館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

ミッキースペシャル・2019秋の沖縄・・本島に米軍上陸。

2019-11-26 04:38:36 | 旅は続く


美しい島だった。島影を背に受けて、10時出発、11時着の高速船は那覇を目指して海原を跳ねるように進む・・・



11時に泊港で、いつもお世話になるOさんのタクシーが待っている。島の個人タクシーは、多くの研修を受け、ガイドの勉強もしているので、安心なのだ。
僕は2人の個人タクシーと知り合いなので、事前に行程表など渡し、打ち合わせを済ませてある。長い付き合いなので、料金も安い。この日は11時から6時までで17000円。
1人当たりなら、4千円とちょっとだ。

写真・沖縄の大きな墓について、ミッキーに教えているの図。



3日目の行程は、1・本土上陸の地「読谷村」を体感・そして今に続く米軍基地を回る。2・文化遺産も立ち寄る。である。

まずは米軍の本土上陸地点、渡具知湾と比謝川を見学。

1945年4月1日、夜明け前の午前5時半。読谷・渡具知海岸に猛烈な艦砲射撃が開始された。約20分間で12センチ砲以上が4万4825発、ロケット弾3万3千発、迫撃砲弾が2万2500発が撃ち込まれ、午前8時半、ついに米軍が上陸した。
沖縄本島に米軍が初めて足を踏み入れたその地は、人口約1万8千人、沖縄本島の中部の西海岸に位置する読谷山(ゆんたんざん)村(現・読谷=よみたん=村)。爆撃に巻き込まれ、亡くなった村民たち。着の身着のまま逃げ回り、飢えにあえぎ、命を落とした村人。避難したガマによっても運命が分かれた。チビチリガマでは「集団自決」(強制集団死)で多くの犠牲者が出た一方、シムクガマではほぼ全員が助かった。

この事態を、従軍記者・アーニー・パイルはこう発信している。

米軍、沖縄本島上陸「ついにわれわれは、沖縄に上陸したのだ。しかも1発も弾丸もくらわず、足を濡らしもしないで」「おまけにわれわれは、砂浜に座り込んで、七面鳥の羽をしゃぶったり、オレンジ・ジュースを飲んだりしたものだ。それは、まるでピクニックのようなものであった」(従軍記者アーニー・パイル)





腹が減っては、戦は出来ない・・・12時をとうに回って、読谷で有名な店に入る。花織そば(はなういそば)だ。

運転手のOさん含め3人は、わらじのような「とんかつ定食」・・わしゃ、花織そば!
沖縄から帰ったら、体重が増えた諸氏が居るようだが、俺は1キロ減った。この食べ物が物語る・・・・




やがて、その「チビチリガマ」にやってきた。




そして、案内が不親切極まりない「シムクガマ」と、見学。




確かに、チビチリは立つだけで、空気が重いが、シムクは安心して、訪ねられる気がする。



近いので、ミネさんせいごうさんの行っていない、沖縄の世界遺産「座喜味城址」にやってきた。
ミッキーにも、この沖縄中世の、見事な築城技術と、民族の力を見てほしかった。




1400年代の沖縄の城跡・グスクだ。ここで、この築城をした「護佐丸」について語ると、見事に長くなるので割愛する。
琉球王朝が尚氏によって統一される1500年代、彼なしに語れないとだけは記しておく。面白い時代だ。




次の目的地の途中だったので、Oさんと打ち合わせていない、ここに、突然止めてもらった。
読谷村役場だ。門柱・役場に掲げられた」「心意気」だけで、圧倒される。



庭には、「トックリキワタ」の花が咲いていた。せいごうさんは「トックリキワタ」の唄を作ったらしい・・・聴きたいものだ。



さて、行程の「安保の見える丘」・・・「道の駅・嘉手納」にやってきた。
まずは、俺はここに連れてゆく!海洋貿易立国・琉球なのだ。

嘉手納町・・・野国いも宣言。1605年、我が町の先達・野國總管によって中国福建省からもたらされた甘藷は、野國總管生誕の地・野国を発信基地として琉球の全ての村々へ、そして、薩摩を経て全国へと広まり、人々を餓えや飢饉から救い、全国民が等しくその恩恵に浴することになりました。今日、甘藷は未来を希求する健康食品として注目を浴びております。甘藷伝来400年の節目を迎える2005年、野國總管の偉業を奉祝する「野國總管甘藷伝来400年祭」が全町民の手により挙行されました。この慶賀を機に、我が国における甘藷発祥の地・嘉手納を全国に広く発信するとともに、野國總管を称え、甘藷を「野国いも」の愛称で呼ぶことを高々と宣言します。

なんだよ!1600年の夜明け・・薩摩藩は琉球を侵略し、支配下に置き、貿易奪い・過酷な税を取り立てる。中国から手に入れ、沖縄で広まった甘藷は、薩摩に持ってゆかれ、名前さえも「薩摩イモ」と奪われた。

写真、その「野圀總管」の銅像の前のミッキー!



展望台からは、パノラマでない限り収まらない広さの「嘉手納基地」が目の前だ。





次にやってきたのは、運転手Oさんが、行ってみますか?と声をかけてくれた、米軍の娯楽施設にして、まぁ、日本人にも開放されている「知花ゴルフクラブ」だ。
俺も初めてで、コース・ドッグラン・そしてクラブハウスにはゴルフ関連の売店・ファストフード・そして・・・・・スロットを備えた博打場とあった。
せいごうさんはスロットを試みるも、ドルで購入し、ドルでしか返ってこない(ドルと言う現金は行きかう・・・一攫千金!!!)のであきらめる。

そして、トイレのきんかくしは、背伸びしないと出来ない高さであった・・・





この日の終盤目的地・「佐喜眞美術館」にやってきた。しばし唖然!
丸木さんの「沖縄戦の図」がここにあるのだが、全14部を観るには5年はかかる(年ごとに入れ替える)。それがまぁ・・今回は特別展で、一挙観られるってんじゃないかようぅ・・わしゃ、4・5年かけて全部見たのに、どうも、連日の晴れといい、ミッキーは島向きなのかもしれない・・・(ちょいと悔しい)。

あのチビチリガマとシムクガマの対比を描いた「読谷村三部作」も堪能したらしい・・(俺は何度も見てるので入らなかった)。




さて、旅最終版のところにやってきた。
普天間のヘリが墜落し、日本の警察も入れさせてもらえなかった「沖縄国際大学」のい墜落で焼けた「アカギのモニュメント」だ。

こうして、この日は沖縄戦開戦の入り口に立ったのだ。やがて嘉数の激戦・首里大本営陥落・南部敗走と女子学徒隊の悲劇・さ迷う住民の投身自殺などなど・・まだまだ、沖縄戦だけでも奥はずっと深いのだ。きっとミッキーはそれらを、これから体験・学びと行動を起こすだろう。そして、歌に昇華してゆくに違いない。



ホテルに戻り、2時間半の長い休憩、自由時間を宣言・・・・さすが3日目だ、疲れを癒し夜の那覇だぜ。



目当ての店は、改装または移転はたまた、廃業したのか・・・閉まっていた。看板もなかった・・・
こうなると、飛び込みしかない・・・なんせ、僕のゆく店は、ほとんど観光客相手ではないので、日曜は休みなのだ・・・




沖縄・・・店の売りは十勝の焼き肉・・ふと、北海道海坊主の北見でいつも食べる「焼き肉」がよみがえり、この店に入った。

そこで俺は、あの肉大好きのせいごうさんは「モツ」は苦手と知る!!!!

モツは旨い・・・美味いったら、うまい!

せいごう「ちゃんとした肉食べようよ~~」の声が響いた。



満腹になって・・・こやつらがこのまま終わるわけがない!

桜坂社交街を物色しながら歩き・・・・



おばぁスナックに消えて行ったのだった・・・・

俺は、おとなしくホテルに帰って、爆睡!

明日帰らねばならないので、悲しかった・・・・
コメント (2)
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