デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



国立西洋美術館で鑑賞したユベール・ロベール-時間の庭展の売店で購入した展の画集を読んでいて、過去にこちらこちらで書いた内容について、若干の補足と部分的に修正する必要があるように思った。

ユベール・ロベールがダンジヴィレ伯爵の推により王室絵画総管理官の一人としてルーヴル宮の収集品目録作成、作品収集、修復管理に関わるのが、1784年である。ちなみにこの管理官の役職にあっても、建物改修について少しくらい関わることがあったのではないかと推測されている。
さて、先の記事では、あたかもロベールひとりの発想でもって、現在のルーヴルに見られる採光方式が定められたかのように書いてしまっているように思うが、それは修正と補筆が必要なようである。
王室のコレクションを公開する「美術館」として、ルーヴル宮をどういった形にしていくのかといった、検討委員会自体は既に1778年に発足していたのであって、ルーヴル宮の天井からの採光のための改修計画は、委員会発足時からの懸案であった。
ロベールが美術館の採光のための改修計画に関わるのは、革命のごたごた(1792年8月10日が王権停止)で投獄(1793年10月29日入獄、1794年8月4日釈放)され、釈放後の1795年以降である。彼が天井から採光するための改修計画に並々ならぬ力を注いでいたことは、先の記事に紹介している有名な『ルーヴルのグランド・ギャラリーの改造案』(1796)が描かれるまでの、ギャラリーの改修工事の模様や現状の様子についてのいくつかの作品が物語っている。
要するに、採光の懸案について、1770年代後半から政治体制の変化の影響でメンバーの入れ替わりはあったにせよ、検討していた人たちがいたわけであって、その検討の過程で改修案を絵画でもって示したロベールの力も大いに働いているのである。
それにしても、ルーヴルに関わったロベールに関する資料を読むと、18世紀後半から始まった建物や美術品の管理官たちによる委員会や、評議会で決められ実行に移されたことが、現代の美術館の形に大いに影響を与えていることがわかる。
日本にもいろいろな美術館があるが、これからは入館したらそういったことも少し考えつつ鑑賞したい。

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今年は荒れた天気の日、春なのに昼間から冷え込んだ日が何日かあったが、なんとか今年も桜を撮ることができた。


















先月、普段から荒い使い方をしてるつもりはないデジカメのレンズエラーが頻発するようになった。今のところピントがうまく合えばラッキーという、写真を撮る者としてはよろしくない状態ではあるが、買い換えるにもどのようなカメラが欲しいか、自分で分からないので、とりあえず桜の季節はそのまま使い続けた。
ピントの合わない写真も半分くらいにまで増えた。しかし、載せるには至らないものの、ボヤけている画像が実は味のあるものに思えてしまうのも事実なのである。

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ユベール・ロベール「アルカディアの牧人たち」(1789)、ヴァランス美術館

添景という言葉を書物で目にしたのは先月末読み終えた「ヨゼフ」だったけれども、俗っぽい人が添景となっている絵をたくさん描いたユベール・ロベール「時間の庭」展を見に行ってきた。
ロベールの絵は、このブログの上部(タイトル部)の背景画像に用いさせてもらってかなり経つし、これからも変更するつもりはないくらい好きなのだが、好きなわりに曲がりなりにもデカダンの名をつけているこのブログで、あまりこのテーマについて突っ込んだことを書いていないなぁ(笑)。
それはともかく、単に日常生活には必要のない、食と住さえどうにかなれば、人は生きられるのに、人は庭に前時代や古い時代の役に立たん遺物や朽ちたものを配そうとする心が働いたり、そういった庭を見て心が安らいだりするのは、どういった理由からだろうかと、そういったことをユベール・ロベールの絵を見ると、いつも考えてしまう。
カラッチ以降に描かれ続けた理想風景や古代への憧憬をテーマにした廃墟が盛り込まれた絵画の要素を真摯に学び、自身の筆によって奇想な廃墟画の作風を確立させたロベール。現実の庭を、絵のような庭にデザインした彼はまた、そのような庭のような絵を描くわけだが、その中には添景として俗っぽい人間の姿、作品の多くで滝や川で洗濯をする女性の姿を描きこんでいる。
絵の中の人物たちからすれば、廃墟は日常にある当たり前すぎるもの、普段の視界に溶け込みすぎて見向きもしないものかもしれないが、少なくとも私は現実の時間と過去の時代を示すものが同居していると見てしまう。廃墟を構成する物体は過去には使われていた立派な建造物や、権威を示すための大きな墓だったりするわけだ。廃墟画には、そういった元が立派な姿だった物たちの未来の姿が描かれているわけであって、ありきたりな書き方だが、ロベールの絵はまさに時間が交差している点であるし、想像力を働かせれば絵の舞台の過去に思いを馳せ、思いを馳せたらまた眼前に(思いを馳せた物の)未来の姿が現われるというおもしろさがあるように思うのだ。
ところで、画像の「アルカディアの牧人たち」は古代社会というよりは、伝説的な桃源郷を表した作品である。この傑作が1789年に描かれたというのを見て、妙な感覚に襲われた。作品は、支配層の没落や社会が顛倒・混迷し始める年に描かれたわけで、それでいて先人たちの影響をあからさまに感じさせる作品なわけだが、こういった、ルーヴルの代表作だけでは体験できない、ロベールのキャリアを積み上げていく過程と絶頂期の傑作を堪能できるのが上野での展覧会であった。こんな機会はなかなか無い。とてもすばらしかった。

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フェリーニの「甘い生活」を見た。

まいったねぇ…。ローマがあのような町である筈はないのだが、現実に虚構を生み出すフェリーニの映像マジックは、まるでローマが享楽に身を投じた人間ばかりが住んでいる町のような印象を、鑑賞者に与えてしまうように思う。悪い意味ではない。それほど演出が目を見張るようなものになっているということだ。
マルチェロ・マストロヤンニはこの映画で注目されるようになったそうだが、この人は快楽や退廃を追求する役を演じると本当にうまいというか嵌り役だ。いいおっさんが、子供みたいにはしゃぎまわる姿の演技は時々痛ましさを覚えてしまうこともある。けれども、はじめからあたかも体に染み付いたような悲哀を含んだ喜劇的な雰囲気は、彼独自のものだ。
フェリーニの映画はだいぶ前に幾つか見たが、そのころは「監督が有名だからすばらしい作品」という理由だけで闇雲に見た時期であった。いつか時間ができたら、二度目の鑑賞をしたいところである。

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月灯りふんわり落ちてくる夜 on guitar

久しぶりにソロギターの動画をアップした。まだ完璧じゃないけれども、この曲は「晴れた日に…」とともに、ずっと弾きたい曲であった。自分でアレンジに挑戦したけれども、自分のアレンジよりすばらしい譜面をつくっている方がいて、結局はその方が公開している譜面を弾かせてもらった。
この曲をエンディングにしていたアニメの作者が亡くなって久しいなぁ。

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