デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



世界遺産ゆえエアコンは設置されていない。
一月の天守閣内はやっぱり寒い(笑)。






槍などの武器を掛けておく武具掛け



分かりづらいが弓矢や鉄砲の弾を筒や袋に
入れて吊り下げておく壁掛け(フック)がある












梁はとても太い


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なかなか天守閣までたどり着けなく感じた






ようやく入口



400年前から使われている階段と説明があった






朝に天守閣を仰いだ三の丸(真ん中の丸い広場)が見える。
かつてここに御殿が建っていたのだが、明治以降に陸軍が
兵舎を三の丸に建てる際に、御殿を解体撤去したそうだ。


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敵の侵入に強そうな門だ



敵に鉄砲を向ける櫓のみならず万が一侵入を許そう
ものなら櫓から石を落として敵をシャットアウトする
仕掛けになっていたとTVで言っていた気がする。









守りの堅そうな門がいくつも続く


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菱の門



桜が咲いたらさぞかし絵になるだろう






狭間(さま)が高い位置にある







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雲が晴れないのでいまいち白さが際立たない



画像では分かりづらいかもだが
石垣と櫓はかなり高いつくりだ。




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トマス・ピンチョン作(佐藤良明 訳)『競売ナンバー49の叫び』(新潮社)読了。

昔、少しだけ関係を持った男が亡くなり、その男から遺言執行人に指名された女性が主人公である。遺言執行のすべての過程があらゆる点で思わせぶりで、謎めいている体の性質の悪い悪戯かもしれず、彼女の前に現れる人物やものごとは意味があるようで結局何も言っていない戯言の集積のように思えたりするものの、彼女が訪れる土地にはその土地なりの誰も疑いを抱かないルールや力学が漫然と存在していて、あれよあれよという間に遺言執行への手がかりが喪われていく…書いてあること自体は決して難しいわけじゃないが、正直読んでいて大変困った気になった(笑)。
文章はいたって平明、私などが解釈をしなくてもよく深く考えなくとも見ただけで笑えるような文章で、文学臭漂わない感じだ。昔の喫茶店に点けられているTVの音声がなぜか頭に入ってくるようなものかもしれない。
妙なことにテクストの内容を手でしっかり掴もうとするとスルリとかわされて、不確かなものがあることだけは確実に分かるというモヤモヤ感覚が残るというか…。とはいえ、作品に出てくるものごとが、あたかも現実世界の性質を表していないのかといえばそうでもないところが面白い。たとえばアメリカの建国から現代へ発展する過程で秘めておきたいような裏事情が遺言執行への旅に彼女の前に顕われる様は現実のアメリカには起こりうることのように感じられて非常に興味深い。
こんな風に書いたものの、全体として釈然としないと感じるのは事実だ。不確かさへの嫌悪を抱いて読むような私のような読者には、結末の不在のみならず作中の自己の認識を疑わせるものも混然となって襲ってくるダブルパンチを食らった気になる(笑)。
なんだか私にとって『競売ナンバー49の叫び』は読者を煙に撒き、述べようとする感想の内容をトートロジーに陥らせる作品だ。たぶん作品内に散りばめられたキーワードや語呂合わせから深読みもできるのだろう。ただ深読みを試みたところで肩を透かされ、嘲笑われているような感じしか残らないのではないかと思った。

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桐紋だ。












入城は9時からだった。
早く来すぎたようだ...。


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前回の記事の場所から国道を車で1時間も行かない所に姫路城がある。


駐車場から南に5分歩いたら、鯱のレプリカがあった。



堀の幅も広い












大手門の前で8時40分ぐらい
だった。寒さがきつく感じた。



朝なのでまだ店は開いていない。


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ドラマでも映画でも過去の時代を再現するのに時代考証は避けて通れないし、過去だと鑑賞者に思わせるにはかつて町の風景に溶け込んでいたものを画面に登場させるのが最も手っ取り早くかつ基本だろう。
郊外や田舎町でホーロー看板を目にしたりすると懐古趣味的な気持ちになり、できれば再開発しないでほしいなどと勝手な思いを抱いてしまうのだが、先日、朝早くからドライブに出かけた際の国道沿いで画像のコンビニでトイレを借りたときに、この看板見て、これも将来的に過去の時代を表現するものになりうるのだと思った。そして何の変哲もないものなのにカメラのボタンを押してしまった。

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現代の飛騨と東京を舞台に二人の高校生が時空を超えてめぐり合うファンタジー作品。昨年の大ヒット作でありブームになった。
私は正月にテレビで放送された分を録画して鑑賞したのだが、時系列が整理できず、二回目の鑑賞でようやく分かった(気になった)。
日本のアニメも作り込みがすごいものはすごいなと素直に思った。伏線の張り方も見事だし、見ていて釈然としない点もファンタジー作品ならではの巧みな処理がなされていて上手いと感じた。
ただ、いっちゃなんだが、私の周囲の人と作品について話してみて

誰そ彼、これが黄昏時の語源ね。黄昏時は分かるでしょ?夕方、昼でも夜でもない時間、世界の輪郭がぼやけて人ならざるものに出逢うかもしれない時間。

ムスビって知っとるか?土地の氏神様をな、古い言葉でムスビって呼ぶんやさ。この言葉には深い意味がある。糸をつなげることもムスビ(結び)、人をつなげることもムスビ、時間が流れることもムスビ、全部神様の力や。わしらの作る組紐もそやから神様の業、時間の流れそのものを表しとる。寄り集まって形をつくり、捻じれて絡まって時には戻って途切れ、また繋がり、それがムスビ。それが時間。

水でも米でも酒でも人の体に入ったもんが、魂と結びつくこともまたムスビ。

口噛み酒やさ。ご神体にお供えするんやさ、それはあんたらの半分やからな。
作品で語られる上のセリフを聞き逃していたり頭の片隅に置かないままだと、この作品内の氏神様による神秘的で不可思議なストラクチャー(構造)と理(ことわり)を理解できないし、おそらくこのあたりのことを整理できてないまま初見で終わっている人も少なくないのではと思わざるを得なかった。
昨年、作品を見た人の多くが「泣いた」という口コミを耳にしたが、私には上のストラクチャーを忘れ、かつて読んだことのあるような物語の進行を思い出したり自分の若かりし頃の夢想や情熱を彷彿とさせる場面で思い入れが強くなってしまったことから、我を忘れて感動し涙したのではと思えた。
作品として公開された以上、作者の手を離れてしまったら作品は鑑賞者のもの、鑑賞者が「自分のもの」としていかようにも見ることができることに対し異を唱えるつもりはないが、見終わったカタルシスのみで「よかった」だの、未だ名も知らぬ運命の相手とつながっている赤い糸だの、時空間を超えての一途な愛だの、といったフワフワっとした一言で作品の感想として終わらせてしまうのはもったいない気がする。


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