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デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



『ヨゼフとその兄弟たち』を読了。二度目である。
劫初の、計ることのできないほど前の時代の物語、いうなれば絵空事、あったかどうかも今や誰も知らない物語が、さも実際に起り、あったかのような錯覚を抱かせるような数少ない作品であると感心させられたことは、今回も同じである。
登場人物の描写が極めて精緻で、その背景に鋭い観察力、観察力で得たイメ-ジを的確に硬質に表現する力、何度も繰り返すことにより、読者にまるで登場人物が生きているかのように錯覚させるほどの"話術"は、本当にすばらしい。尤も、彼の人物を描く上での姿勢は、聖書を清廉潔白でどの世界の宗教の経典よりも洗練されていることを前提にしているとは、全くもってしていえない。物語の登場している存在すべてに対し、マンは寛恕の気持ちとイロニーとをセットにし絡み合わせて見つめ、あらゆる面の本性と特徴を細心の注意をもって、そしてお祭り気分で明るく書いている。
ただ、二度目ともなると、この偉大な作品ですら、小説のスタイルの好み上の「欠点」とかも考えながら読むことができた。好き嫌いがはっきり分かれるところであろうが、トーマス・マンの小説は作品内にさまざまなエッセイ風の論議や独自の見解、アフォリズムを盛り込みすぎる余り、本筋からあたかも脱線したかのような、またその「脱線」の内容は本筋と関係があるものの、表現が硬質で迂遠・婉曲し理屈っぽく、冗長なのに的確でこの上なく隙がないところに特徴がある。作家は、作品を読者がストーリーだけを追えるよう脱線することなく面白い話しだけ書いておればよいと、思う人もいるだろう。実際、トーマス・マンのスタイルを嫌って、マンのスタイルの反対を貫くことで成功している作家も少なくないし、それが時代の流れともいえるかもしれない。
しかし、私はこのような「脱線」こそ作中の個々のエピソードの重厚たるテーマの消化には欠かせないものであり、そのことを堂々と示しているような作品の読書がそこまで苦にならないことが多い(多いというのは例外があって『トム・ジョウンズ』のような脱線は読んでいて正直欠伸がでることもあるからだが)。三人称で語られ、作者による大いなる脱線がこれほどまでに豊饒で味わいに充ちていて読者を楽しませる作品は、古今東西の小説のなかでも少なく、『ヨゼフとその兄弟たち』はその僅少な作品たちの一つだろう。


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CCRのWho'll Stop The Rainと、ウルフルズの「かわいいひと」は似ているなぁと、ふとCCRを聴いていて思った。
すでに誰かが指摘していることかもしれないが、ウルフルズは大いに作曲の参考にしたのでは、と思った。

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『ヨゼフとその兄弟たち』は、ファラオの夢解き、豊穣の7年を経て、タマルの奸計までやってきた。主人公ヨゼフが

「…文筆のわざは何と言っても偉大ですから。しかしもちろん、人の生きる人生そのものがひとつの物語になるのはもっと偉大です。わたしは、わたしたちがひとつの物語の中に、それもすぐれた物語の中にいることを日増しに強く信じるようになっています。…」

とうとう、物語はその時にはすでに起りながらそれ自身を語り終えているようなこと、その物語の中の自分の役割を自覚するようなことを自分で言い出した。
このセリフが書かれている箇所に至って、私は『ドン・キホーテ』の後編にある読んでいて妙な感覚に襲われる「珍設定」のことを思い出した。
『ドン・キホーテ(後編)』では、後編が始まった時点で、前編でのドン・キホーテとサンチョがやらかした様々な滑稽譚とさえいえるエピソードが、世間で書物として評判になっていて、そのことを彼らもリアルタイムに知っていることになっている。自分たちの行動記録が、勝手に何者かの手によって世間に流布されているというわけだが、それの世間での評判に対し、彼らは自らの口で辛らつな批評をしてみせるのだ。つまり、評判の評判で生きているような存在が、彼ら二人なのである。
神の被造物である彼らの一挙手一投足が、即、書かれた物となって物語化してしまう現象の過程は、少なくとも伝承を経てないこととは截然としている。ある意味神がかり的に創造物を目に見えない形で現出させてしまっているのが『ドン・キホーテ』後編の世界である。

閑話休題。偉大な物語の中にいることを確信するまでに至ったヨゼフは、彼が糧秣大臣になるまでの出世の階段の労苦も神のご意向で、神に愛されている限りは神の意向に沿うように自分も努力しなければならないと、習慣や時には精神の面でもエジプトと折り合い自身を鼓舞する。
物語自体が旧約聖書の創世記の範疇を出ず、なんども絶望的な状況下に置かれながら、自身の資質を存分に生かし、存分に生かす精神的支えになるのが信仰なのだろう。しかし、神(がいたとして)はやっぱりヨゼフに目をかけて偏愛している事実は、人間はみな神の下では平等とはいえないことも表している。祝福を得るために争い、一族の歴史に名を残そうとしても、詐取されたりちょっとした軽率で呪われてしまったり、運というか機会さえ平等に与えない神のきまぐれをここにきて感じる。
ただ、作品に出てくる神の精神活動うんぬん以上に大切なことも描かれている。冤罪で獄中にあるヨゼフは自分自身を信頼する。

…彼は、世界や世界の人々を促して、その最善の、最も明るい面を見せてもらうようにする天分を持っているのだ、と信じつづけていたのである、――これは明らかに、世界を信頼するというよりは、むしろ自分自身を信頼するということであった。もちろん、彼の自我と世界というふたつのものは、彼の考えよって互いに寄り添わせられていて、ある意味ではひとつのものになっていたのだから、世界といっても、それは単にそれだけで独立した世界だったのではなくて、まさに彼の世界だったのであり、彼の世界だからこそ好意的な愛想のいいものに変えられていたのであった。境遇は力強いものである。しかしヨゼフは、境遇は個性によって変えることのできるもので、自分の運命を決定してゆく個人の力のほうが大ざっぱな決め方をする境遇の力よりも強いものである、と信じていた。彼がギルガメシュのひそみにならって、自ら悲喜の人と称したのは、自分の性格の幸福な面が多くの悲しみにとらわれやすいことを知っていながら、その反面ではまた――悲しみが暗くて不透明で、彼の固有の光あるいは彼に宿っている神の光をもってしても全然見通しがつかないというような場合でさえ――およそ悲しみなるものを信じなかったからである。

ムト=エム=エネトに対し慙愧に堪えない思いを経験し、二度目の窩(あな)に転落してもなお、不撓不屈の精神を、自らの堅物でない真面目な、ユーモアを失わないいたずら好きな性格をもった資質に磨きをかけて発揮し、人生に臨む姿は心を打たれる。如上(前々回)の時点では決意だが、実践する姿のヨゼフは光耀している。

さて、一匹目のドジョウがいたかどうかもわからないまま、二匹目のドジョウ企画を断行する。作品で使われている私の読めなかった語句、読めても意味が自身の中であやふやな語句の一覧である。

悋気、阿る、諄、諌言、悲愁、屍色、如上、松毬、慰藉、知悉、寧日、包摂、簇葉、篠懸、赤罌粟、懸垂、長押、妹背、賦払い、澄明、斎女、仮象、風儀、寛恕、閹羊、棕櫚椰子、丈高く、巧まず、苛斂誅求、顚倒、蔓日日草、然して、藺筆、股肱、煩労、鶴首、高禄、恃み、覉旅、遼遠、把持、鬱勃、無礙、翹望、矮躯、印綬、漿液、矜持、殊遇、不壊、陽根硬直、赤誠、鳳輦、斎戒、瞥見、轅、籠座、薄紗、精悍、徽章、凛然、糺問、衒気、産褥、仮睡、綃沈、穿刺、臥床、刺絡、菲沃斯、隆昌、鉱、杜松、施物、小径、辛酸、縷々、掃蕩、糾合、頑是、爛熱、絢爛、奢侈、愁眉、熨斗、粧われた、跳梁、放恣、醇化、衿、余人、三和土、戒心、添景、裔中、鬘布、示顕、雁来紅、不撓、昂然、気宇壮大、奈辺、驥尾に付す、教唆、瀟洒、結滞、搏った、鉱滓、貪婪、殷鑑遠からず、詮ない、止揚、困却、尤たる、呻吟、築山、嫉視、索漠、昂揚、渇仰、惹起、掣肘、方鉛鉱、滲透、廉恥、褥付、焦慮、昏迷、怜悧、朴念仁、措定、顧慮、擯斥、転義、克己、火絨=火口、紊乱、進貢、使嗾、奸智、牽強付会、当意即妙、悄然、遁辞、紀律、淫猥、慚愧=慙愧、舵、盛儀、盛観、檣、雅致、果穀、三檣縦、贖い、防禦露台、引致、花托、貢賦、瀑布、搗砕、流露、連累、空籾、世嗣、鼓吹、日嗣、登極、至尊、永生不易、欣喜、堡塁、朝貢、鋪石、扉幕、行啓、騒擾、偏頗、種籾、顕頌、胸牆、優渥、鼻白、采邑、開鑿、暗渠、截然、厩舎、碧玉、罐、菫、炬火、覚束ない、四囲、巧緻、琴瑟、相和、首邑、田夫野人、濛気、欣求、天衣無縫、交接、剪採、漕奴、侍立…

インターネット上で使える辞書にも助けられているが、中にはネット上どころか分厚い辞典にも出てこないものもある。訳者の頭の中はどうなってるんだろう、感服しつつ思う(笑)。

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近代以降の小説の特徴として、物語中の時代設定がいかなるものであれ、人間の内面の動きや日常生活を主なテーマとしているところがある、と思うのだが、『ヨゼフとその兄弟たち』も人間の内面の成長の促進が思いのほか慫慂としていて、いざというときには呪わしい愚鈍さしか発揮しないところが、余すところなく述べてある作品であるといえよう。
ヨゼフは一度、自らの傲慢で軽率な性格から厚顔な振る舞いに出て、兄たちから負の恨みを買って井戸に落とされるが、エジプトに下りそこで成人し立身してなおムト=エム=エネトとの関係がこじれ取り返しのつかない事態になってさえ、罪悪感と責任感こそ覚えてはいても、自らの好奇心と軽率さについては彼は律しようとはしない。それゆえ、彼はまだ若いのだ。
ムト=エム=エネトから迫られて、ヨゼフが彼女を擯斥(ひんせき)する7つの理由が、事件が起こる前に遁辞のように書かれてあるが、それはちょっと苦しいかも?と正直思う。情事が未遂となり、それからヨゼフが自省して普段の生活では周囲におおっぴらにしない信念を、7つの理由として理性的に整理したのなら分かるが、情事が起ころうとする際に長い弁舌の中にそれを盛り込むのは、小説とはいえ無理があると思った。(まぁ情事が起らんとするところの二人の長セリフの応酬自体がありえないと思うので笑えるといえば笑える)。
ポティファル邸でのヨゼフの立身と出世は、自らの好奇心と軽率さ、そしてエジプトの神と自分の神との力くらべの試行の末、絶たれ、彼はまた窩(あな)に落ちるその過程は、凝り過ぎているぐらい凝っているのだが、聖書にあるとおり、彼には神がついていて、その後(というより結局は)窩に落ちる前の境遇よりもはるかに豊かで多くのものを享受するのだが、神による一度ヨゼフを打ちのめし再び引き上げてやるという「ご意向」のつじつまを合わせるために、マンも作品を描きながら苦笑しつつ、仕方無しに神の弁護を引き受けているような感じが出ていておもしろい。「これだから神は困るんだ、でもいてくれないとそれはそれで困る」と毎度思っていたのかもしれない。

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旧約聖書の「創世記」には、ポティファルが自分の家のすべての財産をヨゼフに管理させるまでの詳細、推輓されるきっかけになった出来事が描かれていないので、『ヨゼフとその兄弟たち』では作者の旺盛な想像力でもって、その場面が描かれている。
庭園でポティファルに長広舌を打つヨゼフの場面は見事だ。言ってる内容は植物の交配にかこつけたエジプトの神々と自分の神が両性を具してなお孤高にある姿を畏怖し追従して、ポティファルの心をくすぐるという話しなのだが、ヨゼフはテーベへの遡上で得た見識をふんだんに生かし、ものは言いようの典型でポティファルのハートをがっちり掌握する。マンの筆にかかれば聖書には記述のない場面が、さもあったかのようになるからおもしろい。

ところで、マンは物語のなかの登場人物を、登場させる度にその身体的特徴や性格的特長を、くどくどしいほどに書き入れている。

自分の力と同時に自分の誤りやすい性格をも意識している

「そうじゃない。聞いてくれ、兄弟たち、俺は蛇だ蝮だと呼ばれていて、なんとか頭を利口にはたらかすこともできるんだ」

両目の下にとてつもない大きない涙嚢が盛り上がって、目を下から圧迫


これらは個々の登場人物が登場する際、いつも用いられているその人物描写の頭に付される登場人物の特徴なのだが、長編小説ゆえに特徴を間をおいてなんども繰返されると、読み手の中に人物が個性のある生きた者として感じられてくるから不思議だ。
最も特徴をくりかえし書いている対象は、主人公ヨゼフと神である。根が孤独で貞潔を熱望するゆえに嫉妬深い神については、ヨゼフの雇い主であるポティファルも「痛ましい矛盾」を感じていると、マンはエジプト人の口から語らせている。
しかしながらヨゼフは自分がエジプト人と化していく現実とともに、エジプトの神々や祝祭と距離は置きつつも、自己と自己の種族が決してこの世では唯一無比のものではないという一事を認め、禁ぜられた事物も自分にとっては禁制のものでなく、むしろ深い意味をもつとし、そこに(神の)打算と寛恕とそれを拠にした留保が加わって、彼を大人へと成長させていく現実的な神を考え出そうとしているところに、私は「くりかえし」のなかにも変化があるように感じる。信仰の対象がなんであれ、人は自分がそれをやるように生れついたところのものに自分を仕上げるため、心を引き締める彼の決意と行動は一読に値する。

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ヨゼフが二度目に売られ、ポティファル(ペテプレー)の屋敷に入ってポティファル夫人を見かけるところまで読了。
作品の中でヨゼフがエジプトに連れて行かれる際、道案内を買って出るのが、前回触れた「野の男」なのだが、今にして思えばこの「野の男」の用い方は、のちの『ファウストゥス博士』のアードリアーンを支援する婦人の前身ぽいなと思える。
「エジプトのヨゼフ」の前半は、物語の舞台としているエジプトの姿、ヨゼフが聞き知ってはいたものの初めて目にする現実のエジプトの説明に費やされている。正直、エジプトの姿の描写は読んでいて無聊(ぶりょう)になってくるが、エジプトに凝然としている神々はヨゼフの信じる神によって禁ぜられた事物であるも、彼にとっては禁制のものではなくて、むしろ深い意味をもち、それはいずれ父ヤコブの体験の再来として彼が物語を成就させるためのいわば条件(環境)であることが読み取れるので、欠伸をこらえても読み通す必要があるように思った。
エサウから遁走しラバンに仕えるヤコブ、高慢な振る舞いによって兄弟から井戸に落とされ、引き上げられて後エジプトで仕えるヨゼフ、といったふうに物語は回帰するが、物語は再現してかつ変化もしているのである。そこは物語が退屈なものでない秘密があるように思う。
この作品には目頭を熱くさせる場面がいくつかある。これまででいえば、一度目はラケルの死の場面、二度目はヨゼフをエジプトにつれてきたイシュマエル人の長とヨゼフの別れの場面である。ヨゼフは実父ヤコブと、イシュマエル人の長という二人の「父親」の元で過ごしたのだ。ヤコブが理論の教育をほどこしたなら、イシュマエル人の長は処世術も兼ねた社会労働と実践の教育をほどこした。ヨゼフはエジプトでの栄達を助ける素養を身に着けたわけだが、それでも運命は彼に過酷な試練を与えるのは知られた話である。その知られた話をマンがいかに描くか、楽しみにしたい。

それにしても、この作品が質実剛健で重厚なものであるのは今更いうまでもないことだが、翻訳で使用されている漢字も、文の前後から意味はおぼろげに分かるもののその都度辞書を引かねば分からないようなものが多い。以下は私が読めなかった漢字、読めても自分の中で意味があやふやなものである。

乃至は、爾、摩す、宥める、蓋し、齎した、汀、土瀝青、乾溜、籍り、開豁、鈎=鉤、驥足、犇く、惹起、糶り、爛れる、虧ける=欠ける、熄んだ、凋む、羹、抓る、蒜、献酬、裘、腿、襁褓、嚏、嘉賞、汚穢、黍、、榛、掩われ、靡かす、蚯蚓腫れ、賤しい、愜え、殿り、違背、膏、捗々しい、遽しく、昏み、霞む、捥ぎ、嗣子、肯綮、大綱、鹹水、糾明、蒲柳、光耀、灌奠、橄欖、盈虧、膠、頤、掛け毛氈、君侯、碾割麦、碾磑、譴責、粗朶、粗忽、槲、礫、砂礫、紊乱、単綴、曲飾、覿面、肯わす、喧しい、赫々たる、然々、需める、厳か、紺青、燦く、脆弱、懦弱、徒ら、敢ない、夷狄、余燼、防砦、蜿蜒、胸牆、障碍、=怱、狒々、鄭重、払子、瞞着、軒昂、愈々、堂宇、繋縛、仄か、屡、容喙、阿諛、擡頭、憐愍、潺湲、貪婪、羈絆、同衾、啖う、驕慢、縋る、凭せて、呶鳴り、喋々と、扈従、艱苦、辞柄、牡雞、刳る、肯綮、背馳、噤む、違背、嘉納、忽ち、遽しく、、些か、逐電者、奠酒、口誦、怱しい、即ち、悟性、揺蕩う、蘆、葦、桎梏、酋長、圧搾、栄耀、霰、危懼、柳薄荷、縊る、櫓、播種、緡、天鵞絨、繋、淫奔、飢渇、悖徳:背徳、焦躁、疎か、推輓、征旅、媾合、聚落、実罅、跑歩、囲壁、恬淡、桁環、目睫、交叉、鐶、技倆:技量、閲せる、囲繞、隻眼、神苑、都邑、突兀、放縦、自若、坐臥、承けた、雑沓、陋巷、長押、曲柄杖、沼沢、薫香、唱詠、供饌、欣喜雀躍、一梃、舳、旈旗、点綴、権門、櫛比、凝然、舷、枯死、紙萱釣形、楚々たる、輪奐、往還、爾余、蝟集、罷免、讒訴、襞取り、島嶼、大廈、坐輿、嚠喨、無聊、魂消る、挙措、涙嚢、吝か、没薬、馭して、琺瑯、悍馬、揣摩、膳夫、蹲って、疎隔、軽侮、忌憚、首魁、讒言、付和雷同、輻に、経師、臥牛、…。

いじわるなようだが、意味は書かない。
君はこんなのも読めんのか、と言う人もいるかもしれない。逆に今じゃ普段使用しないから覚えるだけ無駄という人もいるかもしれない。ただ外国人から日本語で「健啖家ってどういう意味ですか?」と訊ねられ、日本人の若者が「そんな言葉は日本語にない」と即答してしまうようなことは、このご時勢にあればこそ少なくなって欲しいものだ。



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