デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



先日の雨で散ったかと
思ったが、むしろ見頃は
雨の後だったかもしれない

黄砂も雨で流れたようで
ひさしぶりにスカッとしていた


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やっぱり先日の雨の後に
開花が進んだようだ。


外国人観光客も
相変わらず多い


週末が一番の見ごろだろう


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気温が上がり、一気に
とはいわぬまでも咲いた


本当に外国人観光客が
とても多くなったなぁ。


上から。まだ
三分咲きくらい





絵になってた二人

今日から明日にかけての雨で一気に開花が進んだら、週末にもっと多くの人が訪れるだろうなぁ。


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数ヶ月ぶりに登った

山登りの翌日、数ヶ月ぶりに奈良に行った。平城宮跡から東大寺までジョギングとウォーキングで往復した。

外国人観光客が
とても多かった


南大門



南大門の柱に松永久秀と筒井、三好三人衆の戦いでついた鉄砲玉の弾痕が残っていることを最近知り、じっくり見た。


平城宮跡に着く少し前から
ポツポツと雨が降り出した


朱雀門

いかにも雪の前という空模様だったが、降ったのは雨だった。


朱雀門

大極殿院南門が奥に

大極殿院南門にいらしたボランティアの婦人から声を掛けられた。平城宮跡へは何度も来ているし、またジョギング中の体を冷やしたくなかったので遠慮しようとした。
大極殿も大極殿院南門も朱雀門も当時の姿については分かっていないことも多いこと、また中国の長安の建物の規模やデザインと平城宮跡の復原された建物の違いについて話しているうちに、婦人がなんと中国へ何度も行き、中国の歴史を踏まえての旅を繰り返していることが分かった。
西安や紹興や三国志について寒いなか語り合ってしまった。婦人が行った所は私が行きたい所ばかりだった。
気温が低かったのでずっとおしゃべりすることは叶わなかった。温かい季節になったらまた来てくださいとのことだった。


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塩津園地

三月末だったが、またしても小谷城跡に行った。こちらの絵図でまだ行っていなかった出丸に行くことにした。
琵琶湖の最北の公園の塩津園地で休憩と昼食を摂った。


なにもないけど
ボーっと過ごせる



昼食の後は姉川へ。


久しぶりの小谷城跡



出丸は主郭尾根の最先端にある曲輪だ。


出丸跡の上段の曲輪


登山客も訪れていた


下段の曲輪


出丸は独立した砦となっている。最前線の砦で、城下を見下ろすように設けられた。
今でこそ木々が視界を遮っている部分があるが、曲輪がきちんと整備されていたなら180度見渡せ、たぶん虎御前山の様子もかなりよく見えたことだろう。


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何事かと思ったが


水路にいた

少し前に下の記事


を読んで、鹿ってお辞儀するの?と正直おどろいた。ここ数年何度も奈良公園に行っているくせに、まったく気付かなかった。
もう奈良公園に行っても「鹿せんべい」を買って鹿にやったりしなくなって久しいし、過去にせんべいをやったときに鹿からお辞儀されたことなんかあったっけ?と個人的には思う。私の印象ではせんべいを持っている手に向ってまっしぐらに来るのが奈良の鹿だ。
ただ、「鹿」「お辞儀」などの言葉で検索してみると、観光客を前に鹿が頭を上下に振っている動画が出てくるしそれを見ると、たしかに、まるでお辞儀しているように見える。
記事の中で

「海外ではコロナ禍でヒトが外出しなくなったら、住宅街に住み着く鳥が鳴くようになったなどの報告がなされている。野生の動物がヒトとふれあう中で獲得した行動が、ヒトとふれあわなくなるとどうなるのかという影響にはまだ分からないことが多い」

と語られているが、まさにその通りだなと思う。人間もコロナ禍にあって他人と触れ合わなくなってどうにかなってしまったような人もいたことだし。


鹿にとってみれば人間社会の
コロナ禍の騒ぎなんかどうだっ
ていいことだったろうなぁ。


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東寺へ

毎月21日に開かれる東寺の弘法市(こうぼういち)に行ってきた。随分前にも行ったことはあったが、市で扱われている品よりも日本初の密教寺院である東寺の建物に関心があった時期だったので、市を楽しんだのは今回が初めてだ。
南大門への幅が広い歩道にもこの日だけは露店が出ているので、向かいから来る人と少しすれ違うのに気を遣うがマナーはきちんと守られていた。

南大門

弘法市

たまたま日曜日ということもあり、多くの人出で賑わっていた。暑い中にもかかわらず、老若男女、日本人・外国人問わず本当に人が多かった。
グラスも含め陶磁器を扱う屋台、食べ物の屋台、植木の屋台、古着の屋台、骨董品の屋台、仏具を売る屋台もたくさんあって、とても充実していたが、一店一店足を止めたくなるし目移りするし、とても疲れる(笑)。境内および門から外に伸びる屋台を一通り見るだけでも1時間かかった。

陶磁器の種類も豊富だ

家の茶碗が割れてしまったので、今回の弘法市では新しい物を買うと決めてきたので置いてある品をじっくり見た。
店もいろいろ、値段もピンからキリまでいろいろだ。値札に10万円とあるさして大きくない陶磁器(明朝や清朝や朝鮮王朝時代の李氏朝鮮舶来品と謳っていたりする)もあれば、丹波篠山の陶芸まつりで見たような2000~3000円の茶碗、2000円くらいだろうと思えるような茶碗でも横に難しい字が書かれている木箱が置いてあるような品は45000円だったり、3つで500円の茶杯も置いてあったりする。
特に高価な値がついている品が足元にも置いてある店を見て回ったときは、うっかり触れて壊さないかどうか細心の注意が必要だった。屋台で見られる値が、それそのものの動かしがたい価値なのかは結局のところ分からないのだが、気を付けるに越したことは無い。
市では薄汚れた形でぞんざいに置かれているにもかかわらず、年代物の中国製と思わしき陶磁器もよく見かけた。白地に青で模様や人物や動物が描かれているので、「掘り出し物かもしれない」と淡い期待を抱かせる魔力もある。
陶器と磁器の区別もできない私がいうのもなんだが、もとは二つで揃いの一式だったり、セット売りだったものが様々な理由でバラになって、それが巡りめぐって市に出てきていて、仕入れ自体はタダ同然のものが1枚2000円で並んでいるようにも見えたりした。

品定めをしていると店の女将さんや主人としゃべることになるが、とある店でいろいろ兼用ができそうな500円の焦げ茶色の茶碗を手に取って見ていると、女将さんが堂々と
「どこから出てきたもんか分からへん代物(しろもの)」
と笑いながら声を掛けたきたのには私も笑って返事するしかなかった。たぶん、国内のどこかの窯元で作られた物だろうけど、まさかの舶来品かもしれない(笑)。どこどこの由緒ある品などといわず、「気に入ったら買って」とサラッと屈託なく声を掛けられると、かえって他の茶碗および並べられている品に引きつけられるところがおもしろかった。

また別の店では、横で店の主人と客の婦人のやりとりに聴き耳が立てざるを得なかった。
それは、一見するとそれなりに高そうに見える陶器があって、婦人が買う旨を伝えたら店の主人が
「これはどこどこの窯元の名をはせた職人の一品物の一つで4000円でも安い。扱ってるのはこれしかない」
と言うと、婦人がお碗の一部(底の部分の高台か畳付き?)がほんのちょっと欠けているのを見つけ指摘したら
「だったら、2000円ー♪」
と店の主人が悪びれもせず惜しげもなく言い放つ、新喜劇や漫才かよと思わせるような場面だった。
仕入れ値いくらなの?と横からツッコミたくなったが、逆に私が婦人の立場だったらいいカモだ。怖えー(笑)。内容的には異なるが、落語の「道具屋」や「壷算」みたいと思った。

めぼしいものをいくつか頭の片隅に置いてじっくり検討し、結局南大門から入って右に店を構えていた大阪から市に出店している店に置いてあった茶碗を買った。
後日、DIY用品や日用品を売っている店の大量生産品の茶碗を手に取ってみると、なんとなく違いが分かるようになった気になった。でも、何も知らされずに格付けチェックの要領でAかBか選べといわれたら、すぐに馬脚を露してしまうだろう。


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福寿丸の説明



山崎丸と同様、元亀3年(1572)に朝倉軍が最新の城郭技術を用いて直した城郭で、ここを守護した木村福寿庵にちなんで名づけられた。


いかにも人工的だ















大嶽へは行かず、引き返した。

「またごんせ」と
メッセージが。

画像では判読できないが、またごんせの「ごんせ」は湖北の言葉で「来てね」という意味と書いてあった。





帰りも害獣が出ないように
きっちりと閉めてから出る

下りてきた道を振り返った


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さらに登る


こういうの、いち来山者
としてはうれしいものだ。


道が無いように見えるが
きちんと分かるようになっている





福寿丸




読めん(笑)


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山崎丸へ。ひたすら登る。





着いた



大嶽(おおづく)の方の山は小谷山だが、山崎丸があるのは尾崎山である。山崎丸は山の中腹に据えられた。








山崎丸跡



1573年7月、朝倉義景は浅井長政に加勢するために1万5千の兵を率いて一乗谷を出陣し、8月にはここ山崎丸に布陣して、虎御前山城の織田信長と対峙したという。











山崎丸の名は、ここを山崎吉家が守ったことに由来する。


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