現する英語力は持ち合わせていなかったので、お礼だけ言って中に入った。


ハドリアヌス帝の廟のだった頃の模型

サンタンジェロ城の元の姿を再現した模型があった。アウグストゥス廟の影響を受けていることが分かる。



入口から一旦階段を下りてから、らせん状のゆるい坂が続く。
あぁ、ここがそうなのか、と少し感慨に耽りたかったが、町を歩き回った後のサンタンジェロ城観光なので疲れていて、まだ後から後から観光客の声がするのでさっさと足を進めてしまった。
感慨に耽りたかったというのは、須賀敦子の『ユルスナールの靴』(河出書房新社)にあるハドリアヌス帝の廟を訪れた箇所が印象に残っていて、骨室までの螺旋状の坂のどこか高貴で乾いた静寂さというやつを期待していたのだが、私の行ったときはそうではなかった。
しばらくして、『ユルスナールの靴』にある「傾斜した橋」まで来た。そして、一説にハドリアヌス帝が埋葬されているという骨室が見えた。現地にいたときは実際のところエッセイの内容を参照したというより、そこがただ単にライトアップされていたので、ハドリアヌス帝の骨室っぽいな、と思えたというのが正直なところだった。


ハドリアヌス帝が死の床で作った詩の一節が…

ユルスナールの『ハドリアヌス帝の回想』、須賀敦子の『ユルスナールの靴』にも載っているハドリアヌス帝の詩だが、廟にあった大理石に刻まれている詩は大文字で記されていた。

ANIMULA VAGULA, BLANDULA,
HOSPES COMESOUE CORPORIS,
QUAE NUNC ADIBIS IN LOCA
PALLIDULA, RIGIDA, NUDULA,
NEC UT SOLES DABIS IOCOS.

たよりない、いとおしい、魂よ、
おまえをずっと泊めてやった肉体の伴侶よ、
いま立って行こうとするのか、
青ざめた、硬い、裸なあの場所へ、
もう、むかしみたいに戯れもせず…… (須賀敦子訳)


ハドリアヌス帝の遺骨が納められた場所の説には、この「骨室」よりも上階にあるローマ教皇が装飾を施させた「宝物の間」と呼ばれる部屋ではないか、とするものもあるようだ。私個人は画像にある骨室の方がストイックな皇帝にふさわしいと思っている。
ちなみにハドリアヌス帝の廟には、ハドリアヌスからカラカラまでの皇帝が埋葬された。


天使の中庭への階段



天使の中庭



ここから上の造りは…?

サンタンジェロ城が、もともとはハドリアヌス帝の廟であったことは書いたが、お墓から要塞に最初に改築したのは、ホノリウス帝である。ホノリウス帝はローマ帝国の東西分離が決定的となった4世紀末以後の西の皇帝だ。アラリックが族長の西ゴート族がローマを劫掠したあとの復興で、要塞に改築したのだろうか。
そして、西ローマ帝国の滅亡後、東ゴート族のトティラがローマを占領した際、現在見られるような堅固な要塞へと再改築した。
10世紀以降、サンタンジェロ城が教皇庁の所有になってからも、要塞として強化されていった。


ハドリアヌス帝の胸像



屋上からカンピドーリオの丘方面を望む



天使の像

ゴート族は再三ローマを攻略した。6世紀半ば、ユスティニアヌス帝から西に派遣されたナルセスがロンゴバルド族を主力とした軍を率いてゴート族と戦い勝利したが、その後ロンゴバルド族はイタリア半島を手中にすることになる。
そのロンゴバルド族はローマにペスト菌を持ち込んだ。ペストはイタリア全土を席巻した。



590年、時の教皇グレゴリウス1世がペスト流行の終結を祈願する行列をつくった。その一行が城塞の近くにさしかかったとき、天使ミカエルが城塞の上に現れてペストの終焉を告げた、といった伝説が、現在のサンタンジェロ城の名の由来となっている。



屋上のテラスのこの石の像の跡らしきものを見ていると、西ローマ帝国が滅亡した後、ゴート族がローマに攻め入り東ローマ帝国のユスティニアヌス帝が将軍ベリサリウスに命じて旧西ローマ帝国の領土を再復を図った際の攻防を思い出した。
ローマ入城を果たした将軍だったが、再びゴート兵がローマを攻城した。要塞化されたハドリアヌス帝の廟をゴートの兵から守るためとはいえ、彼らは廟にある神々や馬の彫像を引き落として破壊し、石塊の山と化したそれらを両手で持ち上げては、ゴート兵の頭上に落とし始め、敵兵を追い払ったのだ。
仕方がなかったとはいえ、芸術作品の殺戮だけはしなかったローマ人の将軍の時代とは異なる6世紀半ばの「殺戮」であった。
画像にある石の跡は「殺戮」の跡と無関係であるとは思う。でも、その攻防のことを髣髴とさせるように思った。


サンタンジェロ橋から撮

ハドリアヌス帝の骨室、屋上テラスからの眺めなどを堪能し、サンタンジェロ城を後にした。入城の際、私に説明してくれた男性職員が「再見」と言ったので、Splendido Mausoleo! Arrivederci.と返事してGiapponeseと言い添えた。男性職員は「サヨナラ」と返してくれた。

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今更感があるが、
薄汚れた画面…大河「平清盛」を兵庫知事が批判(読売新聞) - goo ニュース
この記事には重要な事実が抜け落ちている。兵庫県のページにあるとおり、ドラマに関する知事の評は記者から水を向けられた質問に答えたもので、知事が訊ねられもしないのに一人で語りだした訳じゃないのである。詳しい流れは、知事定例記者会見に事実が書かれているので、こちらをよく読んでほしい。

私は別に知事の発言を弁護しようとは思わないが、記者の

記者:
 平清盛の件ですが、初回の視聴率が関東地方で17.3%ということで、過去50年の大河ドラマの中でワースト3位という非常に低い視聴率となりました。ブームを起こす側にとってはかなり厳しい状況だと思いますがいかがでしょうか。

この質問はどういうつもりでなされたものなんだろうか。この記者の大河ドラマの見方というか認識は浅はかなものではないかと思う。大河ドラマが兵庫県にとってブームを起こすための「もの」として、もの扱いで記者がドラマを見ているということが窺い知れる。県のブームになろうがなるまいが、初回だけであたかも県のブームの行く末が決まるような決めてかかったような見方でもって、知事に質問したのではないか。
記者の質問を受けての知事のドラマに対する評は、いまさら繰り返さないが、まぁ、本当に歴史上の登場人物を調べたり、歴代の作品を見続けてきた人ならば、あのような発言はしないだろうと思う。ドラマが始まる前からNHKは番組のお知らせなどで、ドラマの映像を一部流しているから見られることだし、またドラマ制作にあたっての姿勢について分かるはずだ。なにはともあれ、兵庫県のために大河ドラマが制作されているわけではないことは、知事もそして記者も自覚すべきだったとは思う。

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同じような写真でも何度も撮ってしまう



どうして左右均等のシンメトリーを意識した写真が少ないのだろうかと今にして思ったりするのだが、現地の日差しは事のほか陰影がつきやすかったことを思い出す。カメラの露出は右に少しずれただけで、思いのほか変化してしまうのだ。これも次の課題といえば課題である。











カザル・ロトンド前の往時の石畳

路面を触っていると一台の車がやってきて、往時の石畳の上ではスピードを落としてガクンガクンと車体を縦に揺らしながら私の目の前を通り過ぎて行った。紀元前から存在している路面が悲鳴を上げないことに感動しつつも、地元の人には不便な路面状態なんだろうなぁと思った。















カザル・ロトンドには40分ほどいた。私以外には地元の人が1・2人通りがかっただけだった。午後になると、もう少しくらいは人が来るのかもしれない。

アッピア旧街道を訪れてみて、この街道が復元図のような姿をしていたと頭の中でイメージすることは、実際のところ難しかった。
しかし、今なお健在である往時の舗装や墓碑・記念碑に手を触れ、ローマ帝国の大動脈でありつづけた、これでもかといわんばかりに真っ直ぐに延々と続く街道が、軍団が敏速に移動できる機能、地方への政略として重要な機能をもつだけでなく、「人間が人間らしい生活をおくるためには必要な大事業」という思想を地道にかつ合理的に具現化したものであることは分かった。また、画像で紹介したような現在の姿ではあるが、この先も今の街道を訪れた人々に、古代と現代が地続きであること、文明とは何かといった問いや、古代の人々のユーモラスな死生観について考えさせてくれる、貴重な場所であり続けることは間違いないだろう。
再びローマを訪れる日が来たなら、ぜひまた足を運びたいものだ。








アッピア旧街道を後にする

柄にもないが、やっぱりアッピア旧街道から得た全般の印象も兼ねて、私なりに街道の雰囲気にあこがれて酔おうとした、きっかけになった小説の箇所を、アッピア旧街道の「回想」を終えるにあたり、紹介しておきたい。

わたしは数多くの廃墟を再建したが、それは過去の相のもとに時間と共同作業を行ない、過去の精神を把捉あるいは修正し、もっと長い未来に向かってそれの乗り継いでゆくべき換え馬を出してやることである。また石のかげに源泉の秘密を発見することでもある。人生は短い。われわれは絶えず過ぎ去った幾世紀、来たるべき幾世紀について、まったくわれわれと無縁のものであるかのごとく語るが、わたしは石と戯れるうちにそれらの過去と未来とに触れたのであった。わたしが支柱で補強するこの壁は、消え失せた人の体のぬくもりをいまなおとどめているし、いまだ生まれ来ぬ人の手がこの列柱の柱身を愛撫するであろう。自分の死について、とりわけ他人の死について瞑想すればするほど、わたしはわれわれの生をこれらのほとんど不滅の継ぎ足しによって延長させようと試みた。
  M・ユルスナール『ハドリアヌス帝の回想』(多田智満子訳、ユルスナール・セレクション1、白水社)p140


帰りはカザル・ロトンド通りを引き返す形で、アッピア新街道へ向かった。


アッピア新街道。さながら「現代」に連れ戻らされた感じだった(笑)


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今の自分にとって重要なことが書かれている本であることは確かなのだが、読んでみていざ自分の中で起こった漠然とした感想を述べようにも、どのように書けばいいのか困り果ててしまっている。本自体は、先月末に読了したものの分からない点がたくさんあったので、正月中よく読めてなかった箇所を読み返したが、それでも私の理解はまだまだ追いついていない、手に負えてない本であることは確かなようだ。
タイトルどおり、この本は歴史とは何かを論じた歴史哲学の本だが、名著といっていいだろう。

歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります。

よく引用される有名な言葉だが、本はこういった不断の過程のなかにも歴史家が歴史を決定することというのは、そもそもどういったことか、といったことを解きほぐしてくれている。
カーは歴史が決して覆せない、打ち壊せない、過去という型が決められてしまっているということについて、

「われわれが読んでいる歴史は、確かに事実に基づいてはいるけれども、厳密に言うと、決して事実ではなく、むしろ、広く認められている幾つかの判断である。」

といったバラクルーという人の言葉を引用したりしているが、このような解きほぐしは体験したことのない歴史について軽々しく語る私にとっては非常に為になるように思う。
そして、歴史家も人間で、自分の生きている時代の影響から逃れることはできないという当たり前のことではあるが、一般読者がそこまで意識しないことも改めて気づかせてくれたりしている。とくにモムゼンの書く歴史のくだりはおもしろかった。
歴史における因果関係の章には苦笑せざるを得なかった。とかく私も、歴史にIFを用いたがる傾向があるから、「クレオパトラの鼻」問題や、ロビンソンの死やスミスの譬えは秀逸だ。しかし、カーがもし現在の社会的責任を負う人間の姿を目にしたら、どう思うことだろう?と思ったりはする。
なんだかんだいって同意したのは、

過去に対する歴史家のヴィジョンが現在の諸問題に対する洞察に照らされてこそ、偉大な歴史は書かれるのです。

…ある歴史家たちに比べて、もっと永続性のある、もっと完全性と客観性とが多い歴史を書く歴史家たちというのはいます。この人々は、過去および未来に対する長期的見方とでも呼ぶべきものを持っている歴史家たちです。未来への理解が進んで初めて、過去を取扱う歴史家は、客観性に近づくことが出来るのです。

といった言葉だった。そうか、結局人間は未来がどういった変化を遂げるのかという方向性をもちつつ、あらゆることを検証しよう・論じよう・書こうとするのだ。これって、当たり前すぎて実は見失いがちで、また自分本位の価値観や欲望とすりかえたり勘違いしやすいことのように思う。時間って連続してて地続きであると捉えること、どんな国の地域の歴史家であれ、一般大衆であれ、過去・現在・未来を相対的に捉える努力を欠かすべきではないと思った。

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セルチェの塔

セルチェの塔と呼ばれる巨大遺跡が見えてきた。この遺跡は画像の通り、墳墓の上に築かれている。





アッピア旧街道はブリンディシまでつづく。













もう一度、カザル・ロトンド通りを横断し、巨大円形の墓へ。





こちらを見る限り、この円形の墓の上には家屋が建ってる!?

ユルスナールは『ハドリアヌス帝の回想』のなかで、

ティベリス河畔のわたしの墓はアッピア街道の古代の墓を巨大な規模で再現したものだが、
『ハドリアヌス帝の回想』(ユルスナール・セレクション1、白水社)p141


と皇帝に語らせているが、もしこれが当たらずとも遠からずなのであれば、チェチリア・メテッラの墓か、カザル・ロトンドの墓を指しているのかもしれない。もちろん、アウグストゥス廟の可能性もあるが(笑)。


カザル・ロトンド

カザル・ロトンドは共和政時代につくられた巨大な墓だという。


この墓石も巨大だ




つづく。(次回最終回)

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朝日を背に受ける

行き方についてごちゃごちゃと講釈を垂れてしまったが、ようやく「街道の女王」のつづき"カザル・ロトンド(Casal Rotondo)編"である。
朝の八時半過ぎ、カメラを北西に向けてのショットなので、太陽を背に受けている。観光客は私以外いなかった。
アッピア旧街道とカザル・ロトンド通りの交差点で車が通り過ぎるのを待っていたら、一時停止してくれる車があった。車のなかで、「ここがアッピア旧街道だ」みたいなそんな会話がされているような様子が見てとれた。


墓もしくは記念碑だったのだろうか。






碑文があるのが分かる






ヴィラ(荘)もしくは邸宅の入口だろう






祠の跡かもしれない


つづく

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アッピア新街道、しばらくは私有地が右手に。

しばらく歩いていたら、クインティーリ荘を遠くに望める。


アッピア新街道からクインティーリ荘を望む

バスの664か654に乗れば、アッピア旧街道のカザル・ロトンド(Casal Rotondo)に近い、アッピア新街道(Via Appia Nuova)と Via Delle Capannelle の交差点のバス停(Capannelle / Appia Nuova) に行ける。


バス停 Capannelle / Appia Nuova からカザル・ロトンド通りを望む



信号待ちしている車の通りがカザル・ロトンド通り(Via Casal Rotondo)、右がアッピア新街道

このとおり、史跡指定区間のアッピア旧街道から歩いて15分くらいの国道は、車がビュンビュン走っている普通の国道なのだ。


カザル・ロトンド通りをひたすらアッピア旧街道へ

カザル・ロトンド通り(Via Casal Rotondo)を通ってアッピア旧街道までは、ゆるい上り坂であった。ちなみにカザル・ロトンド通りは、バイク・車が容赦なく走っているので、注意して歩いた。


アッピア旧街道が見えてきた!

前回、ごちゃごちゃ書いたので整理したものを。

・バスでのクインティーリ荘への行き方。
地下鉄A線コッリ・アルバーニ駅(Colli Albani)もしくはアルコ・ディ・トラヴェルティーノ駅(Arco di Travertino)から、バス664番乗車。Appia / Squillace のバス停で下車。ちなみにカザル・ロトンドへは、664番の Capannell / Appia Nuova のバス停下車。カザル・ロトンド通りを徒歩でアッピア旧街道へ向かう。

・アッピア旧街道の遺跡群への行き方。
地下鉄A線アルコ・ディ・トラヴェルティーノ駅(Arco di Travertino)からバス765番乗車。バス停 Erode Attico / Appia Antica 下車。ここからアッピア旧街道に入れば、南東に下ればカザル・ロトンド、北西に上ればチェチリア・メテッラの墓となる。

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