今回旅メイン企画その2・・・・5日はやはりバスで読谷村に向かった。120番線(名護西線)は乗りなれているが、読谷「伊良皆(いらみな)」から読谷バスターミナル方面にまがる28番線は初めて乗るかも?
58号線を走るとやがて、走っても走っても米軍基地となる・・・
普天間・キャンプ瑞慶覧・キャンプ桑江・嘉手納飛行場と、快適にバスは走っても、基地が続くのである。
読谷でのメイン企画は「艦砲ぬ喰えー残さーの碑」そして「不戦・返還の碑」の見学(これは俺が行っていない)だが、途中寄り道で、女房が行っていなく見たい場所や、通り道の戦跡・史跡も見学した。
バス停を降り3分・・・女房を案内して勝連城主「阿麻和利(あまわり)」の墓を訪ねた。
琉球が尚氏に統一される寸前、2つの大きな対抗勢力(まあ、戦国大名と考えればよい・・)があった。首里の尚氏に対し・中城の護佐丸・勝連の阿麻和利である。勝者の記録は、謀反人だが、彼らの治めた地方では誇り高い英雄と語り継がれている。2つの勢力の台頭を恐れた首里王朝が排斥し打ち破ったというあたりが、事実だろう。1450年代末のことだ。
追われた阿麻和利が打ち取られた読谷に、家臣が埋めたであろう粗末な墓がある。自然洞窟だったか?ブロックで塞いだのは、明治以降であろう。
畑にはもう、こんな大きなナスが植えられている。さすが、温かい場所だ。
さて、メイン1にやってきた。こんな碑があるのを知ったのは、今年に入って間もなくだ。
読谷村は「歌三線」の創始の地である。今も古典音楽や民謡が盛んな地だ。
「艦砲ぬ喰え―残さー」の作者である比嘉恒敏(1917・・1973)は生涯を通し、歌三線の道を歩み、4人姉妹に厳しい稽古をつけ、姉妹民謡グループ「でいご娘」を育て上げたのだが・・・
その戦と生涯を知って、どうしてもこの碑を見たいと思ったのだ。
読谷村は米軍が本土に最初に上陸した地である。その戦の悲劇は比嘉の悲劇的個人史に重なる如くである。
戦時中は出稼ぎで大阪だったが、大阪空襲で次男と妻を失う。
戦後は読谷にひきあげ再婚する。時計の修理工をしながら、青年たちに歌三線を教え、先の娘たちを鍛え「でいご娘」を誕生させる。
1973年演奏を終えた比嘉一家の車に、酔っぱらった米兵車両が追突し、妻は即死・・比嘉自身も4日後に亡くなるのだった。
生きながらえた自分を「艦砲射撃の喰い残し」と歌うこの歌は、まさに見事な反戦歌・・フォークソングだわな。
碑の傍らにオーディオ装置があって、ボタンを押すと、でいご娘のこの歌が流れてくるのだった・・・・
沢山の軍艦が押し寄せて・・・と、書物で読んでも、現場に立つとわかることが多い。
この碑のすぐ東は、「トリイステーション」と呼ばれる米軍基地だ。返還協定での使用目的は「通信所」となっているが、嘘っぱち。米軍の西太平洋地域における戦略通信網の最重要施設で、在沖米陸軍の上級司令部である。世界に張り巡らした通信・傍受・宇宙衛星の管制など行っている。基地の護衛と称し、グリーンベレーも駐留している。
階級の低いものはお金がないので基地内で暮らす。階級高く、お金がある将校たちは、門限や様々な規制を嫌い、いわゆる日本人地主が経営する「外人住宅」で暮らす。
ここ読谷では、基地周辺に米軍住宅がたくさんあって、みんな新しいねぇ・・・・
岸壁に空いた「ガマ」の入り口・・・
特攻花も咲いている。
読谷生まれの「歌三線」の始祖・・「赤犬子(アカインコ・アカヌクー)」の墓も、碑の対岸に鎮座する読谷村。
本日の2つ目のメイン。読谷村役場に続くT字路。車が行きかう道・・その奥の赤瓦の建物が、読谷村役場だ。その両脇にある、読谷村の心意気を感じる碑にやってきた。
ゆっくり見たことがなかったので、今回はしゃぶりつくそうと、やってきた。
役場に向かって右に「返還の碑」が広場に広がる。村の中心にあった読谷飛行場は60年余りにわたり基地として使用され村づくりの障害であった。
その返還への歩みが、粘り強い返還交渉などが、円を描いて、読みながら学べるようになっている。
そして、不戦の誓いが、反対側の広場に並んでいる。固い固い誓いだ。
日本で一番人口の多い村・・・天晴!であった。
帰りは、58号線の「喜納」バス停から那覇を目指した。
58号線の東側は道路に接して「嘉手納弾薬庫」が2市1町2村(うるま市・沖縄市・嘉手納町・読谷村・恩納村)に広がっている。果てしなく広大な一等地だ。たくましき農民は、その本来の持ち主の土地だと、作物を育てている・・・
いわゆる「黙認耕作地」である。
さて、長い、取り留めない記録になったが、先の「艦砲ぬ喰え―残さー」・・興味ある方は聴いてほしい。
14日の2m圏内接触者。
*打合せ・・4人。
*立ち話・吉・高・内・3名。
*濃厚接触・・・1人。