館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

沖縄2014年梅雨明けの旅その2・・集団自決の島「渡嘉敷島」を訪ねる。

2014-07-07 06:23:45 | 旅は続く


今回の沖縄旅は2つの大きな目的があった。その1つが「集団自決で悲惨を極めた渡嘉敷島」に渡ることだった。
27年ぶりに定められた国立公園・・その、慶良間諸島にある島。隣は座間味島だ。
座間味は毎年のように行っているが、渡嘉敷はなんとなく敷居が僕には高かった・・・・

たぶん、あの大江健三郎氏の「沖縄ノート」の記述を巡って「集団自決の軍の命令は無く、名誉棄損だ」と、座間味出身の島の指揮官と渡嘉敷出身の指揮官の遺族が起こした裁判・・が、原因だと思っている。うかつに、観光できない・・・その裁判は、2011年に大江氏勝訴で最高裁で結審したばかりであった・・・



下見を兼ねて日帰りにした。高速船から貸バイク屋に電話しバイクの予約を行う。時間も打ち合わせたが、行ってみると外出中・・ここら「てーげー」なのが沖縄なのだ。



離島らしい光景・・・ヤギ(ひーじゃー)に和むのだった。
これから6時間、バイクで戦跡を巡る旅なのだ。

港は島の東にあり集落がある。島を縦断する山を越え西に向かうと2つのビーチ・2つの集落がある。ほとんどが山で、海に面したわずかな平地に集落があるのだった。



港からほどなく「白玉乃塔」・・・あの戦争で亡くなったこの島の人々を慰霊建立されたものだ。




3月23日・・数百隻の艦隊が取り囲み、砲撃を行う・・・26日に座間味に米軍は上陸・・・27日には渡嘉敷に上陸だ。
そして、集団自決が始まるのだった・・・

狭小なる沖縄周辺の離島において、米軍が上陸直前又は上陸直後に警備隊長は日頃の計画に基づい
て島民を一箇所に集合を命じ「住民は男、女老若を問わず軍と共に行動し、いやしくも敵に降伏するこ
となく各自所持する手榴弾を以て対抗できる処までは対抗し癒々と言う時にはいさぎよく死に花を咲か
せ」と自決命令を下したために住民はその命をそのまま信じ集団自決をなしたるものである。(出典・沖縄県生活福祉部援護課:戦闘参加者概要表より)



日本軍の本部のあった壕や、集団自決の跡地などは、戦後米軍のミサイル基地になっていたが、やがて返還され、広大な敷地に今は「国立青少年交流の家」として立派な施設が立ち並んでいる。その施設にへばりつくように、いくつもの戦跡を訪ねる事ができる。施設に入り、職員に僕が事前に入手した戦跡の地図を示しながら、正確な場所を聞くと、親切にここのパンフにのっとって教えてくれた。




亜熱帯の森の谷に向かって、本部壕はあった。




見事に整備されていて、やや心配なのはハブだけであった・・・集団自決の場所は、この谷を進み、やがて尾根に出て、そこを下った谷間にあったらしいと、やがて分かる。







ゲートはあるが、自分であけて、自分で閉めて欲しいと、職員に言われた。折り鶴や花束の新しさは、数日程度の間で、訪れた人たちを物語っていた。




教育委員会の書いた集団自決のさまが掲げられている。
米軍は女子は強姦し、拷問で男子は殺されると聞かされたが、収容された住民は、彼ら米軍が治療を行い・食料を与え・避難場所さえ与えたのに驚き、自分の娘を絞め殺した老人は、他の女性が危害を加えられず、親切な扱いを受けているのを見て、悔恨の情にさいなまれていた・・と書き記してある。

国家のシステムとして、鬼畜と教え、東条の訓令で「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」と命令を受けて・・・だからこそ「集団自決」の惨状となったのではないか?

軍の関与は無かったなど、ばかばかしい自己弁護に過ぎない。同じ論理が「従軍慰安婦」でもまた、使われている。




場所には、あきらかに、まだ「気」が残っていると、僕は感じた。



ここも集団自決があったという場所に次に行った。ただの荒地だったが、そこからの住んでいた集落の眺めは、悲しかった。



港の集落に戻り、次の戦跡に向かった。渡嘉敷島には、既に戦闘がすんだ伊江島から、米軍によって連れてこられた住民がたくさんいた。そんな伊江島が、戦後渡嘉敷村民の交誼に感謝し建てた物だ。



港の集落から、山越えの道を進み、西の2つの集落に向かう。途中、見事な美田地帯に出くわす。
谷から広がる谷地はコメや田芋が豊作だった。ここ、渡嘉敷は田芋の有名な産地であった。



渡嘉敷は、特攻隊の基地だ。船で爆弾を積んで体当たりという、人類史で考えられた戦法で、一番おろかなものの、基地であった。
まずトカシクビーチのある集落。

特攻艇を隠した洞穴など保存されている。




かなり大きい穴だ。



ゆうなの花が咲き乱れていた。

笠木氏のうた「みんな生きている海」に歌われた花だ。

♪海と空と太陽 金色の黄昏 オレンジに染まる 黄色いアダン はなやかに燃える ユウナの花 皆生きている森 サンゴ礁の島 ♪



トカシクビーチから次の集落「阿波連地区」に向かう。一番観光客でにぎわうビーチではなかろうか?
その向かう途中に「戦跡碑」というのがある。

その碑文は、曽野綾子が書いたものだが・・・こうである。

「敵の手に掛かるよりは自らの手で自決する道を選んだ。一家は或いは、車座になって手榴弾を抜き或いは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは愛であった。」

愛などという美辞で、集団自決の真実から目を背けさせるに、頭を使ったに違いない。まあ、軍の関与を否定したい人々が建てるってこともあるわな・・・そういえば長谷川三千子というNHKの委員が、右翼の自殺を褒め称えたが、なんだか似てるねぇ・・と思った次第。



ビーチは賑わっていた。昼飯を食べようとここ阿波連にやってきたのだった。3時間バイクに乗り、先の戦跡を這いずり回り、刺す様な紫外線で、干からび状態だった。生が沁みた!!!



カリッと揚がったとんかつ定食はいけた。
しばし休憩し、今度1泊で来るつもりなので、民宿など物色。どうも、ストライクは無かった。

港に戻るべく、周回道路になっている林道を進んだ。





しかし綺麗だ。さすが「ケラマブルー」だ!




むき出しの地層には必ず立ち寄る・・・僕は地層が大好きなのだ。1時間見続けても飽きないのだった。



コケだろうか?こういうやからも、種類が多く、深入りしないようにしている・・・





さて。港近くなって、最後の戦跡「アリランの碑」にやってきた。




これは日本人のあのときの忘れてはいけない仕業だぜ。




波止場に戻り、バイクを返すまでに時間があったので、引き潮のリーフを探索した。
取り残された潮だまりには、たくさんの生物が居た。

小さな魚・やどかり・カニ・・・そして写真の黒いなまこや黒いヒトデだ。
時間が有ればたくさんの潮だまりを見たかったぜ!



貝化石と大きなヤドカリ君な。



いよいよ帰りの高速船の時間が近づいていた。

35分で那覇なのだが、実が朝はその35分で船酔い気味だった。

で、売店では何と!1回分の酔い止めを売っていたのだった。

早速飲んだ。おかげでか?帰りの船は酔わなかったのだった・・・・


長い旅日記・・・完読の方・・・わしゃ、抱きしめたぜ!
コメント (8)
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